鎌ケ谷市粟野に住む親子と、その子が通う学童保育の指導員に、別々に話を聞いた。
三人の話は大筋で重なる。
細かいところで、一つだけ合わない。
そこは直さずに、聞いたまま並べておく。
母の話。
横田と名乗った。三十六歳。
新鎌ケ谷駅の近くの事務所で働いている。
息子の陸は小学二年生。
放課後は学校の中にある学童に預けて、夕方に迎えに行く。
仕事が終わるのが五時で、学校に着くのが五時半。
この時間は動かせない。
学童をやめれば、仕事もやめることになる。
学校は市制記念公園の北西側にある。
駅から歩くと二十分ほど。
公園の野球場の横を抜けて、住宅地の中を北へ上がる。
秋になると、この道を歩くうちに日が傾く。
正門に着くころには、校舎の影が門まで伸びている。
いつも正門から入って、校舎の端にある学童の部屋へ向かう。
部屋は昔の用務員室だ。
戸は校庭側に直接開く。
廊下側にも引き戸がある。
西側の窓が、裏門のほうを向いている。
裏門の先の細い道は、すぐに粟野の森の縁に突き当たる。
そこから下っていく未舗装の切り通しがある。
近所の人は老婆坂と呼ぶ。
名前の由来は聞いたことがない。
一度、隣の家のおばあさんに聞いてみた。
「昔からそう呼ぶ」とだけ返ってきた。
それ以上は聞けない顔をしていた。
坂の途中に、昔は青い小屋があったという話も聞いた。
今は草が生えているだけで、何もない。
息子には、裏門から出るなと言ってある。
森は四時で閉まる。
坂は暗くなると足元が見えない。
砂利と粘土で、雨のあとは滑る。
下まで降りれば国道四百六十四号に出るが、車が多い。
子どもが一人で通る道ではない。
十月の初めだった。
五時半を少し回って、学童の戸を開けた。
指導員の田代さんが顔を上げる。
「あれ。陸くん、もう出ましたよ」
「え」
「お母さんが裏門に来てるって言って、荷物を持って出ていきました」
私は正門から来た。
裏門には回っていない。
背中が急に冷えた。
田代さんと二人で裏門へ走る。
校庭の向こうで、日が落ちかけていた。
陸は門の内側に立っていた。
手提げを胸に抱えて、道の先を見ている。
道の先は森だ。
木の間が黒くなり始めていた。
風が森のほうから吹いてきて、湿った葉の匂いがする。
「お母さん、さっきまでそこにいたのに」
陸はそう言って、門の外の砂利を指した。
砂利の上に、靴のあとがいくつもある。
誰のものかは分からない。
私は陸の手を引いて正門へ戻った。
帰り道で、何度も聞いた。
どんな人だったか。
何を着ていたか。
陸は「お母さん」としか言わない。
それ以外の言葉を知らないみたいに、同じ答えを繰り返した。
その晩、夫と話した。
私のと同じベージュのコートを着た人なら、学校の周りに何人もいる。
よその子の母親を見間違えたのだろう、と二人で決めた。
決めたら、少し楽になった。
子どもの見間違いなら、よくある話だ。
二度目は、その週の金曜だった。
やはり五時半すぎに着いた。
田代さんが戸口まで来て、小さい声で言う。
「さっき、窓からお母さんが見えたんです。裏門のところに」
「私、今来たところです」
「ですよね。すみません。見間違いです」
田代さんは、はっきりそう言った。
私もそれで済ませた。
逆光だ。
窓は西向きで、夕方は何も見えない。
陸はその日、部屋の奥で宿題をしていた。
外へは出ていない。
それだけで、私は安心した。
安心した自分を、今は少し責めている。
その日の帰り、陸が歩きながら言った。
「今日は、来なかったね」
私は、自分が遅れたことを言われたのだと思った。
「ごめんね」と返した。
陸はそれきり黙った。
手をつないだまま、何度も後ろを見ていた。
私は見なかった。
見たら、歩けなくなる気がした。
三度目は、次の週の火曜だ。
その日は仕事が早く終わった。
五時前に学校に着く。
日は傾いていたが、まだ空が明るい。
正門を入ってすぐ、校舎の壁に沿って歩いた。
砂利を踏む音が、自分のとは別にもう一つ聞こえた気がする。
