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旧吹上トンネルの下を抜けてきた声

六月の終わりは、工場の中まで湿っている。
床のコンクリートが汗をかいて、長靴の底がきゅっと鳴った。
グリスと雨の匂いが、朝からこもったままだ。

樋口の勤める整備工場は、青梅の黒沢にある。
成木街道を北へ上がって、吹上峠にかかる手前だ。
社長と、社長の父親と、樋口の三人でやっている。
客のほとんどは、このあたりの砕石場に出入りするダンプだった。

朝は、砕石を積んだダンプが列になって成木街道を下っていく。
その合間を、都営バスがのろのろと上がっていく。
ブレーキが鳴いたら、ここへ寄る。
油圧が漏れても、ここへ寄る。
峠の手前の、そういう工場だ。
樋口は三十五で、ここに来て八年になる。

工場の前の道の先に、新吹上トンネルの口が明るく見える。
車で通れるのは、今はその新しい穴だけだ。
その上の山腹に、旧吹上トンネルがある。
新しいほうができてから、入口の前に車止めが置かれた。
今は歩きと自転車しか通れない。
いちばん上には、もっと古い隧道が鉄板で塞がれている。
三本の穴が、山の中で段になって重なっているのだと、親父さんから聞いた。

親父さんは、社長の父親だ。
七十を過ぎても、毎朝つなぎを着て工場に出てくる。
腰の後ろには、長いマイナスドライバーが一本差してあった。
柄が黒ずんで、先が少し曲がっている。
親父さんはそれを、聴き棒と呼んでいた。

先を部品に当てて、柄の尻を耳の前に押しつける。
目を閉じて、しばらく黙る。
それだけで、どのベアリングが鳴いているかを言い当てた。
樋口の知るかぎり、一度も外れたためしがない。
「音は嘘をつかねえ。鳴ってるところに、原因がある」
それが親父さんの口ぐせだ。

その日の夕方、村瀬さんが十トンのダンプで入ってきた。
「トンネルで、変な音がするんだよ」
運転席から降りるなり、そう言った。

村瀬さんは仕事が終わると、ダンプで成木の家まで乗って帰る。
毎晩、新吹上トンネルを通る。
ここ三日、トンネルの真ん中あたりで、荷台のほうから音がするという。
「声みたいなんだよ」
村瀬さんは笑って、帽子のつばを指でいじった。
「あけてー、って聞こえる」

「何を開けるんだよ」
社長が笑うと、村瀬さんも一緒に笑った。
目だけは、笑う前のままだ。

車検のときに、後ろあおりのガタは言われていたらしい。
朝の六時に取りに来るから、音の出どころだけは突き止めてほしい。
そう頼んで、村瀬さんは社長の車で帰っていった。
社長も、そのまま家に戻る。
「親父、無理すんなよ」
親父さんは返事もせずに、もう腰から聴き棒を抜いていた。

七時を回ってから、エンジンをかけて音を探した。
親父さんは荷台の下にもぐって、聴き棒をあちこちに当てていく。
エンジン、ミッション、荷台を上げる油圧のポンプ。
後ろあおりの蝶番にも当てる。
「鳴らねえな」
柄を耳から離して、親父さんは首をかしげた。
「止まってちゃ出ねえ音もある。走らせてみるか」

九時を過ぎて、外はまた雨になっていた。
樋口がハンドルを握り、親父さんが助手席に乗る。
助手席の窓は、雨が吹きこむのもかまわずに全開だ。
空荷のダンプで工場を出て、峠のほうへ上がっていった。

新吹上トンネルの手前で、細い道が脇へ分かれている。
旧道の入口だ。
その道を上がった先に、旧吹上トンネルの口がある。
夜は真っ暗で、道があることさえ分かりにくい。
「昔は、上を通ってたんだ」
親父さんが、暗いほうに顎をしゃくった。

新しいトンネルができる前は、旧吹上トンネルが本道だった。
中の灯はオレンジ色で、何もかも同じ色に見えたという。
幅が狭くて、ダンプ同士だと擦れ違うたびに肝を冷やした。
雨の晩は、天井から水がひっきりなしに垂れてくる。
「その水の音がな、ずっと後ろからついてくるんだよ」
親父さんはそこまで言って、口を閉じた。

「いちばん上のは、鉄板で塞いじまった。もう誰も入れねえ」
樋口は、旧道の暗がりから目を離した。
あっちには、用がない。
仕事で通るのは、下の新しいトンネルだけだ。

