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夢の地下道、二十二日のレシート

週に何度か、夜食を買いに行く。
一時ちょうどに部屋を出るから、日付でいえば、もう次の日だ。
コンビニまで歩いて、二十分ほどで戻ってくる。
そのあいだだけ、携帯で音声の配信をつける。

仕事は、会議の録音を文字に起こすことだ。
家でヘッドホンをして、一日じゅう他人の声を打っている。
大磯に越してきたのは、この春だ。
線路の山側にある、古いアパートの二階に住んでいる。
夜中に打ち終わっても、耳の奥ではまだ誰かがしゃべっている。
だから歩くあいだは、自分の声を出すことにした。

配信といっても、聞いているのは三、四人だ。
題は「夜食ラジオ」。
顔も場所も出さない。
コンビニで何を買ったか、話すだけの配信だ。

常連は二人いる。
一人は「しじみ」で、遅番の帰りにいつも聞いている。
もう一人は「夜行便」。
水曜の夜にしか来ない。
毎週、水曜の夜行バスで大阪へ行くのだと書いていた。
木曜の朝から、向こうで仕事があるらしい。
「消灯したので、画面を一番暗くして聞いてます」
最初の夜に、そう書いてきた人だ。
二人とも、顔も本名も知らない。

部屋から三分歩くと、線路の下をくぐる地下道がある。
夢の地下道と呼ばれている。
ゆめのちかみち、と読む。
名前の由来は、大家さんも知らなかった。
「昔は踏切だったって聞いたけどね」
「なかなか開かない踏切だったって」
大家さんが知っていたのは、それくらいだ。

住宅街の道は暗い。
街灯が少なくて、足元は携帯の明かりで照らす。
地下道だけが、白く明るい。
入口から光がこぼれて、道の上に四角く落ちている。
中に入ると、照明がやけに多い。
防犯カメラも多い。
一度数えかけて、途中でやめた。
数え終えたら、見られている数が決まってしまう気がした。

通路は短い。
一分もかからずに、線路の向こうへ出る。
照明があちこちから当たるせいで、足元の影は何枚にも分かれて薄い。
頭の上を電車が通ると、低い音が壁を伝って、靴の裏に来る。

秋になって、夜はもう上着なしでは寒い。
塀の向こうの庭から、金木犀の匂いが流れてくる。
地下道に下りると、虫の声が遠くなる。

越してすぐ、地下道の名前で検索したら、心霊スポットとして出てきた。
少女が出るという書き込みもあった。
夜の十二時がどうとか、昔あった絵がどうとか、そんな話も読んだ。
誰が言い出したのかは分からない。
私は、そういうのを信じるほうじゃない。
信じないから、夜中でも平気であそこを通っていた。

最初におかしかったのは、十月一日の一時四分だ。
時刻を覚えているのは、しじみが「いま何時?」と書いてきたからだ。
「一時四分、地下道に入ります」
そう答えて、明るいほうへ下りた。

真ん中あたりで、額に何かが当たった。
ごん、と骨に響く。
「いった」
声が出て、足が止まった。
前を見ても、何もない。
白い光と、まっすぐな通路があるだけだ。
なんで、なんで、と言いながら手を伸ばした。
指の先は、空気をかいただけだった。

「何かにぶつかった、何もないのに」
笑いながら話すと、コメントが流れる。
「電柱?」
「地下道に電柱はないでしょ」
「壁?」
最後のは夜行便だ。
おでこをさすりながら、向こう側へ抜けた。
コンビニで、肉まんとほうじ茶を買う。
同じ地下道を戻ったが、帰りは何にも当たらなかった。

次の日、仕事の前にアーカイブを聞き直した。
自分の声を聞き直すのは、仕事の癖だ。
「いった」のあとで、音が消えていた。
息も、服のこすれる音も入っていない。
きっちり二十二秒。
そのあとに、「何かにぶつかった」と笑う私の声が続く。

無音のあいだに、コメントが二つ付いていた。
夜行便の「今、音が消えてます」と、しじみの「電波?」。
そのとき、私は画面を見ていなかった。

地下だから、電波が切れたんだと思う。
線路の下は、つながりにくいのかもしれない。
そう決めて、原稿に戻った。
一つだけ、引っかかる。
その二十二秒のあいだ、私は黙っていなかった。
「なんで、なんで」と、ずっと言っていた覚えがある。
その声は、どこにも入っていない。

