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沖ノ島の音を、口にしない夜

土曜の夜、九時を過ぎると、大島港の前は暗くなる。
渡船ターミナルも、もう明かりを落とした。
最終便は、とっくに神湊へ着いている。
港の前の食堂「とも綱」だけが、のれんの内側に灯りを残している。

古賀は、本土の神湊から船で通う。
フェリーで二十五分、しおかぜなら十五分。
ふだんは夕方の便で帰るけれど、金曜と土曜は店を遅くまで開ける。
そういう夜は、店の二階の六畳に泊まる決まりだ。
働きはじめて、三年になる。
三十九で島の食堂に勤めると言ったとき、本土の友だちには笑われた。

店はカウンター六席と、小上がりが二つ。
カウンターの奥が台所で、その突き当たりに勝手口がある。
勝手口は鉄の扉で、上の方にすりガラスの小窓がひとつ。
丸いドアノブの真ん中に、小さな押しボタンがついている。
内側からボタンを押しこめば、外からは回らない。
扉の外は細い路地で、プロパンのボンベとビールケースが並んでいる。
二階へ上がる階段は、勝手口のすぐ横だ。

店を回しているのは、女将と古賀と、健吾の三人だ。
女将は島で生まれて、七十近くまで島で暮らしてきた。
健吾は漁師の家の次男で、二十二になる。
昼は親の船を手伝い、夜はここで皿を洗う。
店の投稿も、健吾の受け持ちだった。
黒板に今日のおすすめを書いて、写真に撮って、店のアカウントに上げる。
あかもくの小鉢、甘夏のゼリー、大島の塩で焼いた鯵。

その音を古賀が初めて聞いたのは、一週間前のことだ。
閉店のあと、健吾がカウンターの端からスマホを向けてきた。
「古賀さん、これ聞いた?」
十五秒の、音だけの投稿。
画面は真っ黒で、その下に書きこみがある。
「大島の北の浜。夜釣りしよったら、沖ノ島の方から鳴った。タタリサマの音」

波の音と、風がマイクを叩く音が続く。
十一秒目に、それが来た。
雷とも、花火とも違う。
爆音というには低すぎて、腹の底を押されるような音だった。
ずうん、と一度だけ鳴る。
スマホの小さなスピーカーで、音がびりっと割れた。
あとは、波の音に戻る。

書きこみには、二行目があった。
「聞いた人は、聞いたって書いて。書かんと、夜中に戸の取っ手ば回しに来るけん」
返信欄は、「聞きました」で埋まっていた。
何千件も、同じ五文字が並んでいる。

ときどき、別のことを書く人もいた。
タタリサマってなに、沖ノ島の神さまのこと、違うやろ。
誰か島に渡って確かめてきて、という書き込みもあった。
すぐ下に、渡れんよ、と返事がついている。
神職さんしか入れん島やけん、と。

健吾は笑っていた。
「バズっとるっちゃん。島の名前がこんなに出るの、初めて見た」
北の岩場で夜釣りする人はおるけん、とも言う。
古賀も、そのときは一緒に笑った。
波が岩に当たれば、ああいう音もするのかもしれない。

何日かあとの朝、神湊からのフェリーで、あの音をもう一度聞いた。
後ろの席の観光客が、スマホで流していたのだ。
エンジンの響きの中でも、十一秒目は分かった。
「これ、タタリサマ」
「やめてよ、いまから行くとに」
古賀は窓の外の、灰色の海に目をやる。

三日前から、様子が変わった。
誰かが、店の投稿の写真を勝手に使ったのだ。
黒板のおすすめと、のれんが写った一枚。
そこに一行が添えてあった。
「この店の裏でも鳴るらしい。店員も聞いとる」
その日から、店の投稿には「聞きました」が届きはじめた。
地図アプリの口コミにも、星一つで同じ言葉が並ぶ。
料理のことは、誰も書いていない。

おととい、昼の便で若い二人連れが来た。
あかもく丼を頼むと、男のほうが女将に声をかける。
「裏で鳴るって、ここですよね。夜、ちょっと録らせてもらえません?」
「うちは食堂です」
女将はそれだけ言って、湯呑みを置いた。

二人は食べ終わると、表の通りから店の脇の路地をのぞいて、写真を撮っていった。
その夜のうちに、写真は上がっている。
勝手口の鉄の扉と、丸いドアノブ。
「ここ」とだけ書いてあった。

女将は、健吾のスマホを見ようともしなかった。
「返事はせんでよか。なんも書きなさんな」
「でも、店の名前まで出とるとよ」
「出とってもよか」
女将は、ふきんを絞る手を止めない。
「沖ノ島で見たもんも聞いたもんも、よそでは言わん。島のもんは、そげんしてきたと」

沖ノ島のことを、島の年寄りはお言わず様と呼ぶ。
あの島で見たこと、聞いたことは、外で口にしない。
一木一草一石も、持ち出さない。
女将の亡くなった夫は漁師で、沖ノ島の近くでは、海に浮いた枝一本も拾わなかったそうだ。
「タタリサマやら、そげな名前の神さまはおらん」
そう言うと、女将は台所へ引っこんだ。

