四時二十分に、最後の二十袋を下ろし終えた。
戸部は荷台のあおりを上げて、伝票の数字を指でなぞった。
配合飼料の二十キロ袋が、二十。
家の人は搾乳の時間で、牛舎から出てこない。
判子は、牛舎の柱に下げた缶の中にある。
いつものことだ。
朝霧の牧場を順に回って、帰りはいつも人穴を通る。
火曜と金曜は、この家が最後になる。
富士宮の営業所までは、二トン車で四十分。
飼料の会社に勤めて、二十二年になった。
四十八歳で、独り身。
数を合わせるのが仕事で、数が合わないと眠れない性分だった。
柴犬のクマが、鎖をいっぱいに張って寄ってくる。
胸ポケットから、煮干しを一本出した。
クマは手のひらごと舐めて、尻尾を振り回す。
牛舎の匂いと、乾いた牧草の匂い。
十月も終わりで、日が落ちるのが早い。
県道に出て少し走ると、道沿いに大根の畑がある。
真ん中に、案山子が一体。
古い雨合羽を着て、麦わら帽子をかぶり、竹の腕を左右に広げている。
顔は県道の方を向いていた。
戸部は通るたびに、それを数に入れる。
電柱が何本、牛が何頭、案山子が一体。
数えていれば、運転の眠気が来ない。
県道を下っていくと、人穴浅間神社の鳥居が見えてくる。
二十二年、前を通るだけだった。
その火曜は、なぜかウインカーを出した。
営業所に戻っても、急ぐ仕事が残っていなかったせいもある。
駐車場に、車は一台もなかった。
バス用の枠の端に、トラックを入れる。
エンジンを切っても、服から牛舎の匂いが抜けない。
鳥居の前に立つと、富士山が見えた。
上の方は、雲をかぶっている。
鳥居は歩いてくぐった。
正面に、しめ縄を巻いた石碑が立っている。
左を向くと小さな丘があって、手前に案内所の建物があった。
窓は閉まっていて、中は暗い。
今日はもう、誰もいないらしい。
丘へ、ゆるい石段がのびている。
まわりの林は背が高く、まだ五時前なのに足もとが薄暗い。
石段の両側に、碑が並んでいた。
背の高い角柱もあれば、丸い自然石もある。
苔をかぶったもの、文字が削れて読めないもの。
墓だと、ずっと思っていた。
近くで見ても、何のための碑なのか、戸部には分からない。
安全靴の底が落ち葉を踏んで、乾いた音を立てる。
上りきったところで、左を向いた。
低い柵の向こうに、碑が何か所かにかたまって立っている。
ひとかたまりずつ、間をあけて並んでいる。
いちばん手前の一群に、戸部は右手の人差し指を立てた。
倉庫で袋を数えるときと、同じ手つきになる。
一、二、三。
指の先を、一基ずつ移していく。
九、十、十一。
「よし」
小さく声が出た。
十一基。
数え終えると、肩の力が抜ける。
袋でも、牛でも、石でも同じだ。
社殿は正面にあった。
戸部は帽子を取って、頭を下げた。
拝み方はよく知らない。
手を二回叩いて、もう一度頭を下げる。
社殿の右手に、下へ降りる急な階段がある。
その先が、人穴の入口らしい。
降り口に立つと、顔のあたりがひやりとした。
濡れた石の匂いがする。
降りるつもりはない。
勝手に入っていい場所でないことくらい、戸部にも分かる。
降り口で、しばらく息をしていただけだ。
林の奥で、鹿が鳴いた。
笛を裂いたような、甲高い声。
この季節の雄の声だと、前に牧場で聞いた。
二度鳴いて、それきりになった。
帰りにもう一度、同じ一群を数える。
十一。
合っている。
それで気が済んだ。
トラックに戻ると、助手席に紙が一枚落ちていた。
四つに折った、茶色く焼けた和紙。
サンバイザーに挟んであるはずのものだ。
バイザーは、上がったままだった。
祖母が写した、尊勝陀羅尼。
十八で免許を取ったときに、渡された。
細かい筆の字がびっしり並んでいて、戸部には一文字も読めない。
「車に乗るなら、これを置いときな」
昔のえらい人が、これを着物に入れていて、鬼の行列に行き会っても助かったのだと、祖母は言った。
向こうからは見えなくなる、とも言っていた。
朝ごとに、仏壇の前でこれを唱える祖母の声を覚えている。
長くて、子どもの戸部は終わりまで座っていられなかった。
低い声が、途中で一度だけ息つぎをする。
