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雄別炭鉱跡、ばあちゃんの左の耳

ばあちゃんは、人の話を右の耳で聞いた。
誰かに話しかけられると、首を少し右にかしげる。
左の耳は、子どものころから遠かったらしい。
「左は、雄別に置いてきたの」
そう言って、ばあちゃんはよく笑った。
僕はそれを、年寄りの冗談だと思っていた。

雄別は、釧路から車で一時間ほどの山の中だ。
昔、そこに炭鉱の町があった。
ばあちゃんはその町で生まれて、その町で嫁に行った。
父も、町の病院で生まれている。
父が二つの冬に、炭鉱は閉山になった。
春にはもう、町から人がいなくなったそうだ。

「学校も、映画館も、病院もあったんだよ」
ばあちゃんは、指を折って数えてみせる。
汽車に乗って、釧路まで買い物に出た話。
大きな煙突から、いつも煙が上がっていた話。
病院の中の長い坂が、馬のひづめの形に曲がって、上の階へ続いていたこと。
父を産む日も、ばあちゃんはその坂を自分の足で上がったという。
アルバムには、その坂の前で父を抱いた写真が一枚ある。

家は、ほとんどが会社のものだった。
人が出ていくと、順に壊されていった。
「お寺も神社も学校も、何か月かで閉まったの」
ばあちゃんたちも、釧路の町へ移っている。
雄別は、それから木と草に戻っていった。
大きな煙突と病院の建物は、今も林の中に立っているそうだ。

ときどき、テレビで雄別が出る。
怖い場所として、紹介される。
そういうとき、ばあちゃんは黙ってチャンネルを変えた。
「みんな、ちゃんと暮らしてたんだよ」
それだけ言って、台所へ立っていく。

うちには、雄別へ行く日がある。
九月の終わりの日曜日だ。
ひいばあちゃんが町を出た年の秋に始めて、ばあちゃんが続けてきた決まりだった。
「出てくるとき、山にあいさつをしそびれたから」
理由として聞かされたのは、それだけだ。

決まりは、いくつかあった。
行くのは昼で、日のあるうちに帰る。
道の途中のゲートの手前で、車を停める。
開いていても閉まっていても、その先へは入らない。
あとで知ったけれど、あの奥は国有林で、入るには許可がいる。
ゲートの前で、家族が横に並ぶ。
山のほうを向いて、黙って十数える。

数え終わったら、一番年下が言う。
「今年も来ました」
自分の名前は、言わずにおく。
帰り道も、布伏内の家並みが見えるまで、名前を呼ぶのはなしだ。
後ろから呼ばれても、振り向かない。
向こうのものは、草一本でも持って帰るのはだめだ。

一番年下の役は、昔は父で、僕が覚えている最初は姉だった。
僕が六つになって、初めて連れていかれた年に、それが僕に回ってきた。
姉は中学に上がると、部活を理由に来なくなる。
母は、砂利道で車に酔う。
だから、姉が来なくなってからは、行くのは三人だ。
運転する父と、助手席のばあちゃんと、その後ろの席の僕。

これから書くのは、僕が十歳の秋のことだ。
その日は、十時に釧路の家を出た。
ばあちゃんは膝に、おにぎりの包みをのせている。
向こうでは、食べるのも車の中と決まっていた。
熊がいるからだ。
「匂いを置いてくると、あとで寄ってくるからね」
熊の話をするときも、ばあちゃんは声を低くした。

国道を阿寒のほうへ走って、途中から山のほうへ入る。
布伏内を過ぎると、家が見えなくなった。
道は、川に沿って奥へ続いている。
窓の外は、木と、すすきばかりだ。
少し開けたすきまから、湿った土と、枯れかけた草の匂いが入ってきた。

しばらく行くと、道の脇に古い鉄橋が見えてくる。
錆びた鉄の橋が二つつながって、木のあいだに渡してある。
「雄別の汽車が通った橋だよ」
ばあちゃんは毎年、そこで同じことを言った。
ベルツナイの鉄橋、とばあちゃんは呼んでいた。
橋を過ぎてしばらくすると、舗装が砂利に変わる。
車の腹に、小石がぱちぱち当たった。

ゲートの前に着いたのは、十一時を少し過ぎたころだ。
その日、ゲートは閉まっていた。
鉄の棒が、道を横にふさいでいる。
父は車を停めると、クラクションを二回鳴らした。
熊に、人が来たと知らせるためだ。
それから腰に鈴をつけて、外に出る。
携帯を見て、圏外だな、と父がつぶやいた。

いつもなら、僕はばあちゃんの右に立つ。
聞こえるほうの耳に、僕の声が届くように。
その年だけ、ばあちゃんは僕の肩を押して、左に立たせた。
「今年は、こっち」
どうして、と聞く前に、ばあちゃんは山のほうを向いてしまう。
父が、ばあちゃんの右に並んだ。
空は晴れていて、風が冷たい。
ジャンパーの襟を、首まで上げた。

