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印西の惨殺屋敷、十七本目の杭

十月の半ばの火曜日、印西の現場に着いたのは三時四十分だった。
前の現場の生け垣が長引いて、一時間近く押していた。
社長からは、日が暮れる前に上がれと言われている。

俺は佐倉の小さな会社で、空き家の外まわりを請け負っている。
道にはみ出した草を刈って、隣にかぶった枝を落とす。
境界の杭が残っているかを見て、写真を撮って持ち主に送る。
相手はたいてい、遠くに住んでいる人だ。
建物の中には入らない。
鍵も預からないし、預かりたいとも思わない。

この日の家の持ち主も、東京に住んでいる。
何年か前に土地ごと引き継いで、それきり一度も来ていないらしい。
夜中に車で来て、家の前で騒いでいく連中がいるそうだ。
近所から苦情が入って、外まわりだけでもと頼んできたという。

注文は二つだった。
道路側にはみ出した草と篠竹を刈ること。
古い測量図にある杭を、外から全部確かめること。
「中には絶対に入らないでください、だってさ」
社長はそう言って、図面のコピーを宮内に渡した。

宮内は二十七で、うちに来て二年目になる。
草刈りはまだ下手だが、図面を読むのは俺より早い。
怖い話の動画が好きで、来る途中もずっとスマホを見ていた。
「ここ、ネットだと有名なんすよ、印西の惨殺屋敷って」
「人んちに勝手な名前つけんなよ」
「何があったかは、どこにも書いてないんです、噂だけで」
「じゃあ、なんもねえんだよ」
宮内は、そっすね、と言って画面を消した。

家は、小林牧場からそう遠くない台地の縁に建っている。
春には桜並木に人が集まる辺りだが、十月の夕方は車もほとんど通らない。
細い舗装路が林の手前で曲がっていて、その曲がり角の内側に家がある。
裏はすぐ雑木林で、横には農道が谷津田のほうへ下りていく。
田んぼはとっくに刈り終わって、切り株から二番穂が青く伸びていた。

雨戸は全部閉まっている。
郵便受けはガムテープでふさがれ、電気のメーターも外してあった。
道路側はクズと篠竹に呑まれて、家の下半分が見えない。
庭の奥では、セイタカアワダチソウが黄色い頭をそろえていた。

刈払機のエンジンをかけて、角の軽トラのそばから刈り始めた。
篠竹は根元を払うと、倒れるときにばさばさと鳴る。
宮内が熊手でかき寄せて、袋に詰めて道の端に並べていく。
刈った草の青臭さが、マスクの上からでも鼻に来た。

縄が目に入ったのは、道路側の草を半分ほど落としたころだ。
家のまわりを、膝の下くらいの高さで荒縄が一周している。
ところどころに短い木の杭が打ってあって、そこに縄を結んである。
庭木の幹にも巻きつけて、家をぐるりと囲っていた。
境界からは、一メートルほど内側になる。
雨ざらしのわりに、縄はほつれていない。
図面には、そんな線は一本も描かれていなかった。

「なんすか、あれ」
「知らねえ、触るなよ」
触るも何も、あそこまで行くには敷地に入るしかない。
俺たちの仕事は、境界のこっち側だけだ。

道ばたには、空き缶やたばこの吸い殻が落ちていた。
夜中に来る連中の置き土産らしい。
宮内がそれも拾って、別の袋に分けた。

四時を過ぎると、林の影が道の半分まで伸びてくる。
林の手前の角まで来ると、そこだけ空気がひやっとした。
刃の音が、木立の奥に吸いこまれていく。
縄の角が、境界のすぐ向こうまで寄ってきている。
刃を当てないように、俺はその手前で止めた。
アスファルトには、もう陽が当たっていない。

四時二十分、クズの蔓が刃に巻きついて、エンジンを止めた。
耳の中がじんとして、虫の声がやっと戻ってくる。
しゃがんで蔓をほどいていると、家の中で何かがこすれた。
雨戸の内側を、指の腹でなぞるような音だった。
「ハクビシンっすよ」
宮内が軽く言う。
空き家の天井裏には、たいてい何か住みついている。
俺もそう思って、蔓の残りを引きちぎった。

草刈りが一段落したのは、四時半だった。
刈払機を荷台に戻して、杭の確認に移る。
図面の杭には、一から十六まで番号が振ってある。
農道に沿って八本、舗装路に沿って八本。
裏の林側は、角と角を一本の線でつないであるだけだ。
宮内がゆうべ事務所で、番号を書いた白い札を作ってきていた。
杭を見つけたら札を立てかけて、俺が会社のカメラで撮る。
それを十六回やれば、今日は終わりだ。

始めるのは、農道の下の端からにした。
一番はすぐに見つかった。
コンクリートの杭で、頭に十字が刻んである。
二番は土に半分埋まっていて、鎌の先で掘り出した。
宮内が札を立てて、俺がシャッターを切る。
図面に丸をつけるのも宮内だ。
慣れた手順で、口数も減っていく。

