十月に入って最初の金曜だった。
夜勤明けではない。
ただ眠れなかった。
私は三十四で、高崎市内の物流倉庫で事務をしている。
シフトが週ごとに変わるので、体の時計がいつもずれている。
眠れない夜は、月に何度かある。
住んでいるのは、高崎問屋町の駅から歩いて七分のアパートだ。
二階の角部屋。
玄関を開けると台所で、その奥に六畳が一つ。
外廊下に面した窓には、ずっとカーテンを引いている。
玄関の横に、インターホンのモニターがある。
来客があると、外廊下のカメラの映像が映る仕組みだ。
廊下にはセンサー式の明かりもついていて、人が通ると点く。
夜中に隣の人が帰ってくると、ドアの下の隙間が一瞬だけ明るくなる。
慣れてしまえば、気にならない。
深夜一時を回っていた。
雨は夕方に上がって、窓の外はまだ湿っている。
テレビを消して、コンビニのおでんを食べ終えたところで、スマホが震えた。
奈緒からだった。
高校の同級生で、卒業してからも何年かは会っていた。
今は埼玉にいる。
最後にやり取りしたのは、二年近く前だ。
「これ見て。鼻高のばあちゃんちの近く。あの橋」
一行と、動画のリンク。
鼻高町。
奈緒の祖母の家があった場所だ。
高校の夏、何度か泊まりに行った。
縁側で西瓜を食べて、寺沢川の音を聞きながら寝た。
祖母が亡くなって、家はもうない。
あの橋というのは、入の谷津橋のことだと、すぐに分かった。
祖母の家から歩いて十分もない。
夜は行くな、と言われていた橋だ。
呼ばれても振り向くな、とも言われた。
高校生に向ける言い方ではない気がして、二人で笑った覚えがある。
奈緒は「ばあちゃん、昔の人だから」と言って、西瓜の種を庭に飛ばしていた。
祖母は笑わなかった。
縁側の手すりを拭きながら、川のほうを見ていた。
あの顔だけ、いまでも覚えている。
リンクを開いた。
配信アプリのアーカイブだった。
三日前の夜、「夜歩きの人」という名前の男が、一人で歩いている。
顔は映さない。
声は低くて、やけに丁寧だ。
群馬八幡の駅から歩いてきたと言っていた。
日付が変わったところだと、男は時計を見て言った。
国道十八号の少林山入口の信号から入って、達磨寺の方へは行かず、川沿いに曲がる。
街灯が一本もない。
画面は、ほぼ黒だ。
「視聴者さんのリクエストです。地元の人は夜に近づかないそうで」
男はそう言って、スマホのライトを足元だけに向けた。
畑の匂いがすると言う。
画面の端に、白い標識が一度だけ映った。
入の谷津橋、と読めた。
私は、その字を見ただけで、縁側の木の感触を思い出した。
音だけがよく入っていた。
虫の声。
水の音。
男の靴が砂利を踏む音。
「今、橋の手前です。お地蔵さんがあるので、ここで一礼します」
男はしゃがまず、触らず、離れた場所で頭を下げた。
向かいに古い碑があるとも言った。
奈緒の祖母が、昔の水害のものだと教えてくれた碑だ。
あのときも、近づくなと言われた。
コメントが右側を流れていく。
「ここやばいって」
「頭下げたの偉い」
「音拾えてる?」
「鼻高のほう、夜はほんとに真っ暗」
画面が少し明るくなった。
橋の中央らしい。
欄干が、かろうじて見える。
下は十三メートルあると、男が言った。
風が入ってきた。
マイクが擦れる音の向こうで、水が鳴っている。
「真ん中だけ、空気が冷たいですね。川から上がってくるのかな」
男はそう言って、少し黙った。
コメントが「鳥肌」で埋まる。
私は毛布を膝に引き寄せた。
部屋の中は、まだ蒸し暑いのに。
そのとき、奈緒から音声通話がかかってきた。
「見てる?」
「見てる。今、橋の真ん中」
「そこ。もうちょい先。そこまでは見た」
奈緒の声は、昔より低い。
でも、笑い方は変わっていなかった。
私はスマホをテーブルに置いて、スピーカーにした。
配信の音と、奈緒の声が、同じ場所から出る。
「なんでこんなの見つけたの」
「おすすめに出てきた。鼻高って字が見えて、開いちゃった」