耳の奥に残っているのは、その息つぎの音だけだ。
乗る車が変わるたびに、バイザーに挟み直して三十年になる。
エンジンをかける前に、指でバイザーを差す。
それも癖の一つだ。
ドアには鍵を掛けていた。
窓も閉めてある。
挟み方が浅かったのか。
駐車場に入るときの段差で、揺れて落ちたのかもしれない。
戸部は紙を挟み直して、指で差した。
「よし」
その夜、アパートで市のページを開いた。
人穴富士講遺跡。
碑塔は、二百三十二基。
鎌倉時代の書物に、浅間大菩薩の御在所と書かれた洞穴だという。
富士講の開祖とされる長谷川角行が、この洞穴で修行して、ここで亡くなったと伝わる。
洞穴に入るには予約がいる。
ガイドの同伴が決まりで、十一月一日から二月の末までは入れない。
碑塔の柵は、越えてはいけない。
案内所が開くのは、土日と祝日の昼間だけ。
二百三十二。
戸部は布団にもぐって、その数を何度か口の中で転がした。
十一は、そのうちのたった一群だ。
全部数えたら、何日かかるか。
そう考えているうちに、眠った。
水曜は、朝霧の別の牧場が最後だった。
営業所へ戻るには、人穴の前の県道を下るのがいちばん早い。
大根畑の前を通る。
案山子が、畑の端に立っていた。
昨日は真ん中にいた。
今日は、県道に面したあぜの際で腕を広げている。
大根を抜くのに邪魔で、家の人が動かしたのかもしれない。
戸部はそれでも、数に入れた。
案山子が一体。
鳥居の前で、またウインカーを出す。
昨日の十一が、頭の隅で座りが悪い。
助手席に落ちていた紙のせいもある。
合っていたのに、落ち着かない。
もう一度数えれば、済む話だった。
十一なら、それで終わる。
今夜も、ちゃんと眠れる。
駐車場は、今日も空だった。
石段を上がって、左を向く。
柵の向こうの、昨日と同じ一群に指を立てた。
一、二、三。
十、十一、十二。
指が止まった。
十二。
最初からやり直す。
今度は右の端から数えた。
十二。
柵の向こう、右の隅の、三歩ほど奥に、低い丸い石があった。
膝の高さもない。
落ち葉に半分埋まって、てっぺんにだけ白っぽい苔がついている。
字が彫ってあるのかどうか、ここからは見えない。
昨日はなかった、とは言い切れなかった。
落ち葉に隠れていたのを、今日の風がどけたのかもしれない。
そういうことにした。
社殿に頭を下げて、右手の降り口まで行く。
降り口の空気が、昨日より冷たい。
暗がりの奥で、水の落ちる音がした気がする。
林の奥で、鹿が鳴いた。
今日は三度だった。
帰りにも数える。
十二。
指を下ろしても、肩のあたりがむずがゆい。
トラックに乗って、エンジンをかける前にバイザーを差す。
指の先に、紙の端が見えなかった。
バイザーを下ろす。
何も挟まっていない。
座席の下、ドアのポケット、助手席の前の物入れ。
足元に、懐中電灯を当てた。
ない。
今日は、窓を開けて走っていた。
帰り道は西日がまぶしくて、何度かバイザーを下ろした。
そのときに抜けて、窓から飛んだのか。
今朝、指で差したときは、まだあったのか。
思い出せない。
指は毎日差すが、紙があるかどうかまでは見ていなかった。
三十年、中身を見ずに指だけ差してきたのか。
その夜は、眠れなかった。
十一と十二が、まぶたの裏で入れ替わる。
丸い石のてっぺんの苔が、目をつぶっても白く浮かんだ。
木曜の帰り、大根畑の案山子は向きを変えていた。
あぜの際に立ったまま、県道に背を向けている。
顔は東。
林の向こうの、富士山の方だ。
麦わら帽子のつばが、少し下がって見える。
運転席で、何度もあくびを噛み殺した。
バイザーの裏が、目の端で空っぽに見える。
鳥居の前でウインカーを出すのに、もう迷わなかった。
トラックを降りて、駐車場の縁を歩いた。
草むら、石の陰、県道の路肩。
紙は落ちていない。
飛んだのなら、この辺りに引っかかっていてもいい。
腰を伸ばすと、膝が鳴った。
鳥居の前から、富士山が見えた。
日を受けて、山肌が薄い桃色になっている。
戸部は鳥居の脇で、少しのあいだそれを見ていた。
石段を上がると、もう見えない。
碑のまわりの林が、山をふさいでいる。
