十月の半ばの火曜日、印西の現場に着いたのは三時四十分だった。
前の現場の生け垣が長引いて、一時間近く押していた。
社長からは、日が暮れる前に上がれと言われている。
俺は佐倉の小さな会社で、空き家の外まわりを請け負っている。
道にはみ出した草を刈って、隣にかぶった枝を落とす。
境界の杭が残っているかを見て、写真を撮って持ち主に送る。
相手はたいてい、遠くに住んでいる人だ。
建物の中には入らない。
鍵も預からないし、預かりたいとも思わない。
この日の家の持ち主も、東京に住んでいる。
何年か前に土地ごと引き継いで、それきり一度も来ていないらしい。
夜中に車で来て、家の前で騒いでいく連中がいるそうだ。
近所から苦情が入って、外まわりだけでもと頼んできたという。
注文は二つだった。
道路側にはみ出した草と篠竹を刈ること。
古い測量図にある杭を、外から全部確かめること。
「中には絶対に入らないでください、だってさ」
社長はそう言って、図面のコピーを宮内に渡した。
宮内は二十七で、うちに来て二年目になる。
草刈りはまだ下手だが、図面を読むのは俺より早い。
怖い話の動画が好きで、来る途中もずっとスマホを見ていた。
「ここ、ネットだと有名なんすよ、印西の惨殺屋敷って」
「人んちに勝手な名前つけんなよ」
「何があったかは、どこにも書いてないんです、噂だけで」
「じゃあ、なんもねえんだよ」
宮内は、そっすね、と言って画面を消した。
家は、小林牧場からそう遠くない台地の縁に建っている。
春には桜並木に人が集まる辺りだが、十月の夕方は車もほとんど通らない。
細い舗装路が林の手前で曲がっていて、その曲がり角の内側に家がある。
裏はすぐ雑木林で、横には農道が谷津田のほうへ下りていく。
田んぼはとっくに刈り終わって、切り株から二番穂が青く伸びていた。
雨戸は全部閉まっている。
郵便受けはガムテープでふさがれ、電気のメーターも外してあった。
道路側はクズと篠竹に呑まれて、家の下半分が見えない。
庭の奥では、セイタカアワダチソウが黄色い頭をそろえていた。
刈払機のエンジンをかけて、角の軽トラのそばから刈り始めた。
篠竹は根元を払うと、倒れるときにばさばさと鳴る。
宮内が熊手でかき寄せて、袋に詰めて道の端に並べていく。
刈った草の青臭さが、マスクの上からでも鼻に来た。
縄が目に入ったのは、道路側の草を半分ほど落としたころだ。
家のまわりを、膝の下くらいの高さで荒縄が一周している。
ところどころに短い木の杭が打ってあって、そこに縄を結んである。
庭木の幹にも巻きつけて、家をぐるりと囲っていた。
境界からは、一メートルほど内側になる。
雨ざらしのわりに、縄はほつれていない。
図面には、そんな線は一本も描かれていなかった。
「なんすか、あれ」
「知らねえ、触るなよ」
触るも何も、あそこまで行くには敷地に入るしかない。
俺たちの仕事は、境界のこっち側だけだ。
道ばたには、空き缶やたばこの吸い殻が落ちていた。
夜中に来る連中の置き土産らしい。
宮内がそれも拾って、別の袋に分けた。
四時を過ぎると、林の影が道の半分まで伸びてくる。
林の手前の角まで来ると、そこだけ空気がひやっとした。
刃の音が、木立の奥に吸いこまれていく。
縄の角が、境界のすぐ向こうまで寄ってきている。
刃を当てないように、俺はその手前で止めた。
アスファルトには、もう陽が当たっていない。
四時二十分、クズの蔓が刃に巻きついて、エンジンを止めた。
耳の中がじんとして、虫の声がやっと戻ってくる。
しゃがんで蔓をほどいていると、家の中で何かがこすれた。
雨戸の内側を、指の腹でなぞるような音だった。
「ハクビシンっすよ」
宮内が軽く言う。
空き家の天井裏には、たいてい何か住みついている。
俺もそう思って、蔓の残りを引きちぎった。
草刈りが一段落したのは、四時半だった。
刈払機を荷台に戻して、杭の確認に移る。
図面の杭には、一から十六まで番号が振ってある。
農道に沿って八本、舗装路に沿って八本。
裏の林側は、角と角を一本の線でつないであるだけだ。
宮内がゆうべ事務所で、番号を書いた白い札を作ってきていた。
杭を見つけたら札を立てかけて、俺が会社のカメラで撮る。
それを十六回やれば、今日は終わりだ。
始めるのは、農道の下の端からにした。
一番はすぐに見つかった。
コンクリートの杭で、頭に十字が刻んである。
二番は土に半分埋まっていて、鎌の先で掘り出した。
宮内が札を立てて、俺がシャッターを切る。
