夫の圭太は、週に三日、夜勤に出ている。
成田国際空港の貨物地区で、深夜に荷物をさばく仕事だ。
終わるのは、日付が変わって午前一時を回った頃。
その時間には、もうバスが走っていない。
ほかの日は、同僚の川島さんの車に乗せてもらう。
金曜だけは、私が車で迎えに行く。
結婚して二年、ずっと続けてきた習慣だ。
家は成田市の公津の杜にある。
空港までは車で三十分ほど。
帰りはいつも国道五十一号を使う。
夜中の五十一号は、大型トラックばかりが走っている。
その流れに乗って、二人で黙って帰る。
それが金曜の決まりだった。
貨物地区の門の前で、圭太を待つ。
作業着の上に、くたびれたジャンパー。
出てくると、助手席に倒れ込んで、車の暖房に手をかざす。
十月に入ってから、夜はもう冷える。
私は缶の紅茶を一本、ドリンクホルダーに用意しておく。
それを一口飲んで、圭太は「帰ろ」と言う。
ほとんど変わらない。
その夜、圭太は助手席に座るなり言った。
「ちょっと寄り道していい」
「どこに」
「地蔵ヶ原」
聞いたことのない名前だった。
圭太は川島さんから聞いたらしい。
川島さんは成田の東のほう、大栄の生まれだ。
成田市地蔵原新田というところに、昔の地主の塚があるという。
塚は十三。
地主が財産を埋めて、手を出した者を七代まで祟ると言い残した。
掘った人は、みんな死んだんだと。
そういう話だった。
「掘るんじゃないよ」
私は先に釘を刺した。
「掘るわけないだろ。見るだけ」
圭太は石を集める人だ。
幕張の鉱物展で緑の石を買っては、棚に並べている。
塚と聞いて目が光るのは、仕方がない。
五十一号を東へ走って、途中で右に折れた。
街灯がすぐに途切れる。
畑と林だけになる。
道は細く、車がすれ違えない幅だ。
ガードレールもない。
道の両側は、刈り取ったあとの畑だ。
対向車が来たら、どちらかが畑に落ちる。
そんな道を、私は低速で進んだ。
右手に、林の影がじわじわと近づいてくる。
成田山新勝寺の参道と同じ市内だとは、思えないほど何もない。
電柱の間隔だけが、人の土地だと教えている。
午前一時四十分。
ダッシュボードの時計の数字だけが、やけに明るい。
三叉路の角に、地蔵が立っていた。
赤い前掛けをしている。
足元に、缶コーヒーが何本か並んでいた。
ヘッドライトの中で、前掛けの赤だけが浮いて見える。
その前を抜けて少し先で、圭太がスマホの地図を見ながら、ここ、と言った。
「この奥」
圭太が林のほうを指さす。
林の手前に、低い盛り上がりがいくつか見えた。
畑の縁に沿って、並んでいる。
私は数える気になれなかった。
圭太に言われて、私はエンジンを切った。
「入らないよ」
「入らない。私有地だし」
そう言って、圭太は窓を少し開けた。
土の匂いが入ってきた。
湿った堆肥の匂いも混じる。
十月の夜の冷えが、足首から上がってくる。
耳鳴りがするほど、音がない。
もう帰ろう、と言いたかった。
でも道は細く、前にも後ろにも逃げ場がない。
圭太が頷くまで、ここに居るしかない。
ハンドルを握ったまま、私は指の先だけを温めていた。
遠くで飛行機の音が低く鳴った。
高いところを通り過ぎていく便だ。
その音が消えたあとに、畑のほうで、どさっ、と鳴った。
重いものが落ちた音だった。
米袋を地面に下ろしたような、鈍い音。
私は圭太を見た。
圭太も私を見ていた。
「聞こえた」
「聞こえた」
圭太は窓の外に目を向けたまま、動かない。
降りて確かめる気配もない。
私も降りる気はなかった。
「猪かな」
「猪だな」
二人で同じ答えを口にして、それで終わりにした。
圭太が「行こう」と言った。
私はエンジンをかける。
切り返す場所がない。
三叉路まで、後ろ向きにじりじり戻る。
地蔵の前を通るとき、私は前掛けを見ないようにした。
ただ、目が行くのが嫌だった。
五十一号に戻ると、トラックの赤いテールランプが続いている。
その赤を見て、やっと肩が下りた。
圭太は何も言わずに、缶の紅茶を飲み干す。
