週に何度か、夜食を買いに行く。
一時ちょうどに部屋を出るから、日付でいえば、もう次の日だ。
コンビニまで歩いて、二十分ほどで戻ってくる。
そのあいだだけ、携帯で音声の配信をつける。
仕事は、会議の録音を文字に起こすことだ。
家でヘッドホンをして、一日じゅう他人の声を打っている。
大磯に越してきたのは、この春だ。
線路の山側にある、古いアパートの二階に住んでいる。
夜中に打ち終わっても、耳の奥ではまだ誰かがしゃべっている。
だから歩くあいだは、自分の声を出すことにした。
配信といっても、聞いているのは三、四人だ。
題は「夜食ラジオ」。
顔も場所も出さない。
コンビニで何を買ったか、話すだけの配信だ。
常連は二人いる。
一人は「しじみ」で、遅番の帰りにいつも聞いている。
もう一人は「夜行便」。
水曜の夜にしか来ない。
毎週、水曜の夜行バスで大阪へ行くのだと書いていた。
木曜の朝から、向こうで仕事があるらしい。
「消灯したので、画面を一番暗くして聞いてます」
最初の夜に、そう書いてきた人だ。
二人とも、顔も本名も知らない。
部屋から三分歩くと、線路の下をくぐる地下道がある。
夢の地下道と呼ばれている。
ゆめのちかみち、と読む。
名前の由来は、大家さんも知らなかった。
「昔は踏切だったって聞いたけどね」
「なかなか開かない踏切だったって」
大家さんが知っていたのは、それくらいだ。
住宅街の道は暗い。
街灯が少なくて、足元は携帯の明かりで照らす。
地下道だけが、白く明るい。
入口から光がこぼれて、道の上に四角く落ちている。
中に入ると、照明がやけに多い。
防犯カメラも多い。
一度数えかけて、途中でやめた。
数え終えたら、見られている数が決まってしまう気がした。
通路は短い。
一分もかからずに、線路の向こうへ出る。
照明があちこちから当たるせいで、足元の影は何枚にも分かれて薄い。
頭の上を電車が通ると、低い音が壁を伝って、靴の裏に来る。
秋になって、夜はもう上着なしでは寒い。
塀の向こうの庭から、金木犀の匂いが流れてくる。
地下道に下りると、虫の声が遠くなる。
越してすぐ、地下道の名前で検索したら、心霊スポットとして出てきた。
少女が出るという書き込みもあった。
夜の十二時がどうとか、昔あった絵がどうとか、そんな話も読んだ。
誰が言い出したのかは分からない。
私は、そういうのを信じるほうじゃない。
信じないから、夜中でも平気であそこを通っていた。
最初におかしかったのは、十月一日の一時四分だ。
時刻を覚えているのは、しじみが「いま何時?」と書いてきたからだ。
「一時四分、地下道に入ります」
そう答えて、明るいほうへ下りた。
真ん中あたりで、額に何かが当たった。
ごん、と骨に響く。
「いった」
声が出て、足が止まった。
前を見ても、何もない。
白い光と、まっすぐな通路があるだけだ。
なんで、なんで、と言いながら手を伸ばした。
指の先は、空気をかいただけだった。
「何かにぶつかった、何もないのに」
笑いながら話すと、コメントが流れる。
「電柱?」
「地下道に電柱はないでしょ」
「壁?」
最後のは夜行便だ。
おでこをさすりながら、向こう側へ抜けた。
コンビニで、肉まんとほうじ茶を買う。
同じ地下道を戻ったが、帰りは何にも当たらなかった。
次の日、仕事の前にアーカイブを聞き直した。
自分の声を聞き直すのは、仕事の癖だ。
「いった」のあとで、音が消えていた。
息も、服のこすれる音も入っていない。
きっちり二十二秒。
そのあとに、「何かにぶつかった」と笑う私の声が続く。
無音のあいだに、コメントが二つ付いていた。
夜行便の「今、音が消えてます」と、しじみの「電波?」。
そのとき、私は画面を見ていなかった。
地下だから、電波が切れたんだと思う。
線路の下は、つながりにくいのかもしれない。
そう決めて、原稿に戻った。
一つだけ、引っかかる。
その二十二秒のあいだ、私は黙っていなかった。
「なんで、なんで」と、ずっと言っていた覚えがある。
その声は、どこにも入っていない。
その週も、ほかの夜に二度、あそこを通った。
ぶつかることもなかったし、アーカイブの音も切れていない。
次の水曜の夜。
日付でいえば、八日だ。
地下道の真ん中で、私は手を前に出して歩いた。
「今日はぶつからないように、手で探りながら行きます」
夜行便が「慎重」と書く。
