芦田が新津田沼から京成の松戸線に乗るのは、夜の十一時を回ってからが多い。
勤め先は駅の裏手にある、小さな事務機器の会社だ。
コピー機や複合機を貸し、壊れたら直しに行く。
ミーナ津田沼の裏の雑居ビルに、机が六つ並んでいる。
六つのうち、夜まで灯りがつくのは二つだけだ。
家は八千代台にある。
京成津田沼まで一駅だけ松戸線に乗り、京成本線に乗り換える。
歩いても十分ほどの距離らしい。
膝を痛めてから、芦田はその十分を電車に任せていた。
三十八になって、階段の下りがつらい。
定期もある。
歩く理由のほうが見つからない。
事務所からホームまでは、イオンモール津田沼の明かりを横目に五分ほどだ。
夜はシャッターの下りた店の前を、同じ靴音だけが追いかけてくる。
自分の靴音だと分かっていても、たまに振り返る。
九月の終わり、棚卸しで帰りが遅れた。
倉庫代わりの小部屋で、トナーの箱を数え直す仕事だ。
数が合わず、三度数えた。
終わったのは十一時前で、後輩の栗原が一緒だった。
二十六で、休みのたびに山へ行く男だ。
平日も濃い緑のザックを背負って出社する。
中には納品書や受領書の綴りが入っている。
鞄を二つ持つのが嫌なのだと、前に聞いた。
その綴りを栗原に渡したのは、芦田だ。
「芦田さん、今日も電車ですか」
「膝がな」
「じゃあ付き合います。京成津田沼のほうが家に近いんで」
新津田沼の二番線に、十一時二十三分の電車が入ってきた。
二両目に乗る。
客は五人もいない。
芦田は進行方向の左側、窓を背にした長い席に座った。
栗原が隣に腰を下ろし、ザックを膝に抱える。
防水スプレーの匂いが鼻に来た。
扉が閉まる。
電車はすぐに右へ曲がり、左へ戻る。
松戸線の線路は、ここで大きく蛇行する。
車輪が鳴いた。
金属を擦り合わせた高い音が、床から足の裏に伝わってくる。
そのまま総武線の上へ出る。
鉄道連隊が架けたという、古い跨線橋だ。
大正の地図にもう載っている鉄骨が、いまも松戸線の電車を支えている。
窓の下で、総武線の線路が四本並んで光っていた。
「五本ぶん架けてあるんですよ、この橋」
「四本か五本だろ」
「昔の人が、先を見て広く架けたんですね」
栗原はこういう話が好きだ。
千葉工業大学の門が兵舎の門だったとか、線路が曲がるのは訓練の名残だとか。
山で覚えた知識を、街でも拾ってくる。
芦田は聞き流して、首をねじって窓の外に目をやった。
欄干の向こうに、津田沼の駅ビルの灯りが低く見える。
「あ、風船ですよ」
栗原が指をさした。
隣に並ぶ市道の跨線橋の欄干に、銀色の風船が引っかかっている。
紐が街灯の柱に絡んでいるらしい。
風に揺れて、こちらの窓の高さまで浮いてきた。
「誰が落としたんだろうな」
「下の歩道からじゃ届きませんよ、あの高さ」
橋の上の歩道に、人影はない。
街灯が三つ、等間隔に並んでいるだけだ。
風船は真ん中の街灯のそばで、こちらを向いて揺れていた。
風船に向きがあると思ったのは、そのときが初めてだ。
橋の上は一分もかからない。
電車は下り坂へ入り、京成津田沼のホームに滑り込んだ。
立ち上がった栗原が、ザックの口を見て首をひねる。
「開いてる」
「閉め忘れたんだろ」
「閉めましたよ。癖なんで」
雨蓋のバックルが外れ、口の紐がゆるんでいた。
中の綴りは無事だ。
栗原は紐を締め直し、改札へ歩いていった。
芦田は京成本線のホームに降りた。
手すりの鉄が、夜気で冷えている。
次の電車まで十分ほどあった。
ベンチで待ちながら、携帯で運行情報を開いた。
総武線が遅れていた。
二十三時二十六分、津田沼駅付近で線路内に人が立ち入ったため。
芦田には関係のない線だ。
画面を閉じた。
二日後も、同じ電車になった。
谷津の歯科医院へ複合機の部品を届けに行き、留守で持ち帰った日だ。
栗原のザックには、受領者の欄が空いたままの受領書が入っている。
明日もう一度行く。
そういう話を、ホームでしていた。
「一昨日の、開いてた件ですけど」
「ザックか」
「家で見たら、中の物の順番が変わってたんです」
綴りの上に手袋を置いたはずが、手袋が一番下に沈んでいたという。
栗原の言い方は軽い。
軽いまま、芦田の返事を待っている。
「揺れたんだろ。あのカーブで」
「ですよね」
それで終わりにした。
十一時二十三分。
二両目。
同じ席に座る。
栗原はザックを膝に置き、今度は雨蓋の上に両手を乗せていた。
わざとらしいほど、しっかりと押さえている。
「今日は開きませんよ」
「開くわけないだろ」
