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浦賀の燈明堂海岸、戸口に出す丼

十月の最初の週に、浦賀へ行った。

高校の同級生の千春から、店を手伝ってほしいと電話があったからだ。

私はその年の春に、会社を辞めていた。
東京の部屋で昼まで寝て、夕方に起きる。
そんな日が半年続いていた。
千春の電話は、外へ出るちょうどいい口実になった。

千春の家は、西浦賀の坂の途中で小さな食堂をやっている。
坂を下りきると、燈明堂海岸に出る。
昼は釣りの人と、海を見に来た人が寄る店だ。
おばあさんが一人で切り盛りしていたけれど、去年の春に亡くなった。
横浜で働いていた千春が戻って、店を継いだ。

京急の浦賀駅からバスに乗り、燈明堂入口で降りた。
十分近く坂を下ると、潮の匂いが先に来る。
引き戸を開けると、千春がカウンターの奥から顔を上げた。

痩せていた。
頬の肉が落ちて、目だけが大きい。

「めぐ、ほんとに来てくれた」

声は昔のままだ。
私は荷物を上がり框に置いて、笑い返した。

店は、カウンターに丸椅子が七つ。
奥に小上がりが一つ。
引き戸に近いカウンターの端に、黒い電話が置いてある。
ダイヤルを回す、古い型だ。
受話器の上に、薄く埃が乗っている。

「これ、まだ使えるの」
「ばあちゃんの電話。線は生きてる。常連さんがたまにかけてくるから」

千春は受話器の埃を指で拭って、肩をすくめた。

「私は携帯だけど、ばあちゃんは最後までこれだった。番の電話って呼んでた」
「番って何の」
「知らない。聞いたのはそれだけ」

千春の家は、ずっと昔から燈明崎のそばにいる。
高校の頃に一度だけ聞いた話では、先祖が燈明堂へ油を運ぶ役だったらしい。
本当かどうかは、千春も知らない。

昼の仕事は楽だった。
磯そばと、焼き魚の定食。
注文を通して、皿を下げる。
客は多くても一度に五人くらいで、三時には途切れる。
手が空くと、千春は厨房の床に座り込んでいた。

一日目の夕方、二人で海岸まで歩いた。

白い壁の燈明堂が、石垣の上に立っている。
慶安元年に建った灯台の跡で、いまの建物は昭和の終わりに復元したものだ。
千春が、観光の案内みたいな調子で教えてくれた。

岬の手前に、古い石碑が並んでいる。
道から眺めただけで、近くへは寄らなかった。
昔、このあたりで骨が出たらしい。
戦の死者だという碑もあれば、首切場だったという言い伝えもある。
千春はそこまで言って、口を閉じた。
私も聞かなかった。

海は澄んでいて、足元の石がよく見えた。
対岸に房総の陸が薄く浮いている。
駐車場には、まだ釣りの人の車が三台残っていた。

閉店は夜の八時。
片付けが終わると、千春は鍋に湯を沸かした。
そばを一人前、茹でる。
丼につゆを張って、そばを入れて、ねぎを散らす。
それを、引き戸にいちばん近い丸椅子の前に置いた。
箸は、丼の右に揃えて置く。

次に、棚から小さな油の皿を出した。
芯に火をつけて、海側の窓に据える。
菜種油の匂いが、店の中に広がった。

「毎晩やるの」
「うん。ばあちゃんがそうしてた。これだけはやっとけって」

千春は電気を消しながら、決まりを三つ言った。

「灯は朝まで。戸は夜のうちは開けない。足音は数えない」

最後の一つで、私は吹き出した。

「数えないって何」
「知らない。でも、そう言われた」

私は子どもの頃から、階段の段を数える癖がある。
東京の部屋でも、上の階の足音を数えながら眠っていた。
千春には言わなかった。

寝るのは店の二階だ。
千春は奥の部屋で、私は海側の六畳。
窓の下に坂があり、その先が海岸の駐車場になる。
駐車場は夜の九時半で閉まる。
そのあとは、波と風の音だけだ。

一日目の夜。
十一時を回った頃に、目が覚めた。
枕が変わると、眠りが浅くなる。

窓の下に、階下の灯の色が落ちていた。
坂の砂利が、その分だけ丸く見える。
その外は、海も空も同じ黒だ。

砂利を踏む音がした。
坂の下から、ゆっくり上がってくる。
一人分の足音だ。
重い靴で、歩幅が短い。
気づくと、数えている。
八つ目で、やめた。
店の前で、止まった。

