親父の家の廊下には、鳴る板がある。
玄関から数えて、三枚目だ。
踏むと、ぎい、と低く鳴る。
子どものころ、俺はその音でよく目を覚ました。
外がまだ暗いうちに、ぎい、と一回。
それから玄関の戸が開いて、閉まる。
親父が出かけていく音だ。
おふくろは、その板をいつも嫌がっていた。
「直してって言ってるのに」
親父は笑うだけで、板は何年たってもそのままだ。
工場の早番に行くんだと、俺はずっと思っていた。
本当は平和の滝まで歩いていたのだと知ったのは、高校を出たあとだ。
親父の家は、札幌の西区平和にある。
琴似発寒川に沿って上がる道の、途中の古い家だ。
おふくろが死んで、何年かになる。
いまは親父が一人で住んでいる。
俺は琴似のアパートから、週末ごとに顔を出す。
土曜の晩に泊まって、日曜の朝に親父の足の爪を切る。
腰を悪くしてから、親父は足の先まで手が届かなくなった。
右の親指の爪は、半分だけだ。
若いころ、工場で鉄の型を落としたのだという。
俺はその半分の爪を、もう何年も切っている。
形も、硬さも、指が覚えている。
十月に入ってすぐの土曜、茶の間の回覧板に紙が一枚挟まっていた。
ヒグマに注意、と太い字で書いてある。
近くの山で、見たという話が出ているらしい。
「親父、朝の散歩、しばらくやめたら」
「なんもだ、鈴つけてる」
親父はリュックの肩ひもを指さした。
熊よけの鈴が下がっていて、指で弾くと、ちりんと鳴った。
やめる気は、さらさらないらしい。
それなら、俺がついていくほうが早い。
その晩はいつもどおり泊まって、明け方に一緒に出ると決めた。
四時半に、廊下の板が、ぎい、と鳴る。
起きて襖を開けると、親父はもう上着を着ていた。
玄関には、長靴が出してある。
外は真っ暗だ。
四時四十分に家を出る。
親父が懐中電灯を持って、俺の少し前を歩く。
俺も携帯のライトをつけて、足元を照らした。
鈴が、一歩ごとにちりんと鳴る。
坂を上がると、平和の滝入口のバス停がある。
そこから滝まで、一キロ半ほどの上りだ。
家が途切れて、道の両側が林になる。
懐中電灯の輪の外は、墨を塗ったように暗い。
道の下のほうで、川がずっと鳴っている。
「毎朝、こんなとこ歩いてたのか」
「慣れたら、なんもだ」
親父の息は、俺より落ち着いている。
高校のころ、同級生が夜の平和の滝へ肝試しに行くと騒いでいた。
心霊スポットだから、というのが理由だ。
親父にその話をしたら、一言だけ返ってきた。
「夜に行くとこでないべ、あそこは朝に行くとこだ」
そのときは、何を言っているのか分からなかった。
三十分あまり歩いて、駐車場に出る。
古い舗装の上に、落ち葉が散っている。
車が一台だけ停まっていた。
手稲山に登る人の車らしい。
入口の脇に、寺の道場の門がある。
戸は板でふさがれていた。
登山口の看板の近くに、お堂が建っている。
「竜神さんだ」
親父は通りすがりに、軽く頭を下げた。
駐車場のまわりには、石の碑がいくつも立っている。
字がすり減って、表が平らになっているものもあった。
滝へ下りる階段の口には柵があって、通行止めの看板が下がっていた。
崩れたから閉めてあるのだと、親父が言う。
親父は柵の手前で止まった。
俺はその右に立った。
木の間から、下のほうに滝が見える。
谷の中は、まだ青黒い。
その底で、滝だけが白い。
水の音が岩に返って、腹のほうまで響いてくる。
顔に当たる空気が、ひやりと湿っている。
足元の落ち葉から、甘い匂いがした。
綿あめみたいな匂いだ。
「カツラの葉だ、秋はこうなる」
昔はここで修行する人がいたんだと、親父は言った。
右股の滝、と呼んでいたころの話らしい。
それから上着の内ポケットに手を入れて、何か出した。
細い筒だった。
長さは、手のひらを二つ並べたくらい。
白っぽい毛皮が巻いてある。
白というより、古い歯の色に近い。
片方の端に、小さな覗き穴の開いた木のふたがはまっている。
万華鏡だと分かるまで、少しかかった。
親父は覗き穴に目を当てて、筒の先を滝に向けた。
ゆっくり回す。
中で、しゃら、しゃら、と何かが崩れる。
一分ほどそうしてから、親父は筒を下ろした。
「よし」
親父の口から出たのは、それだけだ。
「何それ」
「ばあちゃんの万華鏡だ」
「何が見えるの」
「何も見えなきゃ、それでいい」