車輪が鳴き、電車が跨線橋へ上がる。
芦田は窓の外へ目をやった。
風船はまだあった。
欄干の、同じ場所だ。
二日経っても萎んでいない。
街灯の光を受けて、表面がぬるりと光る。
「赤いの、まだありますね」
「赤?」
「赤でしょう、あれ」
芦田には銀色に見えた。
言い合うほどのことでもない。
口を閉じた。
窓に、腕が映っていた。
黒い袖の腕が、窓の下の縁に沿って横に伸びている。
芦田は自分の腕を見た。
膝の上にある。
栗原の腕は、ザックの上だ。
吊り革の影だろう。
蛍光灯が揺れて、影が長く見えただけだ。
そう思って、もう一度見た。
腕はない。
欄干と風船と、自分の顔が映っているだけだ。
首の後ろが、冷房とは別の冷え方をしていた。
京成津田沼で降りると、栗原がまたザックの口を見ていた。
「また開いてますよ」
「今度は見てただろ、お前」
「見てました。手も乗せてました」
栗原が中を探った。
綴りはある。
山用の手袋が片方だけ、ない。
出がけに入れたのは覚えているという。
「落ちたんだな、どっかで」
「ザックから落ちますかね。口は閉まってたんですよ」
芦田は何も言えなかった。
腕のことは口にしなかった。
栗原を怖がらせても、明日の仕事が増えるだけだ。
そう思うことにして、京成本線のホームへ足を向けた。
三度目は、行くつもりがなかった。
歯科医院の納品を終えたのは夕方だ。
院長が受領書に判子を押し、栗原が綴りに戻した。
芦田はその場で番号を確かめた。
前の一枚と、ちゃんと続いていた。
それで済むはずだった。
事務所に戻り、芦田は六時に上がった。
栗原は残って、月末の集計を打っていた。
芦田が帰るときも、机の脇にザックが立てかけてあった。
口は閉まっていた。
夜の十時過ぎ、栗原から電話が来た。
「受領書、一枚足りないんです」
「今日のやつか」
「いえ、今日のはあります。明日の分の、まだ何も書いてない紙が一枚ないんです」
綴りは複写式で、一枚抜けると番号が飛ぶ。
白紙で消えた紙は、誰かが勝手に受領を作れる。
栗原は、今から事務所へ戻って探すと言った。
芦田は八千代台の自宅にいた。
風呂から上がったばかりで、膝が重い。
それでも服を着た。
綴りの番号を管理しているのは芦田だ。
番号が飛んでいれば、芦田も呼ばれる。
それに、腕のことが頭の隅から消えずにいた。
電話を切る前に、栗原が言った。
「夕方、番号見ましたよね。続いてましたよね」
「見た」
「俺、あれから一回しか開けてないんです。九時に上がって、電車で帰って、家で開けたら、もう抜けてました」
芦田は答えずに、靴を履いた。
京成本線で京成津田沼まで戻り、松戸線に乗り換えた。
新津田沼へ向かう上りだ。
跨線橋を逆から渡る。
窓の外に風船が見えた。
今夜も揺れている。
腕は見なかった。
見ないように、床を見ていた。
新津田沼で降り、人の消えた駅前を歩いた。
雑居ビルの三階だけ、灯りがついている。
階段を上がる膝が、一段ごとに鳴った。
事務所で、栗原と綴りを一枚ずつめくった。
抜けた番号は出てこない。
前の一枚と次の一枚が、何事もなく並んでいる。
その間に一枚あったという跡は、綴じ穴の切れ端だけだ。
机の下も、ザックの底も、裏返して見た。
ザックの底から、乾いた土と防水スプレーの匂いがした。
手袋の片方は、そこにもなかった。
「もういい。帰ろう」
「すみません」
「明日、本社に電話する。紛失で出す」
「歩きませんか、今日は」
ホームへ向かう途中で、栗原が言った。
芦田は膝を見た。
階段で鳴った膝が、まだ熱を持っている。
膝では三十分はかかる。
それに、電車の中で起きたことを、電車の中で確かめたい気持ちもあった。
何も起きなければ、それで眠れる。
「乗る。一駅だ」
十一時二十三分の電車に、また二人で乗った。
二両目。
客は芦田と栗原だけだった。
栗原はザックを膝に置いた。
雨蓋のバックルを留め、紐を縛り、その上から両腕で抱える。
芦田は隣に座った。
冷房が強い。
腕に鳥肌が立つ。
扉が閉まる。
右へ曲がり、左へ戻る。
車輪が鳴いた。
いつもより長く鳴いている。
跨線橋の上に出た。
風船が、窓の真ん前にあった。
欄干から離れて、硝子に張りついている。
紐は見えない。
銀色の表面に、車内の蛍光灯が映っていた。
その横に、人が立っていた。
市道の跨線橋の欄干の、外側だ。
足場があるはずのない場所だ。
黒い服で、顔は風船に隠れている。
背が高い。
欄干より頭ひとつ高い。
芦田は息を止めた。