そのまま、何も起きない。
波の音だけが続く。
私は布団の中で膝を抱えて、音の切れ目を待っていた。

いつ眠ったのか、覚えていない。

朝、下りていくと、丼はそのまま残っていた。
そばは伸びて、つゆは濁っている。
箸が、丼の上に渡してあった。

「千春、箸って右に置いたよね」
「ああ、私そうやって渡すこともあるよ。寝ぼけてたのかも」

千春はそう言って、丼を流しに運んだ。
私もそれで納得した。
釣りの人なら、昼に何人も見ている。
夜も岬へ行くのだろう。
足音はそれだ。
箸は千春だ。
片付いた。

二日目は、昼から客が多かった。
休日で、海岸に家族連れが来ている。
磯そばが二十杯出た。
千春は厨房で、立ちっぱなしだ。
夕方には、手が震えていた。

最後の客は、常連の釣りのおじさんだった。
缶ビールを一本だけ飲んで、海側の窓を顎で指す。

「夜、岬から戻るとき、この店の窓の灯が目印でさ。ばあさんの頃から、ずっとだよ」
「そうなんですか」
「暗いだろ、あの岬。戻るとき、あれがないとどっちが陸か分かんなくなる」

おじさんは笑って、勘定を置いて出て行った。
引き戸が、閉まりきらずに少し戻る。
私が手で押して閉めた。
千春は、その話を聞いていないふりをしていた。

その夜も、十一時過ぎに砂利の音がした。

ただ、今度は数が合わない。
一人の歩幅にしては、音が多い。
二人が、少しずれて歩いている。
そう思った。
数えてはいない。
数える前に、多いと分かった。

店の前で止まる。
引き戸のガラスに、何かが当たった。
指で軽く叩いたような、小さな音だった。
一度だけ。

少し間があって、階下で電話が鳴った。
半分だけ。
鳴りきらずに、切れた。

私は息を止めて、天井の木目を見ていた。
階下の窓には、灯がある。
あの灯は、足音の相手からも見えている。
思った途端、首の後ろが冷えた。

朝になって、千春に言った。

「夜、戸を叩かれたかも」
「風だよ。あの戸、建て付けが悪いから」
「電話も鳴った。半分くらい」
「あれ、たまに勝手に鳴るの。線が古いから」

千春は笑わなかった。
それでも、私はその説明を受け取った。
海からの風は、夜のほうが強い。
ガラスは鳴る。
古い線は、風で電話を鳴らす。
二人分に聞こえたのは、坂で足音が反響しただけだ。

丼はそのままで、箸は右にあった。
油の皿を見ると、芯が短く切ってあった。
千春が朝のうちに切ったのだと思って、聞かなかった。

三日目の昼、坂の上の隣家のおばあさんが、煮物を持って来た。
千春のおばあさんと仲が良かった人らしい。
客のいない時間で、三人で茶を飲んだ。

「夜の丼、ちゃんと出してる」
「出してます」
「あれは供えじゃないからね。数合わせだから」

千春が、湯呑みを置いた。

「数合わせって、何ですか」

私が聞いた。
おばあさんは首を振っただけで、答えなかった。

「あの家は、千春ちゃんのばあさんの前からやってる。決まりは四つ。千春ちゃん、四つ言った?」

千春は三つしか言っていない。
私はそう思ったけれど、口には出さなかった。
千春が、小さく頷いたからだ。

おばあさんが帰ってから、聞いた。

「四つ目って」
「返事をしない」

千春は、流しのほうを向いたまま言った。

「叩かれても、呼ばれても、電話が鳴っても、返事をしない。言うの忘れてた。ごめん」

謝る声が、小さかった。
私は洗い物の手を止めて、千春の背中を見ていた。
肩甲骨が、シャツの上から分かる。

その日は、三時で客が途切れたままだった。
早仕舞いの片付けの途中で、千春が立っていられなくなった。
奥の部屋に寝かせて、額に濡れたタオルを置く。
体温計は三十八度五分。

「丼と灯、頼める」
「やっとく」

千春を置いて出る気はない。
私は一人で、そばを茹でた。
丼を戸口の席に置き、箸を右に揃えた。
油の皿に火をつけて、窓へ運ぶ。
電気を消すと、店の中が灯の色だけになった。
カウンターの端の黒い電話が、灯を受けて鈍く光っている。