その週も、ほかの夜に二度、あそこを通った。
ぶつかることもなかったし、アーカイブの音も切れていない。

次の水曜の夜。
日付でいえば、八日だ。
地下道の真ん中で、私は手を前に出して歩いた。
「今日はぶつからないように、手で探りながら行きます」
夜行便が「慎重」と書く。
しじみは「笑」を三つ並べる。
手のひらには、何も当たらなかった。
そのまま抜けて、いつもの肉まんとほうじ茶を買って帰った。
二十分ほどの、ふつうの夜だ。
少なくとも、私はそう覚えている。

次の日、アーカイブの長さを見て、手が止まった。
四十二分ある。
いつもは二十分前後だ。
再生して、地下道のところまで飛ばした。
「手で探りながら行きます」のあと、足音が止まる。
そこから先は、電車の音ばかりだった。

頭の上を通る、低い音。
一本通って、少しして、また一本。
私の息の音も、ずっと入っている。
数えると、七本あった。
一時を過ぎて、こんなに通るものなのか。
回送か、貨物か、と考えて、それ以上は考えないことにした。

足音が戻るまで、二十二分。
戻る直前に、小さな音が二つ入っている。
こん、こん。
指の関節で、何か硬いものを叩いたような音。

その二十二分のあいだに、コメントがいくつも流れていた。
「止まった?」
「おーい」
「寝た?」
夜行便は一つだけ書いていた。
「バスの時計で、今、一時十五分です」
私はそのどれも、見た覚えがない。
覚えているのは、手を前に出したまま、すたすた歩いた自分だけだ。

財布の中のレシートを出した。
肉まん一つ、ほうじ茶一本。
時刻は、一時三十二分。
いつもなら、一時十分ごろに買っている。
携帯の時計は合っている。
コンビニのレジの時計が、二十分以上も狂うとは思えない。
二つの記録が、同じ二十二分を指している。
食い違っているのは、私の頭の中だけだ。

疲れているんだと思った。
締め切りが重なって、ここ二週間は、一晩に四時間も寝ていない。
立ったまま、ぼんやりしていたのかもしれない。
二十二分も、電車の下で。
「記憶 飛ぶ 疲れ」で検索して、出てきた病名を三つ読んで、画面を閉じた。
閉じてから、気がついた。
一日も八日も、水曜の夜だ。
夜行便がいる夜だった。
ほかの夜には、何も起きていない。

確かめるなら、次の水曜しかない。
録音の時刻がずれていたら、私は仕事でも必ず直す。
直さないと、眠れない。
合わない数字を、そのままにしておけない性分だ。

十四日、水曜の夜は、準備をしてから出た。
左手に、ふだんはしない腕時計。
上着の胸ポケットには、録音をつけたままの古い携帯。
配信は、いつもの携帯でつけた。
「今日は、地下道に入るときと出るときに、時刻を言います」
「みんなも、自分の時計で書いておいてください」
夜行便がすぐに返してきた。
「了解です、こっちはバスの時計で」

一時五分。
「一時五分、入ります」
白い光の中へ下りていく。
真ん中の少し手前で、右手を前に出した。
指先が、止まる。
何もない空中で、手のひらが平らに押し返された。
冷たくも、温かくもない。
押した分だけ、同じ強さで返ってくる。

「あった」
思わず口に出た。
「今日は、ある」
笑おうとした声が、喉の途中で細くなった。
戻ろうとして、前を向いたまま後ずさる。
二歩目で、背中に何かが当たった。
後ろにも、ある。

左右は、ふつうの壁だ。
前と後ろにだけ、見えない壁がある。
私が動けるのは、三歩ほどの長さの、明るい箱の中だけだった。
照明は、ひとつ残らずついている。
カメラも、全部こちらを向いている気がした。
「すみません」
誰に言ったのか、自分でも分からない。
カメラの一つに向かって、手を振った。
見ている人がいるなら、と思った。

腕時計を見る。
一時六分。
「一時六分」
声に出して読んだ。
配信の画面は、入る前の夜行便の「了解」のまま動かない。
新しいコメントは、一つも来ない。

頭の上を、電車が通った。
見えない壁に当てた手のひらまで、細かく震える。
「一時九分」
「一時十二分」
読み上げるたびに、声が小さくなっていく。

指の関節で、前の壁を叩いてみた。
こん、こん。
硬いとも柔らかいともつかない音が、二つ。
その音を、私は知っていた。
八日のアーカイブで、足音が戻る直前に鳴っていた音だ。
先週の録音に、今夜の私の音が入っている。