「ばあちゃん怒るよ」
「だから一人で見るの怖くて」
男が黙った。
画面の黒い部分、橋の向こう側から、声がした。
「おーい」
長く伸びた、間の抜けた呼び方だった。
男の息を呑む音が入る。
「え、今、聞こえました?」
コメントが一気に増えた。
「返事すんな」
「山のやつと同じ」
「憶えられるぞ」
「はーい」
「それやめろ」
私は、背中が少し冷えた。
おでんの汁の匂いが、急に生ぬるい。
誰かいるのだろう。
あの辺りは畑がある。
夜中に見回りをする人がいても、おかしくはない。
犬の散歩かもしれない。
こんな時間に、街灯のない川沿いで。
自分で並べた理由が、どれも手に残らなかった。
奈緒が何も言わない。
「おーい、奈緒。聞いてる?」
一拍、遅れて返事があった。
「聞いてる。てか、あんた今、二回言ったでしょ」
「一回しか言ってない」
「いや、二回。おーい、おーいって」
「配信の声と被ったんだよ」
「そっか」
奈緒は納得したらしい。
私もそうだと思った。
スピーカーとマイクが近い。
音が混ざっただけだ。
配信の中で、もう一度、声がした。
「おーい」
さっきより、ゆっくりだった。
男は何も言わなかった。
少し間があって「戻ります」と言い、画面が揺れた。
コメントが「戻れ」「早く」で埋まる。
男は来た道を戻って、国道のコンビニに入った。
明るい店内で「一回だけ、聞こえましたね」と言って、配信は終わった。
一回。
私には二回に聞こえた。
アーカイブを巻き戻せば確かめられるのに、指が動かなかった。
通話の向こうで、奈緒の息が長くなっていた。
「寝た?」
返事はない。
寝息だけが続いている。
切ろうかと思って、やめた。
女一人の部屋で、人の寝息が聞こえているのは、悪くない。
通話はつないだままにした。
スマホの画面を伏せて、台所で水を飲んだ。
蛇口の水が、まだ夏のぬるさだった。
玄関のチャイムが鳴った。
一時五十分。
モニターを見た。
外廊下が映っている。
誰もいない。
センサーの明かりは点いていなかった。
うちのインターホンは、雨の日に勝手に鳴ることがある。
管理会社にも言った。
湿気だと言われた。
今夜は雨上がりだ。
それで済ませた。
人が通ったなら、明かりが点くはずだ。
誰も通っていない。
だから誤作動だ。
順番に並べると、落ち着く気がした。
ソファに戻って、毛布をかぶった。
奈緒の寝息が、スピーカーから小さく聞こえる。
通話時間の表示が、三十分を超えていた。
目を閉じた。
耳の奥で、水の音がまだ鳴っている。
あの頃は、眠るための音だった。
二回目は、二時半だった。
チャイムが二度、続けて鳴った。
短く、短く。
毛布をはねのけて、モニターを見た。
廊下。
誰もいない。
今度は、センサーの明かりが点いていた。
誰かが通ったのか。
同じ階の誰かが帰ってきたのか。
時間が時間だ。
隣の部屋の若い子は、よく朝方に帰ってくる。
私はそう考えて、モニターの横の通話ボタンに触れないまま、画面が消えるのを待った。
明かりが消えた。
玄関まで行って、チェーンを確かめた。
かかっている。
ドアスコープは、覗かなかった。
奈緒の寝息は続いている。
通話時間は、一時間十二分。
ソファに戻る気になれなくて、台所の椅子に座った。
電気は点けたままにした。
冷蔵庫の唸りだけが、部屋にある。
奈緒を起こそうかと思った。
起こして、何を言う。
チャイムが鳴った、と言うのか。
埼玉にいる奈緒に、何ができるわけでもない。
寝息が聞こえているだけで、十分だった。
スマホの画面を起こすと、配信のアーカイブが、まだ開いたままだった。
再生は止まっている。
コメント欄に、新しい書き込みが一つ増えていた。
「今夜も聞こえた人いる?」
三日前の配信に、今日の日付で、書き込まれている。
時刻は、二時三十一分。
誰が、どこで聞いたのか。
書いた人は、また橋に行ったのか。
それとも、家で聞いたのか。
