律子の朝は、夜中の三時に始まる。
港のほうのパン工場で、早番をしている。
五時には白い帽子をかぶって、粉の袋を開けている時間だ。
家を出るのは四時十分。
バスはまだ走っていないから、自転車で坂を下りていく。
住んでいるのは、本牧の古いアパートだ。
二階建ての二階の、いちばん奥の部屋。
台所と、六畳がひと間。
春に越してきた。
部屋の仕切りも押し入れも、引き戸とふすまばかりだ。
押して開ける戸は、玄関のドアだけ。
六畳の東の壁ぎわに、水槽を置いている。
六十センチの水槽で、ひとり暮らしの部屋には大きめだ。
水だけで、五十キロを超える。
越してくるときは、引っ越し屋さんが二人がかりで外階段を上げてくれた。
中には金魚が三匹いる。
赤い琉金が二匹と、黒い出目金が一匹。
三時にアラームを止めたら、天井の明かりをつける。
水槽の灯りは、タイマーで夜の九時に消えている。
暗い水槽の前にしゃがんで、エサをひとつまみ落とす。
それから、横の棚のノートに一行書く。
日付と時刻、エサの量、水温。
前の部屋にいたころからの癖だ。
一度、エサをやりすぎて水を腐らせ、金魚を死なせた。
三時四十分ごろになると、新聞のバイクが坂を上がってくる。
外階段を上る足音がして、ドアポストの蓋が、かたんと鳴る。
届いた朝刊は鞄に入れて、休憩のときに読む。
読み終えた新聞は、水換えのときに床に敷く。
それが、毎日の三時台だった。
越してきたばかりの春に、近所の地名で検索をしたことがある。
本牧の白い家、という話が出てきた。
本牧原の住宅街にあったという、白い一軒家の噂だ。
律子の部屋からなら、歩いて十分ほどの辺りになる。
話は、新築の家を借りた家族が、住んで何週間かで出ていったところから始まる。
次の家族はひと月ともたず、その次の夫婦は二週間で引っ越した、と続く。
玄関には、お札がびっしり貼ってあったという。
二階で寝ていると、下から足音や話し声がする。
シャワーの音まで聞こえてくる。
空き家のあいだも、雨戸を叩く音がしたらしい。
古いものだと、二十年ほど前の匿名掲示板の書き込みが残っている。
それがあちこちのサイトに写されて、少しずつ話が増えていた。
反対の書き込みも、ちゃんとあった。
ただの欠陥住宅で、床が傾いていたから戸が勝手に開いたのだとか。
今は普通に人が住んでいる、とか。
いちばん新しい書き込みには、もう解体されたとあった。
どれも、確かめようのない話だ。
人の住む町の、人の土地の話でもある。
律子は画面を閉じて、それきり忘れていた。
八月十九日の三時。
アラームを止めると、部屋は蒸していた。
エアコンは、一時に切れるようにしてある。
首のうしろが、汗で湿っている。
窓の外では、虫がまだ鳴いていた。
明かりをつけて、水槽の前にしゃがむ。
いつもなら、三匹が前のガラスに寄ってくる。
口をぱくぱくさせて、律子の指を待つ。
その夜は、三匹とも底のほうで、じっとしていた。
腹が、丸く張っている。
水の青臭い匂いが、いつもより強い。
棚のノートを開いて、手が止まった。
今日の行が、もう書いてある。
八月十九日、二時四十一分、エサ少、二十七度。
律子の字だ。
エサをカタカナで書くのも、少の字を小さく添えるのも、いつもの書き方だった。
二時四十一分の記憶は、まっ白だ。
暑さで眠りが浅くなって、寝ぼけたまま起きたのだと思う。
起きて、エサをやって、書いて、また寝た。
それなら、腹が張っているのも分かる。
律子はエサの缶を棚に戻した。
やりすぎるよりは、一回抜いたほうがいい。
三時四十分に、いつものバイクが来た。
蓋が、かたんと鳴る。
新聞を鞄に入れて、四時十分に家を出た。
その日は、天板に並んだ丸パンに卵を塗り続けて、ノートの字のことは頭から抜けていた。
次の夜も、三時に目を覚ます。
明かりをつけて、先にノートを開いた。
八月二十日、二時三十八分、エサ少、二十七度。
その後ろに、もう一語あった。
戸の音。
律子は、しばらくその三文字を見ていた。
二時三十八分に、戸の音と書きたくなる何かがあったらしい。
寝ぼけた自分が、わざわざ書き足したのだ。
立ち上がって、玄関を見にいく。
鍵はかかっている。
チェーンも、寝る前にかけたままだ。
部屋との引き戸も、風呂の折れ戸も、閉めたときの形で止まっている。
六畳に戻って、水槽の前にしゃがむ。
三匹は、前のガラスに並んでいた。
エサを待つ顔とは違う。
三匹とも、律子の右肩の、少し上を見ていた。
灯りの消えた水槽は、前のガラスが鏡になる。
天井の明かりと、律子の顔と、うしろの壁が映る。
