厚い上着を返しに来た、と言うつもりだった。ところが航平は真帆の紙袋を見て、「寒かったら着なよ」と言った。去年までと同じ言い方だった。真帆は袋の口を握り直し、今日はそこまでいないから、と答えた。
天文台へ続く坂は、車を降りてからの方が長かった。明かりを足元へ落として登ってくると、航平は入口の石段に腰掛けていた。煙草を吸っているのかと思ったが、手に持っていたのは携帯だった。ここまで来て電話を見ているのが少しおかしく、笑いそうになった。以前なら、何を見ているの、と隣に座っていた。
「村井さん、上にいる。今日、俺らだけだって」
「先に言ってよ」
「今、聞いたんだよ」
真帆は自分の言い方が強かったことに気づいた。二人きりで帰ることになるなら、上着は送ればよかった。山を下りればもうバスはない。航平の車に乗せてもらうと決めて来たのは自分だった。
小さな天文台は、町の同好会が月に二度だけ借りていた。真帆が通ったのは一年ほどで、星の名前はあまり覚えなかった。航平と別れてからも連絡の輪には残っていたが、今日を最後に抜けるつもりだった。管理をしている村井には世話になった。何も言わず来なくなるのが嫌で、晴れの予報が出た夕方、参加すると返事をした。
階段の上で、村井が湯飲みを二つ出していた。七十に近い人だったが、真帆の靴を見て、今日はよく滑らないのを履いてきたね、と言った。去年、下りの坂で転んだことを覚えていた。真帆は笑い、遅くなりました、と頭を下げた。やめるという言葉は、お茶をもらってからにしようと思った。
丸い観測室には、大きな望遠鏡が一本据えてあった。屋根は細く開いていて、その向こうに空が見えた。村井が窓のような開口部を少しずつ動かした。金属が擦れる音がやむと、真帆のいる所からも星が二つ見えた。航平は畳んだ椅子を壁へ寄せ、いつもの場所に鞄を置いた。真帆も隣へ紙袋を置きかけ、出入口の横へ運んだ。
村井は今夜の空の話をした。真帆には、何をどちらへ動かすのかよく分からなかった。観測室の赤い照明で、湯飲みの欠けた所が黒く見えた。その縁を避けて飲んでいると、航平が、先に見なよ、と席を譲った。真帆は、まだ大丈夫、と答えた。もう一つずつ譲り合うことにも疲れていた。
先に覗いた村井が、眼鏡を外した。接眼部へもう一度顔を近づけ、今度は離したまま黙っていた。いつもなら二人にも見えるよう場所を空ける。それをしないので、航平が横へ行った。
「曇りました?」
「いや。ちょっと、来てごらん」
航平は覗き、すぐに顔を上げた。ふざけたものでも見たように一度笑い、上の開口部を見た。真帆もつられて天井を見た。二つの星はそのままだった。
「道ですよね、これ」
航平の声で、真帆は湯飲みを置いた。望遠鏡には上り下りのできる小さな踏み台があった。足を載せ、教えられた所へ目を当てた。丸い中に、乾いた土の道があった。道端の草は白っぽく、遠くで二筋の轍が合わさっていた。昼間の眩しさに、真帆は瞼を細めた。空へ向けた筒の先に、道の土粒が一つずつ見えた。
村井は何も触らずに待っていた。真帆が台から下りると、見えましたか、と訊いた。はい、と答えた。誰かが写真を入れたのかと考えたが、轍の中の細い草が動いていた。そう言うと、航平は頷いた。風は見えないのに、葉が裏返るところだけがはっきり見えたという。村井は眼鏡を胸のポケットへしまい、今日はやめておこう、と言った。
やめると聞いて、真帆はほっとした。試してみようとか、別の星を見ようとか言われたら、断るのに困っていただろう。自分の紙袋を取り、階段へ出た。下の部屋の電気をつけて待とうと思った。最初の段に靴を置いた時、足元が明るくなった。出入口の細い鉄の枠に沿って、白い光が差していた。