トンネルに入ると、音が変わった。
天井のジェットファンが、ごうごうと唸っている。
照明が等間隔に並んで、後ろへ流れていく。
濡れた路面を、タイヤが細かく叩く。
窓から入ってくる風が、外より冷たかった。

「このトンネルはな、古い二本の下をくぐってるんだ」
親父さんが、窓の外に向かって言った。
ちょうど、真ん中のあたりだ。

ファンの唸りの切れ目に、それが入ってきた。
「あけてー」
間延びした声だった。
男とも女とも、子どもとも年寄りとも聞き分けられない。
後ろの荷台からとも、天井のもっと上からとも聞こえた。

樋口はアクセルを踏んだまま、ハンドルを握り直した。
親父さんは、天井を見上げている。
「聞こえたか」
「聞こえました」
「回転、いくつだ」
樋口はメーターを読み上げた。
千五百回転。
親父さんは、うなずいただけだった。

樋口は前を見たまま、頭の上に重なった二本の穴を思い浮かべる。
声は、いちばん上の穴から順に下りてきたように聞こえた。

成木側に抜けて、広いところで向きを変えた。
帰りは同じ速さで、同じ真ん中を通る。
ファンが唸っているばかりで、声はもう入ってこなかった。

「共振だな」
工場に戻ると、親父さんは言った。
後ろあおりの蝶番のピンが減って、ガタが出ている。
エンジンがある回転になると、その震えがガタに乗って、ピンが細かく鳴くのだそうだ。
トンネルの中だから、天井で跳ね返って上から聞こえる。
人の声に聞こえるのは、聞くほうがそう思って聞くからだ。

樋口は、そうですね、と言った。
そう言っておけば、本当にそうなる気がした。
共振だ。
ピンを替えれば、それで済む。
帰りの真ん中で鳴らなかったわけは、二人とも口にしないままだ。

雨が強くなって、トタンの屋根がばらばらと鳴りはじめた。
樋口は運転席に上がって、つまみで回転を千五百に合わせた。
トンネルの中で、自分が読み上げた回転だ。
降りていくと、親父さんが蝶番に聴き棒を当てていた。

しばらく、親父さんは動かない。
それから黙って、聴き棒を樋口に差し出した。

樋口は先を蝶番に当てて、柄の尻を耳の前に押しつけた。
鉄の冷たさが、こめかみにしみる。
エンジンの震えが、細かく骨に伝わってくる。
その奥から、細い声がした。
「あけてー」
鉄の中からだった。
狭くて遠いところから、こっちを呼んでいる声だ。
聴き棒が手から落ちて、床で高く跳ねた。

「ラジオだ」
親父さんが言った。
「鉄が電波を拾うことがある。歯の詰め物で拾ったやつもいる」
親父さんは床の聴き棒を拾って、腰の後ろに差し直す。
運転席のラジオは、切ってある。
無線も、電源が落ちている。
親父さんはそれを自分の目で確かめてから、ピンを抜く道具を持ってきた。
「どっちにしても、ピンは替える」

回転を落として荷台を上げ、下に安全棒を噛ませる。
二人で古いピンを叩き出す。
抜いたピンは、親父さんの言ったとおり細っていた。
在庫の新しいピンを入れる。
ハンマーを振りながら、樋口は何度も耳をこすった。
鉄の冷たさが、まだこめかみに残っている。
あの声は、トンネルで聞いたのと同じ高さだった。
同じ間延びのしかたで、同じところで息を継ぐ。
ラジオが、二度続けて同じことを言うものか。

グリスを詰めて、割りピンの足を曲げる。
荷台を下ろして、エンジンを切ったのは十二時の少し前だった。
工場の中が、雨の音だけになる。

「三十分、横になる。起こせ」
親父さんは、壁ぞいの鉄の階段を上がっていった。
二階は休憩室になっている。
社長が、店じまいした医院からもらってきた白いパイプベッドが、一台置いてある。
梅雨どきは、その部屋の戸が湿気で膨らむ。
内開きの戸で、開けるにも閉めるにも、肩や腕に力をこめないと動かない。
上で、どん、と戸を押しこむ音がした。

樋口は一人で、割りピンの足を一本ずつ確かめて回った。
道具を拭いて、床にこぼれたグリスに砂をまく。
工具箱は、休憩室のちょうど真下の壁ぎわにある。
十二時半になっても、起こしにはいかなかった。
七十を過ぎた人だ。
少しでも長く寝かせておきたかった。