振り向いたが、誰もいない。
風で落ち葉が転がっただけだと思った。
そう思うことにした。
学童の戸を開ける。
田代さんが私を見て、動きを止めた。
「お母さん」
「はい」
「今、帰りましたよね」
意味が分からなかった。
田代さんは戸口に立ったまま続ける。
「五分前です。お母さんが来て、陸くんを連れて出ました。私、ここで話しました」
私は声が出なかった。
喉の奥が狭くなって、息が吸いにくい。
手の先から血が引いていくのが分かる。
二人で裏門へ走った。
陸は、門の外に立っていた。
今度は外だ。
砂利道の上で、右手を横に伸ばしている。
誰かと手をつないでいる形で、指が少し曲がっていた。
隣には誰もいない。
陸は森のほうを向いていた。
坂の上り口のあたりだ。
木の間の向こうは、もう暗い。
名前を呼ぶと、陸はこちらを見た。
伸ばした右手が、ゆっくり下りる。
「お母さんが、こっちから帰ろうって」
私は門の外へ出て、陸を抱えた。
砂利が靴の下で鳴る。
森のほうから、また葉の匂いがした。
今度は、乾いた葉の匂いだ。
その場で田代さんに聞いた。
「さっきの人、私でしたか」
田代さんは、少し黙ってから言った。
「お母さんでした」
その晩は、陸が私の手を握ったまま寝た。
手を離すと目を開ける。
仕方なく、布団の横に座ったままでいた。
玄関のほうで、何かが砂を踏む音がした気がする。
うちの玄関は、コンクリートだ。
砂利はない。
朝まで、確かめに行けなかった。
学校には翌朝、報告した。
不審者ということで、保護者にメールが回る。
私もそのメールを受け取った。
三十代の女性、ベージュのコート、子どもと面識あり。
自分が不審者として書かれている文面を、何度か読み返した。
警察の人も来て、裏門の周りを一通り見て帰っていった。
砂利の上の靴あとは、もう数えられないほどある。
指導員の話。
田代と名乗った。五十代。
学童の指導員を八年やっている。
一度目のことは、よく覚えていない。
陸くんが「お母さん来た」と言って出ていった。
それは普通のことだ。
迎えの親が裏門側から声をかけることは、たまにある。
裏門のほうが、粟野の住宅地からは近い。
二度目は、私が見た。
西の窓の向こう、裏門の柱の横に人が立っていた。
背の高さと、コートの色が横田さんだ。
顔は逆光で見えない。
私は陸くんに声をかけなかった。
週の初めのことがあったから、横田さんが部屋まで来るのを待った。
来たのは横田さんだった。
正門からだ。
窓の外には、もう誰もいない。
私はそれから、西の窓を見ないようにしている。
三度目は、私が話した。
戸口に横田さんが立っていた。
「今日は早く上がれたので」
そう言った。
声も、顔も、横田さんだ。
紺の巾着を左手に持っていた。
陸くんの手提げかと思った。
私は「お疲れさまです」と返す。
陸くんは荷物をまとめて、横田さんの後ろについて出た。
戸が閉まる。
戸の向こうで、砂利の音が一人分だけした。
そのときは、気に留めなかった。
五分後に、戸がまた開いた。
横田さんが立っている。
顔色が違った。
私の体のほうが先に分かった。
膝の裏が震えて、立っているのがやっとだった。
警察には、横田さんが連絡した。
警察の人は裏門を見て、森のほうを見て、坂の名前を聞いた。
老婆坂、と答えた。
その人は何も言わずに、手帳に書いた。
書き終えてから、「夕方は、こちらの門を閉めてもらえますか」と言った。
それ以来、裏門には四時半に鍵をかけている。
私は学校に、別のことを頼んだ。
通学路の地図だ。
学校が配っている地図には、裏門周辺の道が載っていない。
裏門の先の道と、老婆坂のあたりが、白く塗ってある。
私は八年、この地図を新しい保護者に渡してきた。
理由は教わっていない。
最初にこの部屋を引き継いだ人から、「こちらは必ず渡してください」とだけ言われた。
その人は、もう鎌ケ谷にいない。
一度だけ、教頭先生に聞いたことがある。
「昔からの決まりです」と言われた。
その教頭先生も、もう代わった。