上りきって、左を向いた。
指を立てる。
一、二、三。
十、十一。
指が、柵の右の隅で止まった。
丸い石がない。
落ち葉が、そこだけ丸く浅くへこんでいた。
へこみの真ん中に、薄茶色の紙があった。
四つに折った和紙。
折り目の角が一つ、少しめくれている。
柵から、三歩ほど奥だった。
手を伸ばしても届かない。
柵をまたげば、すぐの距離になる。
戸部の右手が、柵の方へ半分上がった。
そこで止めて、作業着のポケットに戻した。
理屈をさがす。
昨日、窓から飛んだ。
県道か、駐車場か。
風に乗って、石段の上まで来た。
そういうことも、あるにはある。
けれど、紙は四つ折りのまま、角をそろえて、へこみの真ん中に置いてある。
丸い石は、どこへ行ったのか。
石は歩かない。
ポケットの中で、指先が勝手に握り込まれていく。
柵の奥で、何かが動いた。
碑と碑のあいだに、鹿が立っている。
若い雄で、短い角が二本。
こちらを見ていた。
戸部と鹿のあいだには、柵が一本あるだけだった。
鹿は逃げない。
耳だけを、戸部の方へ向けている。
戸部は、もう一度指を立てた。
一、二、三。
十、十一。
指の先が、柵の手前で迷った。
それから、ゆっくり戻ってきて、自分の胸のところで止まった。
十二。
声には出さなかった。
肩から、すっと力が抜ける。
ひと晩分の寝不足が、足の裏から地面へ流れていく。
合っている、と思った。
そう思ったとたん、首の後ろだけが冷えた。
日が落ちて、林の中が暗くなる。
鹿は碑のあいだを抜けて、奥へ戻っていった。
急ぎもせず、振り返りもしない。
戸部は、暗くなりきるまで、そこに立っていた。
足の裏から、地面の冷たさが上がってくる。
携帯を出して見ると、五時を二十分過ぎていた。
土曜なら、案内所が開いている。
言えば、紙を拾ってもらえるかもしれない。
トラックに戻りながら、そう考えた。
バイザーは、差さなかった。
その夜は、横になるとすぐ眠りに落ちる。
前の晩の分を取り返すように、夢も見ない。
金曜の四時二十分、最後の二十袋を下ろす。
伝票をなぞると、二十。
合っている。
クマが寄ってこなかった。
小屋の前で、鎖をたるませたまま座っている。
戸部が一歩近づくと、尻を落として後ずさった。
鼻を鳴らす。
細く高い声で、何度も。
煮干しを出して、しゃがんで差し出した。
クマは首だけ伸ばして匂いを嗅ぎ、顔をそむけた。
この家に通って六年、初めてのことだ。
戸部は、自分の手のひらを鼻に当てた。
煮干しと、牛舎の匂い。
いつもと同じ匂いしかしない。
煮干しは、小屋の前の地面に置いた。
牛舎の中で、何頭かの牛が首をこちらへ向けている。
口を動かすのを、やめていた。
大根畑の案山子は、真ん中に戻っていた。
顔は県道の方。
腕を広げて、前と同じ場所にいる。
戸部は、数に入れなかった。
入れなくても、案山子は一体だ。
鳥居の前で、ウインカーを出していた。
出そうと思った覚えはない。
バス用の枠の端に、トラックを入れる。
エンジンを切って、石段を上がる。
柵の奥のへこみに、紙はまだあった。
今日は数えない。
柵の手前の、右の隅の前に立つ。
碑の正面は、どれも同じ方を向いている。
木にふさがれて見えないが、方角でいえば富士山の方だ。
戸部も、碑と同じ方へ体を向けた。
背中の側に、十一基の碑がある。
振り返らなくても、どこに何が立っているか分かる。
指の先が冷たい。
林の奥から、鹿が出てきた。
昨日の雄かどうかは分からない。
鹿は柵に沿って歩いてきて、戸部の二歩先で止まった。
鼻を上げて、空気を嗅ぐ。
それから、戸部の横を通り過ぎていった。
碑の前を通るときと、同じ足どりだった。
戸部は動かない。
動かずにいるのが、いちばん楽だった。
日が落ちる。
下の県道を、車が一台通っていく。
林の奥で、また鹿が鳴いた。
数えなくても、もう分かっている。
柵の向こうに、十一基。
こちら側に、一つ。
十二で、合っている。
来週の火曜も、配達は四時二十分に終わる。
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