古賀は一度だけ、女将に連れられて沖津宮遙拝所へ行った。
島の北側の、海に向いた小さな社だ。
空気の澄んだ日には、四十九キロ先の沖ノ島が見えるという。
その日は空が白くて、水平線しかなかった。
女将は黙って、海に頭を下げる。
古賀も横で、同じようにした。
「見えん日のほうが多かとよ」
帰り道で、女将はそう言って笑った。

前は、五月の大祭の日だけ、男の人が抽選で上陸できたらしい。
何年か前から、それもなくなった。
いまは神職さんが一人、十日ほどで交代しながら島に詰めている。
一般の人は、誰も渡れない。
渡れない島を、島の人は北の浜から拝む。

その土曜の夜、最後の客は八時半に帰った。
網の手入れを終えた漁師の二人連れで、焼酎のお湯割りを三杯ずつ空けていった。
店のテレビが、明日の玄界灘の波の高さを伝えている。
九時になると、女将が前掛けを外す。
「腰が痛かけん、先に上がるよ。裏、ちゃんと閉めときいね」
女将が表の引き戸から出ていくと、店の中には古賀と健吾だけが残る。

古賀は台所で、鍋と皿を洗っていた。
健吾はカウンターの端に座って、ふきんを畳みながらスマホを見ている。
健吾には、届いた返信を声に出して読む癖がある。
「また来とる。聞きました、聞きました、タタリサマこわい、聞きました」
「読まんでいいって」
古賀は蛇口をひねって、寸胴に水を張った。

九時十二分。
足もとの床を伝って、ずうん、と来た。
棚のコップが触れ合って、小さく鳴る。
寸胴の水に、丸い輪が三つ広がった。
古賀は蛇口に手をかけたまま、動けなかった。
なんね、いまの。
音は一度きりで、あとは冷蔵庫のうなりだけになる。

雷か、と思った。
でも八時半に漁師を表まで送ったとき、空には星が出ていた。
本土の工事の発破にしては、時間が遅すぎる。
大島の砲台跡には、もう大砲なんか残っていない。
古賀は頭の中で、ひとつずつ消していく。

「いま、鳴ったよね」
健吾が顔を上げた。
その手の中で、スマホが震えている。
画面をのぞいた健吾の口が、半分開いたまま止まった。
「あの人。最初に上げた人が、いま投稿した」
健吾が、画面をこちらへ向ける。
一行だけの投稿だった。
「いま鳴った」
その下に、「聞きました」が次々と積み上がっていく。

そのとき、奥で音がした。
カチャ。
勝手口のドアノブが、半分だけ回って戻る音だった。
古賀は手を拭きながら、台所の突き当たりを見る。
鉄の扉は、閉まったままだ。
押しボタンは、まだ押していない。

女将さんが、何か取りに戻ったのか。
でも女将なら、表の引き戸から入ってくる。
さっきの漁師が、酔って裏へ回ったのかもしれない。
戸締まりを任されたのは、古賀だった。
見に行かないわけにはいかない。

古賀はドアノブを握って、扉を押し開けた。
路地には、誰もいなかった。
ボンベとビールケースが、街灯の届かない暗がりに並んでいるだけだ。
路地の先の家々も、もう窓の灯りを落としている。
冷えた風が、足首のあたりを抜けて台所へ入っていった。
海藻の匂いと、船の重油の匂いがする。

閉める前に、外側のノブにも触れてみた。
指先が、濡れて冷たい。
こすり合わせると、塩のようにざらついた。
古賀は扉を閉めて、内側のボタンを押しこんだ。
ぷちん、と小さな手応えがある。
これで、外からは回らない。

「誰かおった?」
「おらん」
「風やろ。北風、強うなっとるもん」
健吾の声は、少しだけ早口になっていた。
古賀は洗い場に戻った。
指先のざらつきが、なかなか取れない。

古賀はエプロンのポケットから、自分のスマホを出した。
女将の番号を呼ぶ。
呼び出し音が八回鳴って、留守番電話に切り替わった。
腰が痛いと言っていたし、もう寝ているのかもしれない。
何を吹きこめばいいのか分からず、古賀は黙って切った。

いたずらだ、と古賀は考えた。
最初に音を上げた誰かが、いま、この島にいる。
店の灯りが見える場所から、こっちの様子をうかがっている。
扉を鳴らしたのも、その誰かだと思いたかった。
それなら、床を伝ってきたあの音は何なのか。

古賀は表の窓から、港を見た。
防波堤の先で、小さな灯りがひとつ、ちらちらしている。
漁船の灯りか、灯台か、ここからでは見分けがつかない。

「古賀さん、書いたほうがよくない?」
健吾が、スマホを持ち上げてみせる。
「聞きましたって、店から一回だけ」
「女将さんが、書くなって言いよったやろ」
「でも、書かんと来るって」
「来るって、何が」
健吾は答えなかった。