私も何も聞かない。
聞けば、答えを決めなければならなくなる。
家に着いたのは二時半。
圭太はシャワーも浴びずに寝てしまう。
私は台所で白湯を飲んで、それから寝た。
足首の冷えが、布団に入っても抜けない。
石を見つけたのは、次の日の夕方だ。
買い物袋を置こうと、助手席のドアを開けた。
足元のマットの上に、緑の石が落ちていた。
手のひらに収まる大きさ。
平たくて、片側に黒い筋が一本走っている。
圭太の石だと思った。
鉱物展の帰りに落としたのだろう。
私は拾って、玄関の棚に置く。
指先が少し冷たい、と感じただけだ。
夜、圭太に見せた。
「これ、車に落ちてた」
圭太は石を手に取って、眉を寄せた。
「俺のじゃない」
「じゃあ誰の」
「知らない。こんな濁った緑、買わないよ」
圭太の石は、どれも光にかざすと透ける。
棚の石を見ると、確かにそうだった。
足元の石は透けない。
濡れた苔の色が、奥まで詰まっている。
「昨日、車から降りた」
私は聞いた。
「降りてない」
圭太は即座に言った。
「ずっと座ってただろ」
圭太がスマホを見ていた時間がある。
川島さんから、何か短い連絡が来ていたときだ。
私はその画面から目を逸らしていた。
その間に、ドアの開閉音が一回鳴った。
鳴った気がする。
半ドアの警告音だったかもしれない。
「降りてないならいい」
それ以上は言わなかった。
言えば、あの道と、あの音の話になる。
二人とも、それは避けた。
圭太は石を棚の端に置いた。
自分の石の列からは、少し離して。
一週間は何もなかった。
石は棚の端にある。
朝、私が見て、夜、圭太が帰って見る。
それだけのことだ。
ただ、圭太が自分の石を触らなくなった。
前は週に一度、布で磨いていたのに。
透ける緑を電球にかざして、満足そうにする人だったのに。
その習慣が、止まった。
聞くと、「飽きた」と言った。
三年続いた趣味だ。
飽きたの一言で、片づくものだろうか。
私は何も言わずに、棚の埃を拭く。
端の石だけは、布を当てない。
次の金曜、また迎えに行った。
帰りは五十一号をまっすぐだ。
寄り道の話は、どちらも出さない。
貨物地区の照明が遠ざかるのを、私はミラーで見ていた。
その翌朝、石が台所にあった。
流しの横、水切りかごの隣。
私は圭太を起こして聞いた。
「石、動かした」
「動かしてない」
寝ぼけた声だ。
私は石を棚に戻した。
戻すとき、石の裏側を見る。
黒い筋は裏まで回っていて、輪になっていた。
前に見たときは、片側だけだったはずだ。
見落としていたのだと思うことにした。
二日後の夜、石は寝室にあった。
私の枕の横、ベッドのヘッドボードの上。
圭太は夜勤で家にいない。
私一人の夜だ。
手の甲が、ぞわりと粟立った。
石に触らずに、しばらく見ていた。
石は石のまま、黒い輪を上に向けている。
その輪が、私の頭のほうを向いていた。
動いたところを、私は一度も見ていない。
いつも、置かれたあとの石だけを見る。
それが腹立たしかった。
見られれば、何かが分かる。
見られないから、何も分からない。
ならば、動けないようにすればいい。
そう考えたとき、頭の中に祖母の声が出てきた。
私は押し入れを開けた。
一番奥の、風呂敷包みを引き出す。
祖母の鉈だ。
祖母は香取の佐原の人だ。
三年前に亡くなっている。
通夜のとき、布団の横に鉈が置いてあった。
刃を遺体のほうに向けて。
親戚のおばさんが教えてくれた。
あのあたりでは、死んだ人が動かないように、刃物を置くのだと。
祖母自身がそれを望んだという。
自分の横には必ず鉈を置け、と。
鉈は祖母の形見として、私が持ち帰った。
置く道具だ、と祖母は生前に言っていた。
掘る道具じゃない、置く道具だ。
その意味を、私は聞かずじまいだった。
私は鉈を風呂敷から出した。
柄は黒ずんで、手の脂で艶が出ている。
刃には小さな欠けが一つ。
それを、ヘッドボードの石の横に置いた。
刃を石のほうに向けて。
ばかみたいだ、と頭の中で声がした。
でも手は止まらない。