図面に丸をつけるのも宮内だ。
慣れた手順で、口数も減っていく。
三番は、農道の脇の草むらに沈んでいた。
「三番、あったぞ」
声をかけて、札を受け取ろうと手を伸ばす。
「さん」
家のほうから聞こえた。
低くて平たい声で、男とも女とも決めにくい。
首の後ろが、すっと冷えた。
宮内が顔を上げて、こっちを見る。
「やまびこっすか」
「壁に跳ね返ったんだろ」
言いながら、俺の声とは似ていないと思っていた。
「ラジオとか、つけっぱなしで」
「メーター外れてんだぞ」
宮内は、あ、と言って黙った。
雨戸は農道のほうを向いて、平らに並んでいる。
跳ね返るなら、あそこだ。
そういうことにして、シャッターを切った。
四番、五番、六番と、何も起きなかった。
番号を口に出したかどうか、よく覚えていない。
たぶん、出していない。
七番は杭の頭が欠けていて、写真を二枚撮った。
八番は、農道と舗装路の角にある。
停めておいた軽トラのすぐ横だ。
草をよけると、赤いペンキの残った杭が顔を出す。
「はい、八番」
宮内が札を立てかけながら、声に出した。
「はち」
今度は、間が長かった。
それに、農道側の壁から来た感じがしない。
もっと奥の、家の真ん中あたりから聞こえた。
俺は家のほうを向いて、腹から声を出した。
「おーい」
何も返ってこない。
虫が鳴いて、遠くで犬が吠えるだけだ。
宮内が、試すみたいに小さく言った。
「八」
「はち」
「おーいには、返さないんすね」
宮内は笑おうとして、口の端だけを上げた。
帰ろうか、と一瞬思った。
でも杭は、まだ半分ある。
写真がそろわないと、持ち主に出す報告が書けない。
明日もう一回ここに来る気には、なれなかった。
日が沈むまで、あと二十分とちょっとしかない。
「番号、口に出すのはやめとこう」
「了解っす」
宮内は札の束を、胸の前で抱え直した。
舗装路に出ると、林の影で足元が暗くなった。
九番から先は、さっき刈ったばかりの道ばただ。
杭は見つけやすい。
宮内が黙って札を立てて、俺が黙って撮る。
図面に丸をつけるボールペンの音が、かりかりと耳につく。
家は、ずっと右手にあった。
閉めきった雨戸の列が、道に沿って並んでいる。
十二番のあたりで、軽自動車が一台だけ通った。
ライトが雨戸の列をなでて、林の奥へ消えていく。
運転していた人は、こっちを見もしなかった。
宮内が、詰めていた息をそっと吐く。
十五番まで、声は一度もしなかった。
十六番は、舗装路が林に入る手前にある。
家の角が、いちばん道に寄ってくるところだ。
さっき刃を止めた、縄の角の前でもある。
杭は、アスファルトの端と土の境目に頭を出している。
俺はしゃがんで、札を立てる場所を手で払った。
カメラを扱うので、軍手は外してポケットに入れてある。
宮内は道の真ん中に立って、図面を見ている。
「これで最後っすね、十六」
言ってから、宮内は自分の口を手で押さえた。
「じゅうなな」
近い。
雨戸一枚の向こうで、耳もとに口を寄せられたみたいに聞こえた。
宮内の顔から、血の気が引いていくのが分かる。
俺は、図面の数字を頭の中でなぞった。
十六で終わりだ。
十七なんて杭は、どこにもない。
「じゅうなな」
もう一度。
「じゅうなな、じゅうなな」
同じ高さ、同じ間で、数えるでも呼ぶでもない声が繰り返す。
俺の口は、勝手に閉じていた。
宮内も、何も言わない。
札の束が、宮内の手の中でかちかちと鳴っている。
しゃがんだまま、左手をアスファルトについていた。
そこが温かい。
昼の日なたの名残じゃない。
この角は、草を刈りに来たときから林の影の中だ。
少し横にずらすと、路面はちゃんと冷たい。
軽トラを停めたのも、反対側の角だ。
手のひらを路面に滑らせて、ぬくもりの切れ目を探す。
温かいのは、人がひとり横になったくらいの広さだけだった。
さっきまで、誰かがそこに寝そべっていたみたいに。
湿った藁の匂いが、低いところにたまっている。
手を引っこめて、立ち上がった。
道の真ん中まで、後ろ向きのまま下がる。
誰かいるんだ、と思った。
夜中に騒ぎに来る連中の話が、頭に浮かぶ。
中に入りこんで、ふざけているやつがいるのかもしれない。
それなら、相手は人間だ。
人間なら、一番まずいのは、こっちが入っていくことだった。
番号を真似するのも、外の声を聞いていればできる。
十七だけが、どうしても合わなかった。
道の真ん中から、十六番の杭にカメラを向けた。