三番は、農道の脇の草むらに沈んでいた。
「三番、あったぞ」
声をかけて、札を受け取ろうと手を伸ばす。
「さん」
家のほうから聞こえた。
低くて平たい声で、男とも女とも決めにくい。
首の後ろが、すっと冷えた。
宮内が顔を上げて、こっちを見る。

「やまびこっすか」
「壁に跳ね返ったんだろ」
言いながら、俺の声とは似ていないと思っていた。
「ラジオとか、つけっぱなしで」
「メーター外れてんだぞ」
宮内は、あ、と言って黙った。
雨戸は農道のほうを向いて、平らに並んでいる。
跳ね返るなら、あそこだ。
そういうことにして、シャッターを切った。

四番、五番、六番と、何も起きなかった。
番号を口に出したかどうか、よく覚えていない。
たぶん、出していない。
七番は杭の頭が欠けていて、写真を二枚撮った。

八番は、農道と舗装路の角にある。
停めておいた軽トラのすぐ横だ。
草をよけると、赤いペンキの残った杭が顔を出す。
「はい、八番」
宮内が札を立てかけながら、声に出した。
「はち」
今度は、間が長かった。
それに、農道側の壁から来た感じがしない。
もっと奥の、家の真ん中あたりから聞こえた。

俺は家のほうを向いて、腹から声を出した。
「おーい」
何も返ってこない。
虫が鳴いて、遠くで犬が吠えるだけだ。
宮内が、試すみたいに小さく言った。
「八」
「はち」
「おーいには、返さないんすね」
宮内は笑おうとして、口の端だけを上げた。

帰ろうか、と一瞬思った。
でも杭は、まだ半分ある。
写真がそろわないと、持ち主に出す報告が書けない。
明日もう一回ここに来る気には、なれなかった。
日が沈むまで、あと二十分とちょっとしかない。
「番号、口に出すのはやめとこう」
「了解っす」
宮内は札の束を、胸の前で抱え直した。

舗装路に出ると、林の影で足元が暗くなった。
九番から先は、さっき刈ったばかりの道ばただ。
杭は見つけやすい。
宮内が黙って札を立てて、俺が黙って撮る。
図面に丸をつけるボールペンの音が、かりかりと耳につく。
家は、ずっと右手にあった。
閉めきった雨戸の列が、道に沿って並んでいる。

十二番のあたりで、軽自動車が一台だけ通った。
ライトが雨戸の列をなでて、林の奥へ消えていく。
運転していた人は、こっちを見もしなかった。
宮内が、詰めていた息をそっと吐く。
十五番まで、声は一度もしなかった。

十六番は、舗装路が林に入る手前にある。
家の角が、いちばん道に寄ってくるところだ。
さっき刃を止めた、縄の角の前でもある。
杭は、アスファルトの端と土の境目に頭を出している。
俺はしゃがんで、札を立てる場所を手で払った。
カメラを扱うので、軍手は外してポケットに入れてある。
宮内は道の真ん中に立って、図面を見ている。
「これで最後っすね、十六」
言ってから、宮内は自分の口を手で押さえた。

「じゅうなな」
近い。
雨戸一枚の向こうで、耳もとに口を寄せられたみたいに聞こえた。
宮内の顔から、血の気が引いていくのが分かる。
俺は、図面の数字を頭の中でなぞった。
十六で終わりだ。
十七なんて杭は、どこにもない。

「じゅうなな」
もう一度。
「じゅうなな、じゅうなな」
同じ高さ、同じ間で、数えるでも呼ぶでもない声が繰り返す。
俺の口は、勝手に閉じていた。
宮内も、何も言わない。
札の束が、宮内の手の中でかちかちと鳴っている。

しゃがんだまま、左手をアスファルトについていた。
そこが温かい。
昼の日なたの名残じゃない。
この角は、草を刈りに来たときから林の影の中だ。
少し横にずらすと、路面はちゃんと冷たい。
軽トラを停めたのも、反対側の角だ。

手のひらを路面に滑らせて、ぬくもりの切れ目を探す。
温かいのは、人がひとり横になったくらいの広さだけだった。
さっきまで、誰かがそこに寝そべっていたみたいに。
湿った藁の匂いが、低いところにたまっている。

手を引っこめて、立ち上がった。
道の真ん中まで、後ろ向きのまま下がる。
誰かいるんだ、と思った。
夜中に騒ぎに来る連中の話が、頭に浮かぶ。
中に入りこんで、ふざけているやつがいるのかもしれない。
それなら、相手は人間だ。
人間なら、一番まずいのは、こっちが入っていくことだった。
番号を真似するのも、外の声を聞いていればできる。
十七だけが、どうしても合わなかった。