黙って、十数える。
いち、に、と頭の中で数えていく。
川の音と、葉っぱのこすれる音がする。
鳥が一度だけ、短く鳴いた。
六まで来たとき、ゲートの向こうの林で、ごとん、と音がした。
重たいものが、土の上に落ちたような音だ。
枝か、木の実か。
ばあちゃんも父も、前を向いたままだ。

八まで来たとき、音楽が聞こえてきた。
ゲートのずっと奥のほうから、左の耳へ流れてくる。
ガラスのコップを、細い棒で順に叩いていくような音だった。
音の数は多いのに、全部がきちんと合っている。
聞いたことのない曲だ。
それなのに、次にどの音が来るのか、僕には分かった。
奇麗すぎて、背中がすうっと冷えていく。

十まで数えて、僕は言った。
「今年も来ました」
声を出したとたん、音楽がぴたりと止まる。
川の音が戻ってくる。
気がつくと、僕はゲートのほうへ一歩出ていた。
出るつもりなんか、これっぽっちもなかったのに。
ジャンパーの襟の後ろを、ばあちゃんの手がつかんでいる。

「奇麗な音楽が、向こうで鳴ってた」
僕が言うと、ばあちゃんは黙って僕を見た。
首は、かしげていなかった。
「乗りな」
ばあちゃんは先に車へ戻っていく。
父は鈴を鳴らしながら、後ろからついてきた。
「音楽って、こんなとこで?」
父の声は、半分笑っていた。
助手席に戻ったばあちゃんの膝で、おにぎりの包みは結ばれたままだ。

ゲートの前で向きを変えて、来た道を戻る。
決まりどおり、車の中では誰も名前を呼ばない。
父はラジオもつけずに、ハンドルを握っている。
砂利の音だけが、車の下で続いた。

走りだして五分ほどで、屋根の上で、ごとん、と鳴った。
重たいものが、真上に落ちてきた音だ。
車が、少し沈んだ気がする。
父が、ブレーキを踏んだ。
「止まんなくていいから」
ばあちゃんが言ったのに、父は車を停めてしまう。
「枝でも落ちたんだろ」

父はまたクラクションを鳴らしてから、外に出た。
屋根をのぞいて、車のまわりをぐるりと回る。
「なんもないぞ」
窓から見上げても、道の上に張り出した枝は一本もない。
晴れた空が、高く広がっているだけだ。

乗りこもうとした父が、道の先を見て手を止めた。
砂利の端に、キツネが一匹座っている。
足の先だけが黒くて、こっちをじっと見ていた。
「キツネ、触んなよ、エキノコックスだからな」
父は笑って、車を出した。
キツネは、車がそばを通っても動かない。
後ろの窓から見ると、まだこっちを向いていた。

前に向き直ったとき、また音楽が聞こえた。
今度は、車の後ろからだ。
砂利の音の下を、ガラスの音が細く流れてくる。
さっきより、近い。
振り向きそうになって、首に力を入れた。
ばあちゃん、と言いかけて、僕は口を閉じた。
呼んではいけないのが名前だけなのか、呼び方ぜんぶなのか、分からなくなったからだ。
座席のすきまから見えるばあちゃんの手は、膝の包みに置かれたままだ。

しばらく走ると、道の脇に鉄橋が見えてきた。
錆びた橋が二つ、木のあいだに渡してある。
ベルツナイの鉄橋だ。
行きにも帰りにも、この橋は一回ずつ見える。
だから、そのときは何とも思わなかった。
車の時計は、十一時二十分を少し過ぎたところだ。

次のカーブを曲がると、道の脇に鉄橋があった。
錆びた橋が二つ、木のあいだに渡してある。
その先の道の端に、キツネが座っている。
足の先だけが黒い。
「一本道だよな、ここ」
父が、誰に言うでもなく言った。
ばあちゃんは答えずに、包みの結び目をほどいて、また結び直す。

車の時計は、十二時を回っていた。
さっき橋を見たときから、カーブを一つ曲がっただけだ。
ゲートから布伏内までは、いつもなら十五分ほどだ。
父は片手で携帯を出して、画面を見た。
隅には、圏外の文字が出たままだ。

道は、川に沿った一本道だ。
同じ橋が二回出てくるのは、道が輪になっているときだけだ。
この山に、そんな道があるのか。
キツネに化かされる話なら、図書室の本で読んだ。
あれは、昔話の中のことだと思っていた。
ばあちゃんは、知っている。
声に出さずに、僕はそう思った。

父が、車の速度を落とした。
「いっぺん戻って、ゲートからやり直すか」
「前に行きな」
ばあちゃんの声が、いつもより低い。
「戻ったら、向こうの思うつぼだからね」
父は何も言わずに、アクセルを踏み直す。

音楽は、もう車のすぐ後ろにいた。
左の耳のそばで、ガラスの音が鳴る。
次の音が分かる。
その次も、その次も。
口が勝手に動いて、僕はその曲をなぞりそうになった。
「歌うんじゃないよ」
ばあちゃんが、前を向いたまま言った。
ばあちゃんの左の耳は、聞こえないほうなのに。