札は立てていない。
もう一度しゃがむ気には、なれなかった。
ズームをいっぱいに伸ばして、シャッターを切る。
スマホを出して、社長にかけた。
「中に、誰かいるみたいで」
「入るなよ」
社長は先にそれを言った。
「写真は撮れたのか」
「十六番まで、全部」
「じゃあ帰ってこい、警察のことは俺が持ち主と話す」
電話を切ると、宮内はもう袋のほうへ歩き出していた。
「先輩、あれ、数えてたんすかね」
「知らねえよ」
「十七って、何の数なんすか」
俺は答えなかった。
答えなんか、知らないし知りたくもない。
袋は、道の端に六つ並んでいる。
二人で抱えて、角の軽トラまで運ぶ。
最後の一袋を取りに、懐中電灯を持って戻った。
気がつくと、その光を縄の角に向けていた。
見なきゃいいのに、と自分でも思う。
光の輪の中で、縄が一か所だけ地面に垂れている。
杭が一本、抜けていた。
抜けた跡の穴は、縁の土がまだ黒く湿っている。
穴の隣の杭に、墨で何か書いてある。
光を寄せると、かすれた字で十六と読めた。
縄の杭にも、番号が振ってあったらしい。
誰が打って、誰が数えたのかは知らない。
反対隣の杭は、草の陰で字が読めない。
抜けているのが何番なのか、数えるまでもなかった。
「先輩、早く」
角のほうで、宮内が軽トラのエンジンをかけている。
俺は袋をつかんで、走らずに歩いた。
走ったら、何かに追いつかれる気がした。
背中のほうで、もう声はしない。
虫の声と、林の葉がこすれる音だけだった。
五時十分、俺たちはその家を離れた。
作業着に染みた草の青臭さが、車の中にこもっている。
そこに藁の匂いが混じっている気がして、窓を少し開けた。
宮内は帰り道、ひと言もしゃべらなかった。
途中で見えた牧場の桜並木は、薄暗い中でも、葉が色づきかけているのが分かる。
それを言おうとして、俺も口を閉じた。
声に出したものには、何か返ってきそうな気がする。
その晩は袋を置き場に下ろして、写真だけパソコンに移した。
フォルダの写真は、十七枚あった。
七番を二枚撮ったからだ。
分かっている。
それでも一枚消そうとして、マウスの上で指が止まった。
報告書に貼ったのは、十六枚だけだ。
三日後の金曜、資材置き場で袋の中身をあけた。
刈った草は、処分場に持っていく前に一度広げて見る。
空き缶や石が混じっていると、受けつけてもらえないからだ。
宮内は別の現場に出ていて、置き場には俺ひとりだった。
四つ目の袋の底で、軍手の指が硬いものに当たった。
引っぱり出す。
長さ五十センチほどの、先を尖らせた木の杭だった。
頭に、荒縄の結び目がひとつ付いたままだ。
結び目の先で、縄はちぎれていた。
側面に、かすれた墨の字がある。
十七。
刈払機の刃に引っかけて、飛ばしたんだと思おうとした。
でも、この杭が打ってあったのは境界の向こう側だ。
縄の角の手前で刃を止めたのは、俺自身だった。
それに、土に刺さった杭は刃で引っかけたくらいでは抜けない。
袋に詰めたのは宮内だが、電話で聞くと、そんなもの拾ってないと言う。
声が、少し裏返っていた。
「あの現場、次があっても俺は外してください」
宮内はそう言って、先に電話を切った。
社長から、持ち主にも聞いてもらった。
縄のことも杭のことも、何も知らないという。
「そっちで処分してください、だってさ」
社長はそれだけ言って、次の現場の段取りに話を移した。
警察の話がどうなったのかは、聞きそびれたままだ。
捨てられなかった。
境界の杭は、勝手に抜いたり捨てたりすると罪に問われることもある。
前に、測量の人からそう聞いた。
これがその杭なのかどうかは、分からない。
図面に載っていないのだから、たぶん違う。
それでも、可燃ごみの袋に入れようとすると手が止まる。
返しに行くなら、あの縄のそばまで入るしかない。
それだけは、やらないと決めている。
杭は新聞紙でくるんで、置き場の棚の奥に寝かせてある。
あれから、あの声は一度も聞いていない。
ただ、棚の前を通るたびに、縄の角のことを考える。
一本抜けたまま、地面に垂れていた縄。
あそこは今も、開いたままだ。
今朝、棚から鎌を取ろうとして、新聞紙ごしに杭に触れた。
温かかった。
トタン屋根の下で、朝の空気はまだ冷たい。
新聞紙をめくると、湿った藁の匂いが上がってきた。
十七、と口の中で言いかけて、俺は歯を噛んだ。
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