うしろは西の外壁だ。
いちばん奥の部屋だから、壁の向こうは、二階の高さの夜の空気だ。
その壁に、パン工場でもらったカレンダーが掛けてある。
カレンダーの右に、白い戸が映っていた。
細い、一枚の戸だ。
ノブの代わりに、胸の高さに金属の板が貼ってある。
押して開ける戸の、押し板だ。
律子は振り向いた。
壁と、カレンダーと、エアコンの白いコードがあるだけだ。
ガラスに目を戻すと、戸はまだ映っている。
顔を左右に動かしてみた。
映った部屋と一緒に、戸の位置も、同じだけずれる。
ガラスの傷や汚れなら、部屋とは別の動き方をする。
部屋の中にあるものの、映り方だった。
水槽の灯りのスイッチを、手で入れる。
水の中が白く明るくなって、ガラスはただのガラスに戻った。
三匹が、ばらばらに泳ぎだす。
律子は、明かりをつけたまま着替えた。
工場の休憩室で、携帯を出した。
春に読んだ本牧の白い家の話を、もう一度開く。
戸が勝手に開く、という書き込みが、やっぱりあった。
欠陥住宅だから、という書き込みも、そのままだ。
どちらにしても、律子の部屋とは関係のない話だ。
こっちは白くもない古いアパートで、部屋の中は引き戸とふすまばかりなのだから。
ただ、ノートの字だけは、自分の字だった。
寝ぼけて歩き回る人の話は、聞いたことがある。
二階の部屋から、寝たまま外階段を下りたらどうなるか。
坂の下には、夜でもトラックの走る通りがある。
金魚のこともある。
寝ぼけたまま二回もエサを入れたら、水はすぐに濁ってしまう。
起きている自分の目で、確かめるしかない。
律子は、アラームを二時と三時の二つにした。
八月二十一日の二時。
明かりをつけて、水槽の前に座った。
水槽の灯りは、消したままにしておく。
膝にノートを開いて、ボールペンを握る。
携帯は、時刻が見えるように床に置いた。
上のフィルターから水の落ちる音が、ずっと続いている。
二時二十分を過ぎたころ、三匹が前に寄ってきた。
並んで、また律子の右肩の上を見る。
ガラスに映っているのは、まだ壁とカレンダーだけだ。
振り向きたいのを、律子はこらえた。
振り向けば壁があるだけなのは、分かっている。
二時三十一分。
カレンダーの右に、白い戸が浮かんできた。
今度は、押し板の傷まで見える。
細かい引っかき傷が、板の下のほうに集まっている。
子どもの手の高さだ、と思った。
戸が、向こうへ動いた。
誰かが押したように、ゆっくり開いていく。
隙間の奥は暗い。
首すじに、ひやりと空気が当たった。
シャンプーの匂いがする。
律子が風呂で使っているのとは違う、甘い花の匂いだ。
頭の上で、水の音がした。
シャワーを出しっぱなしにしたような音だ。
この部屋の上は、屋根しかないのに。
ペンを握った指に、力が入る。
次に聞こえたのは、三時のアラームだった。
律子は、布団の上で横になっていた。
天井の明かりは、ついたままだ。
跳ね起きて、水槽の前を見る。
ノートが、床に開いて落ちていた。
ボールペンはキャップを閉めて、ノートの上に載せてある。
キャップを閉めるのは、律子の癖だ。
今日の行は、いつもより長かった。
字が、右へ流れるように傾いている。
八月二十一日、二時三十三分。
押した。
廊下が長い。
階段が上へ。
上で水の音。
玄関に白い紙がいっぱい。
新聞を取る。
戻る、二時五十八分。
なにこれ、と声に出したら、喉がかすれていた。
ノートの横に、新聞が一部、置いてあった。
ドアポストから抜いたときの形で、四つに折れている。
一面の日付は、八月二十一日。
律子が毎朝取っている新聞だ。
玄関に出て、ドアポストの蓋を開けた。
中は空っぽだ。
携帯の時計は、三時六分。
バイクが来るのは、いつも三時四十分ごろだ。
新聞の端が、一か所だけ湿っていた。
鼻を近づけると、甘い花の匂いがした。
さっきの、シャンプーの匂いだ。
三時四十分、バイクの音が坂を上がってきた。
外階段の足音。
ドアポストの蓋が、かたんと鳴る。
律子は、玄関に立ったまま蓋を開けた。
新聞が一部、入っている。
同じ日付の、同じ新聞だった。
昼の休憩に、二部を並べて見比べた。
一面も、天気欄も、テレビ欄の小さな字まで同じだ。
違うのは、片方の端が波打っていることと、あの匂いだけ。
律子は、筋の通る話を探した。
寝ぼけて外階段を下り、下の部屋のドアポストから、新聞を抜いてきた。
同じ新聞を取っている人がいれば、ありえる話だ。
でも、二時半には、バイクはまだ坂の下にも来ていない時間だ。
ノートのほうは、もう少し分かりやすい。