電車は動いている。
人は動かない。
なのに、窓の同じ位置から外れない。
欄干も街灯も後ろへ流れていく。
人と風船だけが、硝子に貼られた絵のように残る。
声を出そうとして、出なかった。
隣の栗原を肘で突くこともできない。
腕が重い。
背中が座席から離れてくれない。
腕が伸びてきた。
肩から窓の縁へ、縁からこちらへ。
黒い袖が、硝子の上を横に滑る。
長い。
人の腕の長さを、とうに越えている。
二人分の窓を越えて、まだ伸びた。
袖の先が、芦田の肩の横に来た。
指が、五本とも窓の内側にあった。
硝子は閉まっている。
指は栗原のザックの雨蓋に触れ、紐の結び目をなぞった。
栗原は下を向いて、ザックを抱えたままだ。
気づいていない。
指が閉じた。
車輪が鳴いた。
電車が下り坂に入る。
窓には欄干と、自分の顔しか映っていない。
風船もなかった。
京成津田沼のホームで、栗原が立ち上がった。
芦田は座ったままだった。
膝が動かない。
掌が汗で濡れていた。
「芦田さん」
「降りる」
「ザック、開いてます」
抱えたままの腕の中で、雨蓋のバックルが外れていた。
紐もほどけている。
栗原の顔から血の気が引いていくのが、ホームの灯りで見えた。
ベンチに座って、栗原が綴りを出した。
番号を順に追う。
抜けていた番号が、あった。
「戻ってる」
芦田は紙を受け取った。
受領者の欄に、何か押してある。
判子ではない。
黒い掌の跡だ。
指が五本、紙の端まで伸びて、その先が切れている。
下の複写にも、同じ跡が写っていた。
栗原が自分の手を紙に当てた。
掌の幅が、倍では利かない。
「これ、監査に出せませんね」
「出すな」
芦田は綴りからその一枚と複写を外し、自分の鞄に入れた。
紙はまだ湿っていた。
雨など降っていない。
鞄の内側の布に、黒い色が少しだけ移った。
栗原は手袋のことを言わなかった。
芦田も言わなかった。
改札の前で別れ、栗原は鷺沼のほうへ歩いていった。
芦田は京成本線のホームへ降りた。
最終の一本前だ。
窓際には座らなかった。
八千代台に着くまで、鞄を膝の上から下ろせずにいた。
翌朝、本社へ紛失の連絡をする前に、芦田は総武線の運行情報を開いた。
理由は自分でも分からない。
指が勝手に、その画面を出していた。
前の夜、二十三時二十六分。
津田沼駅付近で線路内に人が立ち入ったため、快速電車が停止。
安全確認の結果、人は発見されず。
十二分遅れで運転再開。
芦田は画面を消した。
電話をかけ、受領書は紛失で処理した。
番号が飛んだ理由を聞かれ、落としたと答えた。
受領書の一枚は、翌日から芦田の机の引き出しに入れてある。
複写の黒い跡は、三か月経っても薄くならない。
掌の幅を、芦田は一度だけ定規で測った。
十八センチ。
その数字を、誰にも言っていない。
舞台になった場所
同じ地域の怪談
長尾から連絡が来たのは、十月の初めだ。「久保が札幌から戻ってきた、金曜に飲もう」メッセージには、千葉の駅前にある居酒屋の地図がついていた。駅…
十月の半ばの火曜日、印西の現場に着いたのは三時四十分だった。前の現場の生け垣が長引いて、一時間近く押していた。社長からは、日が暮れる前に上が…
「昼飯のあとは、橋を渡るな」。義兄は低い声でそう言って、卓を指の節で二度、こつこつと叩いた。養老川の水音が畳まで上がってくる、十月の昼だった…
名前は二回しか呼ばれていない。三回目が来ない。ばあさんの声が、頭の後ろで言う。人は二回で諦める。三回呼ぶのは用のある者だけだ。
陸は、門の外に立っていた。砂利道の上で、右手を横に伸ばしている。誰かと手をつないでいる形で、指が少し曲がっていた。隣には誰もいない。
この地域の心霊スポット
千葉県の史跡に残る心霊スポット「堂の山首塚」。幕張旧道の脇に残る小さな森。墓地の入口から、街の音が一段遠い。怪談・都市伝説として語られる噂と…
千葉県富里市七栄付近の心霊スポット「酒々井のトンネル」。東関東自動車道の高架下に、封鎖された通路、老婆の霊、地名のズレが残る。怪談・都市伝説…
千葉県柏市の旧沼南町域にある心霊スポット「沼南の幽霊屋敷」を現地撮影済みの視点で検証。廃墟としての雰囲気、土地の歴史、噂の出どころ、法的注意…
千葉県松戸市幸谷の心霊スポット「自由の橋」を調査。 男性の霊、懐中電灯の噂、福昌寺、斬られ地蔵、周辺の街灯や民家の多さ、深夜2時の現地検証を…
西玉造バス停の心霊スポット調査記事。現地写真と資料をもとに、噂と周辺状況を整理する。



コメント