九時四十分。
古賀は拭いた鍋を、棚に戻していた。
健吾は返信を、また小声で読んでいる。
「タタリサマ、二回目くるかな、聞きました」
読み終わらないうちに、二度目が来た。
さっきより重い。
棚のコップだけでなく、冷蔵ケースのガラスまでが低く鳴った。
胸の骨に、音がじかに当たってくる。

カチャ、カチャ、カチャ。
奥で、ドアノブが三度鳴った。
少し間をおいて、また三度。
今度は、古賀は動かなかった。
動けなかった、と言ったほうが近い。
目はノブより先に、扉の上の小窓へ向いた。
すりガラスは、外の暗さをそのまま映している。
人の形は、そこにはない。

振り向くと、健吾の指が画面の上で動いていた。
「やめり」
古賀が言い終わる前に、送信の音が鳴った。
店のアカウントから、「聞きました」が一件。
ドアノブの音が、止んだ。
冷蔵庫のうなりが戻ってくる。
「ほら、止まった」
健吾は笑おうとして、うまくいかずに唇をなめた。

すぐに、返信がひとつついた。
最初に音を上げた、あのアカウントからだ。
「どこで聞いた?」
健吾の親指が、また動きかける。
大島の、と打ったところで、古賀はカウンター越しに手を伸ばし、画面に手のひらをかぶせた。
「書かんで」
健吾は黙って、スマホをカウンターに伏せた。
伏せたスマホが、カウンターの上で何度も震える。

古賀は勝手口まで行った。
押しボタンが、手前に飛び出している。
さっき、たしかに押しこんだ。
ぷちん、という手応えも指が覚えている。
押し方が浅かったのか。
古賀は親指で、今度は奥まで強く押しこんだ。

洗い場に戻りながら、古賀は数えてみる。
一度目の前に、健吾はあの名前を読み上げた。
二度目の前も、そうだった。
偶然だ、と思う。
返信の半分に、あの名前が入っている。
読めば、口に出るのは当たり前だ。
それでも、言わずにはいられなかった。
「その名前、もう口に出さんで」
健吾は、こくりとうなずいた。

ネットは、言えと言う。
島は、言うなと言う。
古賀は、どちらの側にも立てずにいた。
本土から船で通って、まだ三年。
島の決まりは、女将の背中を見て覚えただけだ。

十時を過ぎた。
洗い物は、もう終わっている。
それでも、二階へ上がる気にはなれなかった。
階段は、勝手口のすぐ横にある。
上がるには、この扉に背を向けるしかない。
本土へ帰る船は、とうに出てしまった。
女将の家までは歩いて五分だけれど、表から出ても、店の脇の路地の口を通ることになる。
古賀は、勝手口の前に立っていた。

伏せていたスマホを、健吾がまた握っている。
カウンター越しでは落ち着かないのか、台所に入ってきた。
古賀の斜め後ろに立つ。
「古賀さん。あの人、また上げとる」
「読まんでいい」
「十五秒の、音だけのやつ。題が」
健吾は、画面の文字をそのまま読みかけた。
「タタリ」

古賀が振り向くより早く、三度目が来た。
今度は、床の下からではない。
目の前の鉄の扉が、ずうん、と鳴った。
触れてもいない頬にまで、震えが伝わってくる。

そして、ドアノブが回りはじめた。
内側のノブだった。
古賀の側の、押しボタンのついたほうが、ゆっくり右へ回っていく。
そこに、誰の手もない。
ぷつん、と音がして、ボタンが手前へ飛び出した。
声が出かけて、古賀は奥歯を噛んだ。

外のノブは、ボタンを押しこめばびくともしない。
ボタンが飛び出すのは、内側のノブが回ったときだけだ。
二度目のとき、古賀は小窓しか見ていなかった。
あのあと、ボタンは飛び出していた。
押し方のせいじゃない。
あのときも、こちら側から回されていたのだ。
一度目に扉を開けたとき、足首を抜けていった冷たい風を、古賀は思い出していた。

扉が、外へ向かって押された。
細い隙間から、路地の冷えた空気が入ってくる。
海藻と、重油の匂い。
出ていこうとしている、と古賀は思った。
入ろうとしていたのは、最初の一回だけだ。
そのあとはずっと、ここから出たがっていた。
本土へなのか、画面の向こうへなのか、それは分からない。

古賀は、左手でドアノブをつかんだ。
回ろうとする力が、手のひらの中でねじれる。
腕に力をこめて手前へ引くと、隙間が閉じた。
背中で、健吾が息を吸う音がした。
続きを、読み上げようとしている。
古賀は振り向かずに、空いた右手を後ろへ伸ばした。
指先が、健吾の唇に触れる。
そのまま手のひらで、口をふさいだ。

右の手のひらに、健吾の息が湿って当たる。
左手の中では、ノブがまだ小さく回ろうとしていた。
古賀は、何も言わない。
親指で、飛び出したボタンを探りあてる。
そして、奥までゆっくり押しこんだ。

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