書き込みの名前を押してみた。
投稿が一つもない、空のページだった。
作られたのは、今日。
私は画面を伏せた。
台所の時計の秒針が、やけに大きく聞こえる。
三回目は、三時十四分だった。
チャイムが一度、鳴った。
長く押したみたいに、音が引き伸ばされていた。
私はモニターを見る前に、立ち上がっていた。
考えたわけじゃない。
手が勝手に動いた。
通話ボタンを押して、言った。
「はい」
スピーカーから、風の音がした。
マイクに擦れるような風。
その向こうで、水が鳴っている。
配信の音じゃない。
スマホはテーブルの上で、画面が消えている。
インターホンの小さなスピーカーから、水の音がしている。
私は指を離せなかった。
風がやんだ。
「おーい」
私の声だった。
私が、私の声で、廊下から呼んでいる。
通話を切った。
モニターの画面に、廊下が映っていた。
センサーの明かりが、点いている。
誰も、いない。
私は玄関から離れて、台所の床に座った。
背中を冷蔵庫につけた。
冷蔵庫の振動が、背骨に伝わってくる。
膝が小さく震えていて、止め方が分からなかった。
考えた。
インターホンは、自分の声を拾う。
通話ボタンを押せば、こちらの声が外のスピーカーに出て、それが戻ってくる。
反響だ。
壁が近い廊下なら、戻ってくるのも早い。
スマホで調べた。
「インターホン 自分の声 戻る」で検索すると、同じ相談がいくつも出てきた。
配線の不良。
スピーカーの劣化。
古いアパートなら、よくあるらしい。
それで済むはずだった。
ただ、私は「はい」としか言っていない。
床の冷たさが、足の裏から上がってくる。
手のひらに、汗が残っていた。
通話ボタンの丸い形が、指先にまだある。
スマホの通話画面に、奈緒の名前が出たままだった。
通話時間、一時間五十六分。
寝息は、もう聞こえなかった。
「奈緒」
呼んでみた。
返事はない。
切れてもいない。
私はそのまま、朝まで台所にいた。
窓が白くなるまで、何も鳴らなかった。
冷蔵庫が二回、氷を落とした。
それだけだ。
六時過ぎに、通話が奈緒の側から切れた。
少しして、メッセージが来た。
「寝落ちごめん。通話、五時間近くになってた。あの配信、朝見たら消えてたよ」
私は「見たよ、こわかった」とだけ返した。
奈緒からは、笑っている絵文字が一つ来た。
「また電話する」とも書いてあった。
まだ、かかってこない。
アーカイブは、本当に消えていた。
夜歩きの人のページも、動画が一本もない。
名前だけが残っていて、三日前の日付で止まっている。
あの書き込みも、たどれなくなった。
消えた動画のコメントは、どこにも残らない。
土曜は普通に過ごした。
洗濯をして、買い物に行って、夜は早く横になった。
日曜も、月曜も、昼間は普通だった。
職場に行って、帰ってきて、コンビニで夕飯を買う。
鼻高町には行っていない。
奈緒にも、あの夜のことは言っていない。
火曜の昼に、宅配が来た。
チャイムは、いつもの音で鳴った。
モニターに、帽子をかぶった配達員の顔が映った。
通話ボタンを押して「はい」と言うのに、少しだけ時間がかかった。
戻ってきたのは、配達員の声だった。
それでいい。
一つだけ、変わったことがある。
土曜の夜からだ。
毎晩、三時過ぎに、外廊下のセンサーの明かりが点く。
ドアの下の隙間から、細い光が入ってくるので分かる。
足音はしない。
チャイムは鳴らない。
一分ほどで消える。
いつもより、長い。
最初の夜は、モニターを見た。
廊下。
誰もいない。
明かりだけが点いていた。
二日目からは、見ていない。
管理会社に聞いた。
センサーは虫でも反応すると言われた。
十月の虫だ。
そういうこともある。
今も、ドアの下が、光る。
私は毛布の中で、口を閉じている。
呼ばれても、返事をしない。
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