三回目のごとんは、屋根よりずっと近いところで鳴った。
僕の左の耳の、奥のほうだ。
重たいものが、耳の中に、すとんと落ちてきた。
外の音が、左だけ遠くなる。
タイヤの音も、エンジンの音も、水の中で聞くみたいにぼやけていく。
その代わりに、音楽だけがはっきりした。
耳の中で、ガラスのコップが鳴っている。
次の音は、もう分かっていた。

助手席で、ばあちゃんが小さく声を上げた。
左の耳に、手を当てている。
「川の音って、こんな音だったかね」
窓のほうへ顔を向けたまま、ばあちゃんは鼻をすすった。
父がミラーの中で、何か言いかけてやめる。

次のカーブの先に、家の屋根が見えた。
布伏内の家並みだ。
「もう、呼んでいいよ」
ばあちゃんが振り向いて、僕の名前を呼ぶ。
右の耳には、ちゃんと届いた。
左の耳では、ガラスの音がまだ鳴っている。
鉄橋は、それきり出てこなかった。

家に着いたのは、一時を回ったころだ。
おにぎりは、包みのまま台所に置かれた。
左の耳が変だと言うと、父は気圧のせいにした。
「山を上がったり下りたりすると、耳が詰まるんだよ」
飛行機に乗ったときと同じだ、と父は続けた。

次の週に、耳鼻科へ連れていかれた。
先生は僕の耳をのぞいて、きれいなもんだと笑う。
ヘッドホンをつけて、ピーという音を何回も聞かされた。
左も右も、ちゃんと聞こえているそうだ。

それでも、左の耳の音楽は残った。
鳴るのは、まわりが静かな昼間だ。
あのころは、授業中や、昼休みの図書室で、ふっと聞こえてきた。
ガラスのコップが、遠くで順に鳴る。
左の耳だけ、人の声が少し遠い。
話しかけられると、首が勝手に右へ傾く。

ばあちゃんは、その日から首をかしげなくなった。
左から話しかけても、すぐにこっちを向く。
一度だけ、ばあちゃんは僕の左の耳に、そっと手を当てた。
「そっちに行ったんだね」
ばあちゃんが言ったのは、その一言きりだ。
謝る言葉は、最後まで聞かずじまいだった。

次の年、ゲートの前で、僕は思いきって聞いてみた。
あの音楽は、昔の町の音なのかと。
ばあちゃんは、きっぱり首を横に振った。
「町の音じゃないよ」
「町ができるより前から、山にあった音だって、お母さんは言ってた」
それきり、ばあちゃんは山のほうへ顔を戻す。

九月の終わりの日曜には、それからも毎年、雄別へ行った。
ゲートの前で並んで、十数えて、僕が言う。
「今年も来ました」
そうすると、左の耳の音楽が、いっぺん大きくなって、すっと遠のく。
冬のあいだは、ほとんど鳴らずに済む。
夏の終わりが近づくと、また少しずつ近くなる。
だから、僕は一年も休まずに通っている。

免許を取ってからは、僕が運転した。
父は膝を悪くして、砂利道を嫌がった。
ばあちゃんは、最後の年まで助手席だ。
何年か前の冬に、ばあちゃんは釧路の病院で亡くなった。
最後の冬に会ったとき、ばあちゃんは僕の左側に座って、左の耳でテレビを聞いていた。
どうしてあの年だけ、僕を左に立たせたのか。
聞こうと思ったまま、聞きそびれた。

布伏内のコミュニティセンターに、雄別の写真を集めた部屋がある。
大人になってから、一度だけ見に行った。
学校の写真や、炭鉱で働く人たちの写真が、壁にずらりと並んでいた。
雄別の汽車の、木でできた模型もある。
写真の人たちは、みんな普通の顔で笑ったり、すましたりしている。
雄別を怖い場所みたいに言う人がいると、僕はあの部屋の壁を思い出す。

今年も、九月の終わりの日曜に雄別へ行った。
父はもう、ついてこない。
一人で車を停めて、クラクションを二回鳴らす。
鈴を腰につけて、ゲートの前に立った。
並ぶ相手のいない、一人だけの列だ。
十数えて、言う。
「今年も来ました」
左の耳の音楽が、いっぺん大きくなって、遠のいた。
一番年下が言う決まりだから、ゲートの前では、今も僕が一番下だ。

帰りに、釧路の姉の家に寄った。
三時を少し回ったころだ。
姉の娘は、今年で十歳になる。
居間に上がると、あの子は僕の左側にぺたんと座った。
何か話しかけてきたのに、よく聞き取れない。
僕は首を右にかしげて、こっちから言って、と頼んだ。
「ばあちゃんと同じ角度」
台所から、姉が笑って言った。

来年の九月のことは、まだ誰にも話していない。
あの子を連れていくのかと聞かれたら、まだ分からないと答えるつもりだ。
ゲートの前で、あの子をどっちに立たせるか。
それだけは、もう決まっている。

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