水の音と、玄関の白い紙。
春に読み、つい昨日も読み直した、本牧の白い家の話に出てきたものばかりだ。
読んだばかりの話が、寝ぼけた頭に混ざっただけだ。
律子は、そう決めた。
決めておかないと、今夜あの部屋で眠れなくなる。
部屋を出ることも考えた。
けれど、水槽を動かすには、また人を二人頼むことになる。
三匹を置いて、よそで寝るのも嫌だった。
それに、朝の五時には、工場で粉の袋を開けている。
三時に起きる場所は、結局この部屋しかない。
その夜は、寝る前に支度をした。
水槽の灯りのタイマーを、つけっぱなしの側に切り替える。
これで、ガラスに部屋は映らなくなる。
押し入れの前の衣装ケースを、西の壁まで引きずっていった。
カレンダーの隣の、戸が映っていたあたりに押しつける。
引き出しが三段ある、プラスチックのケースだ。
冬物が詰まっていて、それなりに重い。
布団は、いつもの窓の下から、そのケースの前へずらして敷いた。
ケースに背中をつけて寝れば、動いたときに分かる。
ノートは、水槽のふたの上に置いた。
ペンは台所へ持っていき、流しの上の吊り戸棚の、上の段に入れた。
踏み台に乗らないと届かない段だ。
書くものがなければ、書けるはずがない。
天井の明かりを消して、水槽のほうを向いて横になる。
二時のアラームで、目を開けた。
水の中だけが明るい。
水面の照り返しが、天井で揺れている。
眠らないように、太ももをつねる。
携帯の時計が、二時半を過ぎた。
二時三十四分。
三匹が、いっせいに前へ寄ってきた。
明るい水の中に並んで、律子の肩の上を見ている。
背中のうしろで、何かがこすれる音がした。
プラスチックの脚が、床の上を少しずつ滑る音。
背中に当たっていたケースの重みが、離れていく。
律子は、布団の端を握って、前だけを見た。
首すじに、冷たい空気が流れてくる。
甘い花の匂い。
頭の上で、水の音が始まる。
肩甲骨のあいだを、指の先が、すっと下へなぞった。
線を一本引くような、ゆっくりした動きだった。
息を止めて、出目金の黒い目を見つめる。
右と、左。
右と、左。
三時のアラームが鳴った。
律子は、さっきと同じ向きで、布団に横になっていた。
部屋が暗い。
水槽の灯りが、消えている。
起き上がって、天井の明かりをつけた。
タイマーのつまみは、いつもの自動の側に戻っていた。
衣装ケースは、押し入れの前の、もとの場所にある。
床には、ケースの脚が滑った跡が、細く二本ついていた。
ノートは、水槽のふたの上で開いている。
今日の行は、短い。
八月二十二日、二時三十五分。
押した。
それで終わりだった。
戻る、の二文字は、どこにも書いていない。
律子は台所へ行き、踏み台に乗って吊り戸棚をのぞく。
ペンは、寝る前に入れたところにあった。
押した、の三文字は、そのペンの青い字だった。
律子は、エサの缶を開ける。
ひとつまみ落として、下ろしてきたペンで、その下に自分の行を書いた。
八月二十二日、三時九分、エサ少、二十六度。
手が震えて、九の字がはねていた。
三時四十分に、バイクが坂を上がってくる。
新聞は、一部だけ届いた。
律子はそれを鞄に入れ、四時十分に、いつものように家を出る。
その夜を最後に、ノートに覚えのない行は増えなくなった。
九月に入っても、十月になっても同じだ。
三時に起きて、エサをやって、一行書く。
三匹は前のガラスに寄ってきて、律子の指を見る。
灯りの消えた水槽に映るのは、壁とカレンダーだけになった。
ガラスに戸が映ったのは、八月の二晩だけだ。
暑さが引いた今も、ガラスの中の壁は、ただの壁のままだ。
来年の夏のことは、まだ考えないようにしている。
本牧の白い家の跡を、見に行こうと思ったことはある。
けれど、行ったところで、人の住む町の、人の土地があるだけだ。
律子は、書き込みを読み返すのもやめた。
手元に残っているのは、記録だけだ。
ノートの、覚えのない四晩ぶんの書き込み。
八月二十一日の新聞が、二部。
片方の端は、乾いて波打ったままだ。
花の匂いは、もう紙とインクの匂いに負けている。
三時に一行書く前に、律子はつい、八月のページまでめくり戻してしまう。
八月二十二日、二時三十五分、押した。
そのすぐ下に、震えた字の、三時九分の行がある。
押した、の行と、三時九分の行のあいだに、戻ったという記録は一行もない。
毎朝、そのあいだに指を一度置いてから、律子は今日のページを開いて一行を書く。
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