しじみは「笑」を三つ並べる。
手のひらには、何も当たらなかった。
そのまま抜けて、いつもの肉まんとほうじ茶を買って帰った。
二十分ほどの、ふつうの夜だ。
少なくとも、私はそう覚えている。
次の日、アーカイブの長さを見て、手が止まった。
四十二分ある。
いつもは二十分前後だ。
再生して、地下道のところまで飛ばした。
「手で探りながら行きます」のあと、足音が止まる。
そこから先は、電車の音ばかりだった。
頭の上を通る、低い音。
一本通って、少しして、また一本。
私の息の音も、ずっと入っている。
数えると、七本あった。
一時を過ぎて、こんなに通るものなのか。
回送か、貨物か、と考えて、それ以上は考えないことにした。
足音が戻るまで、二十二分。
戻る直前に、小さな音が二つ入っている。
こん、こん。
指の関節で、何か硬いものを叩いたような音。
その二十二分のあいだに、コメントがいくつも流れていた。
「止まった?」
「おーい」
「寝た?」
夜行便は一つだけ書いていた。
「バスの時計で、今、一時十五分です」
私はそのどれも、見た覚えがない。
覚えているのは、手を前に出したまま、すたすた歩いた自分だけだ。
財布の中のレシートを出した。
肉まん一つ、ほうじ茶一本。
時刻は、一時三十二分。
いつもなら、一時十分ごろに買っている。
携帯の時計は合っている。
コンビニのレジの時計が、二十分以上も狂うとは思えない。
二つの記録が、同じ二十二分を指している。
食い違っているのは、私の頭の中だけだ。
疲れているんだと思った。
締め切りが重なって、ここ二週間は、一晩に四時間も寝ていない。
立ったまま、ぼんやりしていたのかもしれない。
二十二分も、電車の下で。
「記憶 飛ぶ 疲れ」で検索して、出てきた病名を三つ読んで、画面を閉じた。
閉じてから、気がついた。
一日も八日も、水曜の夜だ。
夜行便がいる夜だった。
ほかの夜には、何も起きていない。
確かめるなら、次の水曜しかない。
録音の時刻がずれていたら、私は仕事でも必ず直す。
直さないと、眠れない。
合わない数字を、そのままにしておけない性分だ。
十四日、水曜の夜は、準備をしてから出た。
左手に、ふだんはしない腕時計。
上着の胸ポケットには、録音をつけたままの古い携帯。
配信は、いつもの携帯でつけた。
「今日は、地下道に入るときと出るときに、時刻を言います」
「みんなも、自分の時計で書いておいてください」
夜行便がすぐに返してきた。
「了解です、こっちはバスの時計で」
一時五分。
「一時五分、入ります」
白い光の中へ下りていく。
真ん中の少し手前で、右手を前に出した。
指先が、止まる。
何もない空中で、手のひらが平らに押し返された。
冷たくも、温かくもない。
押した分だけ、同じ強さで返ってくる。
「あった」
思わず口に出た。
「今日は、ある」
笑おうとした声が、喉の途中で細くなった。
戻ろうとして、前を向いたまま後ずさる。
二歩目で、背中に何かが当たった。
後ろにも、ある。
左右は、ふつうの壁だ。
前と後ろにだけ、見えない壁がある。
私が動けるのは、三歩ほどの長さの、明るい箱の中だけだった。
照明は、ひとつ残らずついている。
カメラも、全部こちらを向いている気がした。
「すみません」
誰に言ったのか、自分でも分からない。
カメラの一つに向かって、手を振った。
見ている人がいるなら、と思った。
腕時計を見る。
一時六分。
「一時六分」
声に出して読んだ。
配信の画面は、入る前の夜行便の「了解」のまま動かない。
新しいコメントは、一つも来ない。
頭の上を、電車が通った。
見えない壁に当てた手のひらまで、細かく震える。
「一時九分」
「一時十二分」
読み上げるたびに、声が小さくなっていく。
指の関節で、前の壁を叩いてみた。
こん、こん。
硬いとも柔らかいともつかない音が、二つ。
その音を、私は知っていた。
八日のアーカイブで、足音が戻る直前に鳴っていた音だ。
先週の録音に、今夜の私の音が入っている。
そこから先は、時刻を読むのをやめた。
読んでも、誰にも届いていない。
しゃがんで、膝を抱える。
床から、湿った匂いが上がってくる。
夢だ、と思おうとした。
この地下道の名前が浮かんで、すぐにやめた。
電車が、何本も通る。
秒針だけを見ていた。
秒針は、ちゃんと回っている。
私の時間は、進んでいる。