置いたあと、肩の力が抜けた。
その夜は、石も鉈も動かずにいた。
二時過ぎ、圭太が帰ってくる。
寝室の鉈を見て、立ち止まった。
「何これ」
「おばあちゃんの」
「なんで石の横に」
説明しようとして、口が開かない。
圭太は石を拾い上げ、玄関の棚に戻した。
鉈も、押し入れに戻した。
「川島さんにさ」
朝、起きてきた圭太が言った。
「地蔵ヶ原の話、もう一回聞いた」
「うん」
「塚、十二だって」
「十三って言ってなかった」
「十二だよ。俺、聞き間違えたのかも」
私は箸を置いた。
最初に聞いたとき、圭太ははっきり十三と言った。
それは覚えている。
どちらが本当なのか、確かめる手段はない。
川島さんに聞く気にもなれない。
その週から、私の中で何かが変わった。
まず、眠りが浅くなった。
深夜一時を過ぎると、目が開く。
圭太が隣にいる夜でも、開く。
理由はない。
ただ、時計を見る。
一時四十分。
あの三叉路の先でエンジンを切った時刻だ。
次に、鍵を握るようになった。
目が開いたあと、車の鍵を手に持って横になっている。
自分で取りに行った覚えはない。
枕の下に入っている。
それを握って、朝まで過ごす。
握った手のひらに、鍵の歯の跡が残る。
圭太には言わなかった。
言えば心配する。
心配されるのが嫌だった。
昼間は、何事もなく過ごせた。
仕事に行って、買い物をして、夕飯を作る。
テレビの音も、普通に聞こえている。
日が落ちると、少しずつ変わる。
玄関の棚の前を通るたびに、足が止まった。
石は棚の端にある。
黒い輪が、こちらを向いている。
私は輪の向きを、見ないふりで確かめる。
毎晩、同じ向きだ。
スマホで地蔵原新田を調べたこともある。
地図には、畑と林の記号しか出てこない。
塚のことは、どこにも書かれていない。
川島さんの話が、本当なのかどうかも分からなかった。
分からないまま、画面を閉じた。
十一月に入った、金曜の夜。
圭太を迎えに行く前に、私は家を出た。
いつもより一時間早い。
五十一号を東へ走って、右に折れた。
一人で行くつもりはなかった。
早く出すぎたから、少し走っただけだ。
そう自分に言い聞かせているうちに、三叉路に着いていた。
時計は一時四十分を指している。
そこまでどう走ったのか、覚えていない。
地蔵は同じ場所に立っている。
前掛けの赤。
缶コーヒーの列。
私は数える。
十三本。
地蔵の前を抜けて、あの場所に停めた。
エンジンを切る。
窓を少し開ける。
土の匂い。
堆肥の匂い。
畑の縁に、盛り上がりが並んでいる。
林の黒が、その奥で止まっている。
助手席には鉈を置いてあった。
風呂敷から出して、刃を窓のほうに向けて。
家を出るとき、私は確かにそうした。
石は、上着のポケットの中にある。
いつ入れたのか、覚えていない。
ポケットの上から石を押さえる。
冷たい。
その冷たさが、腿まで伝わってくる。
缶の紅茶は、今夜も用意してある。
ドリンクホルダーの中で、飲む相手を待っている。
どさっ、と鳴った。
畑のほう。
前と同じ重さの音だ。
私は窓の外を見た。
何も見えない。
降りる気は起きなかった。
確かめる気も、同じだ。
ただ、助手席の鉈に手を伸ばしていた。
柄を握る。
祖母の手の艶が、私の手に馴染む。
そのまま、しばらく座っている。
スマホが鳴った。
圭太からだ。
「どこ」
「迎えに行くとこ」
「今日も、俺、休みだよ」
「知ってる」
知らなかった。
知っていると答えた自分の声が、やけに落ち着いていた。
圭太は金曜の夜勤を、先月でやめている。
迎えに行く相手は、いない。
電話を切って、エンジンはかけなかった。
かけようとした手が、鉈の柄から離れない。
今夜で三度目だ。
鉈を助手席に置いて、石をポケットに入れて。
毎週金曜、一時四十分。
畑のほうで、また一つ、何かが落ちる。
私は鉈の柄を握ったまま、数える。
十二。
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