二階へ上がる気になれなかった。
千春の様子も見ていたい。
私はカウンターの奥、厨房に近い席に座った。
戸口の丼から、いちばん遠い席だ。

時計の針の音が、やけに大きい。
引き戸の隙間から、潮の匂いと冷えた空気が入ってくる。
足首のあたりだけが冷たい。
油の匂いと混ざって、鼻の奥が重くなった。

十時半。
坂を上がる車はもうない。

十一時を過ぎた。

砂利の音。
坂の下から、上がってくる。

今夜は、数えずにいられなかった。
一人、二人。
三つ目の足音がある。
歩幅が揃っていない。
人数ではなく、足の数がおかしい。
そこまで思って、数えるのをやめる。

店の前で、止まった。

ガラスが鳴った。
二度。
指で叩く音だ。

私は口を押さえようとした。
間に合わない。
喉が、勝手に動いていた。

「いらっしゃいませ」

声が、出ていた。
この三日間、引き戸が鳴るたびに言ってきた言葉だ。

ガラスの向こうで、音が止んだ。

カウンターの端で、電話が鳴った。

私は動けなかった。
手のひらが汗で滑って、カウンターの縁をつかみ直す。
電話は鳴り続けている。
油の灯が一度大きくなって、元に戻った。

鳴りやんだ。
受話器が、受け台の上でかたりと音を立てた。

戸口の丸椅子が、床を擦った。

砂利の音が、坂を下りていく。
来たときより、音が少ない。
一人分だけ、残った気がした。
それがどこに残ったのかは、考えないことにした。

朝まで、席を動かなかった。
窓が白くなってから、やっと立つ。
膝が固まっていて、二歩目でよろけた。

丼は、そのままだった。
そばは伸びている。
箸は、丼の上に渡してあった。
右に置いたはずだ。
私が、この手で置いた。

戸口の丸椅子が、カウンターから離れて、引き戸のほうへ寄っていた。
座面に手を当てると、ほかの椅子より温かい。
朝日が当たる位置ではない。
私は手を引っ込めて、エプロンで拭いた。

千春の熱は、朝には下がっていた。
私は箸のことを言った。
椅子のことも。
千春は丼を流しに運んでから、聞いた。

「返事、した?」
「したかも。いらっしゃいませって」

千春は何も言わなかった。
流しの水を止めて、濡れた手をそのままにしている。
ただ、私の肩に手を置いて、二回、軽く叩いた。
それだけだ。

残りの三日、足音は来なかった。
電話も鳴らない。
丼は毎晩出して、灯も置いた。
私は二階で眠れた。
千春の顔色も、少し戻っている。

ただ、小さなことが二つ。
四日目の昼、風で引き戸が鳴ったとき、私は厨房から声を出していた。

「いらっしゃいませ」

誰もいなかった。
千春が、鍋から目を上げずに言った。

「癖になるよね、それ」
「うん」

それ以上は、二人とも言わなかった。
もう一つは椅子だ。
戸口の丸椅子を、朝にカウンターへ寄せ直す。
昼には、また引き戸のほうへ離れている。

帰る日の朝、二人でもう一度、海岸まで下りた。
燈明堂の白い壁に、朝の光が当たっている。
石碑の見える道を通るとき、千春が足を速めた。
私も合わせる。

燈明堂入口のバス停まで、千春が送ってくれた。

「気にしなくていい。うちの話だから」
「うん」
「でも、何かあったら電話して」

バスの窓から、坂の下の海が見えた。
白い燈明堂が小さくなって、消えた。

東京の部屋に戻って、一週間になる。

昼まで寝る生活には、戻っていない。
夜の十時には布団に入る。
十一時に、目が覚める。
目覚ましは、かけていない。
体のほうが、勝手に起きる。

その夜も、十一時に起きた。
水を飲みに台所へ行って、電気をつけて、気づいた。

玄関の脇の棚に、丼が一つ置いてある。
そばは入っていない。
空の丼だ。
隣に小さな皿があって、芯の短い蝋燭が立っている。
火は消えていた。

私の部屋に、油を灯す皿はない。
蝋燭は、停電用に引き出しへ入れていたものだ。
いつ出したのか、覚えていない。
丼も、棚の奥にしまっていたはずだ。

上の階で、足音がした。
玄関の真上あたりで、止まった。
上の階の人とは、一度も会ったことがない。
数えようとも思わなかったのは、初めてだ。

テーブルの上で、携帯が光った。
見覚えのある局番だ。
横須賀の番号で、千春の携帯ではない。
出なかった。
鳴り終わるまで、画面を見ていた。

丼を取って、流しに戻した。
そのつもりだった。
手は、丼を棚に置き直している。

引き出しから箸を一膳出して、丼の上に渡した。

直さなかった。

舞台になった場所

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