一時二十分を過ぎたころ、背中のほうで、何かがふっと抜けた。
もたれていた体が、後ろへ傾く。
手をついて振り返ると、前も後ろも、ただの通路だった。
私は、向こう側の出口へ走った。
後ろは、もう見ない。
地上に出て、そのままコンビニまで走った。
明るい店に入ると、膝が笑った。
肉まんと、ほうじ茶を買う。
レジの人の顔は、見ていない。
お釣りとレシートを、まとめて上着のポケットに突っこんだ。
遠回りする気力は、もう残っていない。
帰りは、目をつぶるようにして、同じ地下道を走り抜けた。
何にも、当たらなかった。
部屋に戻って、鍵をかける。
携帯の画面を見る。
十月十五日、一時三十一分。
日付は、ちゃんと十五日だった。
配信は、とうに切れていた。
画面には「配信が切断されました」とだけ出ている。
朝になってから、記録を順に確かめた。
仕事と同じやり方で。
配信のアーカイブは、五分ちょっとで終わっている。
「一時五分、入ります」のあと、足音が数歩。
それきり、切れていた。
胸ポケットの録音も、同じところで止まっている。
読み上げた時刻も、叩いた音も、どちらにも入っていない。
上着のポケットから、レシートを出した。
しわを伸ばして、机に置く。
肉まん一つ、ほうじ茶一本。
その上に、日付と時刻が印字されている。
十月二十二日、木曜、一時二十六分。
来週の日付だった。
レジの日付の設定が、狂っていたんだと思う。
そう考えるのが、一番まともだ。
店に行って聞けば、すぐに済む話だった。
私は行かなかった。
うちのレジは合っています、と言われたら、その先の考え方が分からない。
代わりに、町役場に電話をかけた。
地下道の防犯カメラの映像を、見せてもらえないかと聞いてみる。
何度か回されて、男の人が出た。
「そういうのは、警察のほうからでないと、お出しできないと思います」
何かあったんですか、と聞かれた。
うまく答えられない。
カメラを管理しているのが町なのかどうかも、電話ではよく分からなかった。
礼を言って、電話を置く。
警察で何をどう話すのか、考えると手が止まる。
来週の日付のレシートを見せて、何と言えばいいのか。
その週は、地下道を通らなかった。
夜食は、昼のうちに買い置きで済ませる。
二十一日、水曜の夜も、外には出なかった。
配信の予定も、消してある。
日付が変わる前に布団に入って、携帯は机の上で充電した。
目覚ましを止めたのは、朝の七時だ。
それまで一度も起きていない。
そう覚えている。
携帯に、通知が一つ来ていた。
「夜食ラジオのアーカイブが保存されました」
十月二十二日、一時五分から。
長さは、二十一分。
再生した。
「一時五分、入ります」
私の声だ。
足音が数歩。
「あった」
「今日は、ある」
そこから先は、私が覚えているとおりだった。
「一時六分」
電車の音。
「一時九分」
「一時十二分」
こん、こん。
しばらく、電車の音と私の息だけが続く。
それから、走る足音。
自動ドアの開く音と、店のチャイム。
「肉まん、一つ」
「レシートは、ご入用ですか」
知らない男の人の声が、そう聞く。
私の声が、「はい」と答えている。
アーカイブは、それきりだ。
コメントは、四つだけ付いていた。
しじみの「今日は外?」が一つ。
あとの三つは、夜行便だった。
「先週は、途中で切れましたね」
「走ってる?」
「こっちのバスの時計でも、一時二十六分です」
最後のは、レジの音のすぐあとに流れていた。
二十一日の夜、私は部屋から出ていない。
玄関の靴は、いつもの向きで揃えてあった。
それが何の証明にもならないことも、分かっている。
十五日の、あの壁の中のことは、全部覚えている。
覚えているのに、それが十五日だったと示す記録は、一つもない。
二十二日だったと示すものなら、ある。
アーカイブと、レシートと、知らない誰かのバスの時計。
地下道のカメラにも、二十二日の一時五分から、何かが映っていると思う。
私なのか、誰もいない明るい通路なのか。
それを見る方法は、私にはない。
レシートは、机の引き出しの奥だ。
感熱紙だから、そのうち字が薄くなる。
今はまだ、はっきり読める。
十月二十二日、一時二十六分。
肉まん一つ、ほうじ茶一本。
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