横田さんにも、その地図を渡した。
渡したのは、三度目の翌日だ。
横田さんは「なぜ白いんですか」と聞いた。
私は「前からです」と答える。
それしか言えなかった。
嘘ではない。
一つ、気になっていることがある。
三度目に戸口に立った横田さんは、正門側から歩いてきた。
戸口から、校舎の角を曲がって来るのが見えている。
陸くんは次の日、私にだけ「坂のほうから来た」と言った。
私が見たのと、違う。
そのことは、横田さんにはまだ言っていない。
言っても、どうにもならない。
子の話。
陸くん。八歳。
母親が隣にいる前で聞いた。
聞き手は私で、母親は口を挟まなかった。
話す間、陸くんはずっと右手を膝の下に入れていた。
言い回しは、聞いたままにしてある。
一回目は、裏門のところにお母さんがいた。
手を振ってた。
だから出た。
門まで行ったら、いなくなってる。
砂利のところに、足のあとだけあった。
足のあとは、森のほうに向いてた。
遠くから見たとき、手に茶色い手袋をしてるみたいだった。
お母さんは手袋をしない。
そのときは、寒いのかなと思った。
二回目は、出てない。
宿題してた。
窓の外に誰かいるのは分かった。
田代先生が、一回見てから、もう窓のほうを見ないようにしていた。
それで、見ないほうがいいんだと思った。
鉛筆を強く持ちすぎて、芯が折れた。
三回目は、お母さんと手をつないだ。
お母さんは「こっちから帰ろう」と言った。
坂のほうから来たから、坂のほうから帰るんだと思った。
手が冷たい。
木の皮みたいに、ざらざらしてる。
手袋はしていなかった。
歩いているとき、お母さんの靴の音がしない。
砂利なのに、聞こえるのは自分の靴の音だけだった。
お母さんの服から、落ち葉の匂いがした。
門の外で、お母さんが止まった。
森の入口のところで、手を離された。
「ここからは、ひとりで」と言った。
そのままの手で立っていたら、後ろから本当のお母さんの声がした。
振り向いたら、お母さんがいる。
前を向いたら、前にはいなかった。
どっちも、お母さんだった。
それ以上のことは、陸くんは言わなかった。
母親が「もういいよ」と肩を押さえる。
陸くんは右手を、ズボンの横でこすっていた。
母の話。後日。
地図は玄関に貼った。
白い部分は、森より広い。
坂を下りた先の国道の手前まで、白い。
白く塗られた道は、使わない。
使ったこともない。
陸にも、もう一度言った。
裏門からは出ない。
坂には行かない。
陸は黙ってうなずいた。
二週間ほどして、気づいたことがある。
玄関のフックに、紺の巾着が掛かっていた。
陸の手提げは恐竜の柄だ。
紺の巾着は、うちには一つもない。
夫も知らない。
陸は「知らない」と言って、目をそらした。
いつから掛かっていたのか、誰にも分からない。
毎日出入りする玄関だ。
口の紐は、固く結んであった。
ほどくのに、爪を使った。
結び目は、私の結び方と同じだった。
左右の輪を二回くぐらせる、母から教わった結び方だ。
中は、枯れ葉だった。
口いっぱいまで、ぎっしり詰まっている。
乾いていて、軽い。
手を入れると、指の間でぱりぱりと割れた。
葉の形は、学校の桜でも、うちの前のイチョウでもない。
縁がぎざぎざした、細長い葉だ。
粟野の森で見たことがある。
春に、森の会の人が名前を教えてくれた。
その名前は、もう思い出せない。
巾着は捨てた。
葉は、袋に入れて燃えるごみに出した。
フックは空いたままにしてある。
次の週も、空いていた。
その次の週も、空いていた。
毎朝、確かめてから家を出る。
迎えは、今も五時半だ。
正門から入って、校舎の壁に沿って歩く。
裏門のほうは見ない。
田代さんも、西の窓のブラインドを下ろしたままにしている。
陸は、右手をポケットに入れて歩くようになった。
理由は聞いていない。
聞いたら答える気がして、聞けない。
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