親父は少し考えて、筒を俺に差し出した。
「見てみるか」
覗くと、暗い。
滝の白さが、筒の先の曇りガラスごしに、ぼんやり入ってくる。
色は、ほとんど分からない。
灰色の粒が鏡で折り返されて、花の形になっている。
回すと、しゃら、と花が崩れて、別の花になる。
その花の縁に、白くて丸いものが五つ並んでいた。
小さいのから、大きいのへ。
足の指みたいだ、と思った。
もう一度回すと、それも崩れて消えた。
「白いのが五つ見えた」
俺が言うと、親父は「そうか」とだけ返して、筒を受け取る。
そのまま、上着の内ポケットにしまった。
帰りの坂の途中で、日が出た。
家に着いたのは、六時少し前だ。
朝飯のあと、親父の足を膝に載せて、爪を切りながら聞いた。
筒の毛皮は、兎の皮だという。
「じいちゃんが、裏の山に罠をかけてたんだ、ワイヤーでな」
平和のあたりに、まだ家が少なかったころの話だ。
冬のある朝、白い兎が一匹かかっていた。
じいちゃんが持ち上げると、えらく軽かったらしい。
皮だけだった。
腹も背中も、どこも破れていない。
それでいて中身はからっぽで、かわりに雪が詰まっていた。
「ばあちゃんがその皮をなめして、筒に巻いた」
「なんで万華鏡なんか」
「さあな、聞きそびれた」
親父は、ぱちんと飛んだ爪のかけらを、指でつまんで新聞紙の上に戻した。
ばあちゃんは毎朝、日が出る前に、あの滝まで歩いたという。
万華鏡を持って行って、滝に向けて覗く。
ばあちゃんが死んでからは、親父が同じことをしている。
俺が小学生のころからだ。
「毎朝、滝を見せてやれって言われたんだ」
「誰に見せるのさ」
親父はそれには答えず、俺の手から足を引いた。
「次、左」
俺は黙って、左の足を膝に載せた。
次の週も、土曜の晩から親父の家に泊まる。
四時半に、ぎい、と板が鳴る。
坂の途中で、親父が一度だけ立ち止まった。
林の奥を懐中電灯で照らして、また歩き出す。
何かいたのかと聞くと、親父は首を横に振った。
先週と同じ四時四十分に家を出たのに、駐車場の空はあのときより暗い。
日の出が、一週ごとに遅くなっていく。
今朝は、車が一台もない。
谷の底の滝だけが、ぼんやり白く浮いている。
親父は柵の手前で、万華鏡を覗いた。
この前より長い。
二分、三分と、筒を回し続けている。
やがて下ろして、目頭を指で押さえた。
「よく見えん、お前が見てくれ」
筒を受け取って、覗く。
暗い花が、しゃら、と崩れる。
組み変わった花の真ん中に、白いものが寄っていた。
足の裏だ。
かかとと、土踏まずのくびれと、五本の指。
それが六つ、かかとを真ん中に集めて、花びらのように並んでいる。
万華鏡は、中の鏡で一つのものをいくつにも増やして見せる。
足の裏に似た白い粒が、一つ入っているだけだろう。
そう思って、筒を回した。
まわりの粒が流れて、別の模様に変わる。
六つの足の裏は、同じ場所にとどまっていた。
後ろで、落ち葉を踏む音がした。
一歩、二歩。
駐車場の、碑のあるあたりからだ。
三歩目は、すぐ後ろだった。
首の後ろが、すうっと冷えた。
俺は筒から目を離して、携帯のライトを後ろへ向ける。
明かりの中にあるのは、落ち葉と碑だけだ。
親父は振り向かなかった。
滝のほうを向いたまま、言う。
「鹿だべ」
「足の裏が、六つ見えた」
「鏡で増えてるだけだ」
親父は俺の手から筒を取って、内ポケットにしまった。
帰りの坂では、鈴の音が行きより大きく聞こえる。
その週、琴似のアパートで、万華鏡の作りを携帯で調べた。
筒の中には、細長い鏡が三枚、三角に組んである。
先の曇りガラスの内側に、色の粒が入っている。
覗いて見えるのは、その粒と、鏡に映った粒だけだ。
外の景色は、映らない。
滝に向けるのは、明かりがほしいからだろう。
明け方の谷では、あの白い水が一番明るい。
足の裏は、たぶん白っぽいガラスのかけらだ。
暗いところで見たから、足に見えた。
毎週、親父の足の爪を切っているせいもある。
落ち葉の音は、親父の言うとおり鹿ということにした。
そこまで並べると、だいたいの筋は通った。
回しても足の裏が動かなかったことだけが、どう並べても余る。
水曜の夜、親父に電話をかけた。
「今朝も行ったのか」
「行った」
「何か見えたか」
「なんも見えん」
少し間があって、「たぶんな」と付け足した。