道の真ん中から、十六番の杭にカメラを向けた。
札は立てていない。
もう一度しゃがむ気には、なれなかった。
ズームをいっぱいに伸ばして、シャッターを切る。

スマホを出して、社長にかけた。
「中に、誰かいるみたいで」
「入るなよ」
社長は先にそれを言った。
「写真は撮れたのか」
「十六番まで、全部」
「じゃあ帰ってこい、警察のことは俺が持ち主と話す」
電話を切ると、宮内はもう袋のほうへ歩き出していた。

「先輩、あれ、数えてたんすかね」
「知らねえよ」
「十七って、何の数なんすか」
俺は答えなかった。
答えなんか、知らないし知りたくもない。

袋は、道の端に六つ並んでいる。
二人で抱えて、角の軽トラまで運ぶ。
最後の一袋を取りに、懐中電灯を持って戻った。
気がつくと、その光を縄の角に向けていた。
見なきゃいいのに、と自分でも思う。
光の輪の中で、縄が一か所だけ地面に垂れている。
杭が一本、抜けていた。
抜けた跡の穴は、縁の土がまだ黒く湿っている。

穴の隣の杭に、墨で何か書いてある。
光を寄せると、かすれた字で十六と読めた。
縄の杭にも、番号が振ってあったらしい。
誰が打って、誰が数えたのかは知らない。
反対隣の杭は、草の陰で字が読めない。
抜けているのが何番なのか、数えるまでもなかった。

「先輩、早く」
角のほうで、宮内が軽トラのエンジンをかけている。
俺は袋をつかんで、走らずに歩いた。
走ったら、何かに追いつかれる気がした。
背中のほうで、もう声はしない。
虫の声と、林の葉がこすれる音だけだった。
五時十分、俺たちはその家を離れた。

作業着に染みた草の青臭さが、車の中にこもっている。
そこに藁の匂いが混じっている気がして、窓を少し開けた。
宮内は帰り道、ひと言もしゃべらなかった。
途中で見えた牧場の桜並木は、薄暗い中でも、葉が色づきかけているのが分かる。
それを言おうとして、俺も口を閉じた。
声に出したものには、何か返ってきそうな気がする。

その晩は袋を置き場に下ろして、写真だけパソコンに移した。
フォルダの写真は、十七枚あった。
七番を二枚撮ったからだ。
分かっている。
それでも一枚消そうとして、マウスの上で指が止まった。
報告書に貼ったのは、十六枚だけだ。

三日後の金曜、資材置き場で袋の中身をあけた。
刈った草は、処分場に持っていく前に一度広げて見る。
空き缶や石が混じっていると、受けつけてもらえないからだ。
宮内は別の現場に出ていて、置き場には俺ひとりだった。

四つ目の袋の底で、軍手の指が硬いものに当たった。
引っぱり出す。
長さ五十センチほどの、先を尖らせた木の杭だった。
頭に、荒縄の結び目がひとつ付いたままだ。
結び目の先で、縄はちぎれていた。
側面に、かすれた墨の字がある。
十七。

刈払機の刃に引っかけて、飛ばしたんだと思おうとした。
でも、この杭が打ってあったのは境界の向こう側だ。
縄の角の手前で刃を止めたのは、俺自身だった。
それに、土に刺さった杭は刃で引っかけたくらいでは抜けない。
袋に詰めたのは宮内だが、電話で聞くと、そんなもの拾ってないと言う。
声が、少し裏返っていた。
「あの現場、次があっても俺は外してください」
宮内はそう言って、先に電話を切った。

社長から、持ち主にも聞いてもらった。
縄のことも杭のことも、何も知らないという。
「そっちで処分してください、だってさ」
社長はそれだけ言って、次の現場の段取りに話を移した。
警察の話がどうなったのかは、聞きそびれたままだ。

捨てられなかった。
境界の杭は、勝手に抜いたり捨てたりすると罪に問われることもある。
前に、測量の人からそう聞いた。
これがその杭なのかどうかは、分からない。
図面に載っていないのだから、たぶん違う。
それでも、可燃ごみの袋に入れようとすると手が止まる。
返しに行くなら、あの縄のそばまで入るしかない。
それだけは、やらないと決めている。

杭は新聞紙でくるんで、置き場の棚の奥に寝かせてある。
あれから、あの声は一度も聞いていない。
ただ、棚の前を通るたびに、縄の角のことを考える。
一本抜けたまま、地面に垂れていた縄。
あそこは今も、開いたままだ。

今朝、棚から鎌を取ろうとして、新聞紙ごしに杭に触れた。
温かかった。
トタン屋根の下で、朝の空気はまだ冷たい。
新聞紙をめくると、湿った藁の匂いが上がってきた。
十七、と口の中で言いかけて、俺は歯を噛んだ。

舞台になった場所

千葉県印西市で「印西の惨殺屋敷」と呼ばれる廃屋周辺を、噂と現地の状況を分けて確認。断定を避け、外観・周辺環境・安全面を中心に記録します。

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