六時には、村瀬さんがダンプを取りに来る。
それまでに、蝶番のまわりのボルトを全部締め直しておく。
社長に電話しようかとも思った。
声がしました、と話す自分を思い浮かべて、やめた。
作業台の古いラジオに手を伸ばしかけて、引っこめる。
ラジオだ、と言った親父さんの声が耳に残っていた。

一時を過ぎて、通用口から外をのぞいた。
雨の中、峠へ上がる道が黒く光っている。
工場の前の側溝が、ごぼごぼと鳴っていた。
黒沢側の旧道は、雨が降ると水びたしになる。
そこからあふれた水も、ここまで下りてくるらしい。

夏になると、夜中に車で来て騒ぐ連中がいる。
旧道の入口のあたりに車を停めて、大きな声を出す。
親父さんはそういう車のナンバーを、いつも黙って見ている。
今夜は一台もいなかった。
新吹上トンネルの明るい口だけが、雨の向こうに浮いていた。

一時半。
樋口は工具箱の前にしゃがんで、レンチを数えていた。
頭の上から、声が降ってくる。
「あけてー」
休憩室のほうだった。
間延びした、あの声だ。

「親父さん」
下から呼んでみたが、雨の音が返ってくるだけだった。
戸だ、と樋口は思った。
湿気で戸が膨らんで、内側から開かなくなったのだ。
親父さんが、中から呼んでいる。
そう決めて、鉄の階段を上がった。
一段ごとに、足の裏で鉄が鳴る。
ノブを回して、肩で押す構えをとった。
戸は、ノブを回しただけで、すっと内側へ開いた。

部屋の明かりは、ついたままだ。
親父さんは、パイプベッドの上に体を起こしていた。
右手に、聴き棒を握っている。
横になるときに腰から抜いて、枕元に置いていたらしい。
親父さんは樋口の顔を見て、それから床に目を落とした。

「お前か、今の」
「何がです」
「下で言ったろう。あけてって」
親父さんは聴き棒の先で、床を指した。
「このベッドの真下から聞こえた」

樋口の膝の裏を、冷たいものが走る。
樋口は、天井の真上から聞いた。
親父さんは、床の真下から聞いた。
二人とも、相手のいるほうから呼ばれている。

あけて、と言われて、戸を開けたのは自分だ。
樋口は、開いたままの戸を振り返った。
あの声は、荷台の鉄の中にいるものだと思っていた。
出してくれ、と言っているのだと。
違う。
入れてくれ、のほうだった。

鉄の階段と鉄の柱で、音が回っただけだ。
雨の音で、向きが狂ったのだ。
樋口は頭の中で、そう並べてみた。
音は嘘をつかない、と親父さんは言う。
それなら、真上にも真下にも、何かがいたのだ。

親父さんが、ベッドから足を下ろした。
「どこだか、聴いてやる」
聴き棒を握り直して、樋口の横をすり抜ける。
そのまま、階段を下りはじめた。
樋口も、あとに続く。
戸は、開けたままだった。

樋口が二段下りたところで、後ろで音がした。
ぎい、とパイプベッドが鳴る。
人がひとり、腰を下ろしたときの音だ。
それから、ゆっくり体を横にしていくときの、長いきしみ。
親父さんが、階段の途中で足を止める。
首だけ回して、下から樋口の顔を見上げた。
手すりを握った樋口の手のひらが、冷たい鉄に貼りついた。

二階には、もう誰もいない。
二人とも、鉄の階段の上に立っている。

樋口は、二段を上がり直した。
戸口の前に立って、部屋の中は見ないようにする。
腕を伸ばして、内側へ開いた戸のノブをつかんだ。
そのまま、戸を手前に引く。
膨らんだ戸が、枠に噛んで止まる。
両手でノブを握り直して、腰を落として引いた。
どん、と鈍い音がして、戸が枠に収まった。
内側からだと、開けにくい戸だ。
樋口はノブを握ったまま、後ろへ体重をかけ続けた。

親父さんは階段を下りきって、休憩室の床を支える鉄の柱に聴き棒を当てた。
パイプベッドの、ちょうど真下にあたる柱だ。
柄の尻を耳の前に押しつけて、目を閉じる。
雨がトタンを叩いている。
親父さんの唇が、何かを数えるように小さく動きはじめた。
樋口は、ノブを握る手に力をこめた。

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