平日の朝は、親父が一人であの柵の前に立っている。
電話を切ってから、しばらく携帯を手の中で裏返していた。
三度目の日曜の朝は、息が白かった。
坂の途中で、親父の足が何度か止まる。
腰に手を当てて、しばらく川の音を聞いている。
駐車場に着くと、谷はほとんど夜のままだった。
柵の手前で、親父は万華鏡を出した。
今朝は自分で覗かずに、そのまま俺に渡してくる。
「今日は、お前が見てくれ」
親父は俺の左に立って、滝のほうを向いている。
俺は筒の先を、谷底の白いところに向けた。
覗く。
花の形が、消えていた。
丸い視野いっぱいに、足が一つある。
裸足の右足を、上から見下ろしている。
自分の足を見るときの、あの角度だ。
鏡が三枚あるのに、それは一つきりだった。
指の付け根のしわまで見える。
親指の爪が、半分だけだ。
筒を持つ指が、こわばって開きにくい。
冗談だろ、と口の中で言った。
先週の日曜にも、俺はこの爪を切った。
形も、硬さも、指が覚えている。
筒を下ろして、隣を見た。
親父は長靴をはいて、落ち葉の上に立っている。
「見えたか」
親父は、滝のほうを向いたまま聞いた。
「足が一つ、右の足だ」
少し迷ってから、もう一つ言う。
「親指の爪が、半分だった」
親父は、自分の長靴を見下ろした。
それから、少しだけ笑う。
「そうか、俺のか」
親父は俺の手から万華鏡を取ると、毛皮をなでつけるように二度さすった。
内ポケットにしまって、「帰るべ」と言う。
今朝は、後ろの落ち葉が一度も鳴らずに済んだ。
坂を下りながら、先週こしらえた筋書きを頭の中でなぞった。
白っぽいガラスのかけらが、暗がりで足に見えただけ。
それなら、三枚の鏡で六つにも十二にも増えるはずだ。
さっきの足は、たった一つだった。
前を歩く親父の鈴が、ちりん、ちりんと鳴っている。
家に着くと、親父が先に上がった。
三枚目の板が、ぎい、といつもの音を立てる。
茶の間で、親父に言った。
「もう、朝に行くのやめよう、クマも出るって言うし」
親父は、思ったよりあっさりうなずいた。
「したら、やめるか」
少し間をおいて、ばあちゃんには悪いけどな、とつぶやく。
親父はそれから、上着の内ポケットの万華鏡を出して、卓袱台に置いた。
「お前が持っとけ、家にあると朝に目が覚める」
「見せに行かなくて、いいのか」
「いい、俺の代で終いだ」
俺は万華鏡を新聞紙で包んで、琴似のアパートに持って帰った。
包むときに、指先が毛皮に触れる。
外に置きっぱなしの鉄みたいに、冷たい。
押し入れの奥の、冬物の箱の下に入れてある。
包みは、そのままだ。
それから親父は、朝まで寝るようになった。
六時半に起きて、テレビをつけて、飯を炊く。
年寄りらしい、ふつうの朝だ。
俺は週末ごとに顔を出して、泊まって、爪を切る。
次に回ってきた回覧板には、クマの紙の代わりに、冬の除雪の知らせが入っていた。
二週間ほどたった土曜の晩も、親父の家に泊まった。
夜明けより、だいぶ前に目が覚める。
枕元の携帯を見ると、四時半だった。
体のほうが、まだあの時刻を覚えているらしい。
廊下で、足音がした。
親父が便所に立ったらしい。
すり足の音が、奥の部屋のほうから玄関のほうへ動いていく。
三枚目のあたりを、通る。
板は、鳴らなかった。
ぎい、が来るのを、俺は布団の中で待った。
便所の戸が開いて、閉まる。
水の流れる音がして、足音がまた戻っていく。
三枚目は、行きも帰りも黙っていた。
親父が部屋に戻るのを待って、俺は起き上がる。
廊下に出て、三枚目の板を踏んだ。
ぎい、と鳴った。
暗い家じゅうに響く音だ。
「なんだ、起きたのか」
襖の向こうから、親父の眠そうな声がした。
親父は相変わらず味噌汁を作るし、テレビの天気予報に文句を言う。
ほかは、何もかも前と同じだ。
廊下の三枚目の板だけが、親父の足では鳴らない。
おふくろが生きていたら、やっと直ったと言って笑うだろう。
朝飯のあと、いつものように親父の足を膝に載せた。
右の親指の爪は、半分のままだ。
ぱちん、と切る。
足首を持って、少し持ち上げる。
前からこんなに軽かったのかどうか、思い出そうとして、途中でやめた。
「次、左」
親父が言った。
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