そこから先は、時刻を読むのをやめた。
読んでも、誰にも届いていない。
しゃがんで、膝を抱える。
床から、湿った匂いが上がってくる。
夢だ、と思おうとした。
この地下道の名前が浮かんで、すぐにやめた。
電車が、何本も通る。
秒針だけを見ていた。
秒針は、ちゃんと回っている。
私の時間は、進んでいる。

一時二十分を過ぎたころ、背中のほうで、何かがふっと抜けた。
もたれていた体が、後ろへ傾く。
手をついて振り返ると、前も後ろも、ただの通路だった。
私は、向こう側の出口へ走った。
後ろは、もう見ない。
地上に出て、そのままコンビニまで走った。

明るい店に入ると、膝が笑った。
肉まんと、ほうじ茶を買う。
レジの人の顔は、見ていない。
お釣りとレシートを、まとめて上着のポケットに突っこんだ。
遠回りする気力は、もう残っていない。
帰りは、目をつぶるようにして、同じ地下道を走り抜けた。
何にも、当たらなかった。

部屋に戻って、鍵をかける。
携帯の画面を見る。
十月十五日、一時三十一分。
日付は、ちゃんと十五日だった。
配信は、とうに切れていた。
画面には「配信が切断されました」とだけ出ている。

朝になってから、記録を順に確かめた。
仕事と同じやり方で。
配信のアーカイブは、五分ちょっとで終わっている。
「一時五分、入ります」のあと、足音が数歩。
それきり、切れていた。
胸ポケットの録音も、同じところで止まっている。
読み上げた時刻も、叩いた音も、どちらにも入っていない。

上着のポケットから、レシートを出した。
しわを伸ばして、机に置く。
肉まん一つ、ほうじ茶一本。
その上に、日付と時刻が印字されている。
十月二十二日、木曜、一時二十六分。
来週の日付だった。

レジの日付の設定が、狂っていたんだと思う。
そう考えるのが、一番まともだ。
店に行って聞けば、すぐに済む話だった。
私は行かなかった。
うちのレジは合っています、と言われたら、その先の考え方が分からない。

代わりに、町役場に電話をかけた。
地下道の防犯カメラの映像を、見せてもらえないかと聞いてみる。
何度か回されて、男の人が出た。
「そういうのは、警察のほうからでないと、お出しできないと思います」
何かあったんですか、と聞かれた。
うまく答えられない。
カメラを管理しているのが町なのかどうかも、電話ではよく分からなかった。
礼を言って、電話を置く。

警察で何をどう話すのか、考えると手が止まる。
来週の日付のレシートを見せて、何と言えばいいのか。
その週は、地下道を通らなかった。
夜食は、昼のうちに買い置きで済ませる。

二十一日、水曜の夜も、外には出なかった。
配信の予定も、消してある。
日付が変わる前に布団に入って、携帯は机の上で充電した。
目覚ましを止めたのは、朝の七時だ。
それまで一度も起きていない。
そう覚えている。

携帯に、通知が一つ来ていた。
「夜食ラジオのアーカイブが保存されました」
十月二十二日、一時五分から。
長さは、二十一分。

再生した。
「一時五分、入ります」
私の声だ。
足音が数歩。
「あった」
「今日は、ある」
そこから先は、私が覚えているとおりだった。

「一時六分」
電車の音。
「一時九分」
「一時十二分」
こん、こん。
しばらく、電車の音と私の息だけが続く。
それから、走る足音。
自動ドアの開く音と、店のチャイム。
「肉まん、一つ」
「レシートは、ご入用ですか」
知らない男の人の声が、そう聞く。
私の声が、「はい」と答えている。
アーカイブは、それきりだ。

コメントは、四つだけ付いていた。
しじみの「今日は外?」が一つ。
あとの三つは、夜行便だった。
「先週は、途中で切れましたね」
「走ってる?」
「こっちのバスの時計でも、一時二十六分です」
最後のは、レジの音のすぐあとに流れていた。

二十一日の夜、私は部屋から出ていない。
玄関の靴は、いつもの向きで揃えてあった。
それが何の証明にもならないことも、分かっている。

十五日の、あの壁の中のことは、全部覚えている。
覚えているのに、それが十五日だったと示す記録は、一つもない。
二十二日だったと示すものなら、ある。
アーカイブと、レシートと、知らない誰かのバスの時計。

地下道のカメラにも、二十二日の一時五分から、何かが映っていると思う。
私なのか、誰もいない明るい通路なのか。
それを見る方法は、私にはない。

レシートは、机の引き出しの奥だ。
感熱紙だから、そのうち字が薄くなる。
今はまだ、はっきり読める。
十月二十二日、一時二十六分。
肉まん一つ、ほうじ茶一本。

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