真帆は足を戻した。床に、幅の狭い昼が載っていた。懐中電灯の丸い光とは違い、両側の端がまっすぐで、内側だけに土の色があった。真帆の靴先がその中へ入り、泥を落としたように見えた。靴を持ち上げると、小さな土の粒が床へ転がった。登ってきた舗装の坂で、そんな土は踏んでいなかった。
「あの、ここ」
真帆が言う前から、航平はこちらを見ていた。村井は天井の開口部を見上げていた。さっきまで星の見えていた細い隙間が、端から明るくなっていた。夜の空を隠すように、黄ばんだ草が伸びてきた。草の生え際に小さな石があり、丸い角に虫が一匹とまっていた。距離が近すぎた。屋根のすぐ上に、地面があるようだった。
村井が屋根を閉めようとした。音がして、光の筋が床の上を横へずれた。階段の入口から外れ、壁際へ移ったところで村井は操作をやめた。屋根は閉じきっていなかった。明るい隙間の中で、草の茎が押しつぶされ、千切れた葉が落ちてきた。一枚が真帆の頬へ触れた。乾いた葉の端が、唇をかすめた。
「挟まってる」
村井はつぶやき、今度は開く方へ動かした。葉がもう一枚落ちた。望遠鏡の脇の床に当たり、弾まずに立った。真帆はその葉を見つめた。葉の細い先が床を向いている。風もないのに倒れなかった。その周りの光の中で、土が少しずつ盛り上がっていた。
航平が真帆の肘を引いた。階段へ行こうとしたのだと分かった。けれど、村井がまだ壁のそばにいた。光をよけて出入口へ戻ってくる。その足元へ、屋根が開いたぶんだけ明るい筋が広がった。村井は右足を上げかけたが、爪先が床から離れず、踵だけが高くなった。村井は片手を壁についた。真帆には、ぬかるみに靴を取られたように見えた。
「靴、脱いでください」
航平が言った。村井は頷き、腰をかがめた。片方の靴を脱いだところで、体が横へ傾いた。壁を支えに踏ん張ったのではなかった。床へつくはずの足が壁につき、そのまま膝が伸びた。村井は壁を下にして立っていた。片方だけ靴下の足が、白い光の中に沈んでいた。
真帆は思わず声を上げた。村井がこちらへ手を伸ばした。開いた指先が震えていた。航平がその手をつかんだ。真帆は航平の腰へ腕を回し、後ろへ体重をかけた。三人は引き合う形になった。村井の肩が持ち上がり、シャツが脇に食い込んだ。村井は痛いとは言わず、ゆっくりでいいから、と二人へ言った。
靴下の足が動いた。けれどもこちらへ来るのではなく、壁の上を天井へ向けて一歩進んだ。村井の腰が上がり、航平の腕が真上へ引かれた。真帆は膝を床についた。航平も腰を落とした。見慣れた赤い床が、光の筋の脇で剥がれていた。その切れ目から、昼の土が壁へ続いていた。村井はそこに立っている。転んだのでも、吊られたのでもなかった。
「足、こっちへ。こっちに置けますか」
真帆は村井へ声をかけた。村井は一方の足を土から離した。靴下の裏が見えた。その足を真帆たちの方へ伸ばそうとすると、膝が胸へ引き寄せられた。真帆には、立っている人が片足で高い縁を越えようとしているように見えた。村井は戻し、息を吐いた。頬に汗が流れた。汗は顎へ伝わって、壁に落ちた。
航平の靴が滑った。真帆は両腕に力を入れた。村井の左手が、航平の手首を握り直した。三人のうち誰かが離せば終わりになるようで、真帆は奥歯を噛んだ。しかし村井の足はもう一歩進んだ。引かれているのに、腰から上だけを振り返り、道の先へ体を預ける形だった。
「待って。私、何か持ってくる」
真帆は言ったが、腕を離せなかった。縄のようなものはなかったか。いつも何をどこへしまうか、知っていたのは航平だった。航平の顔は見えず、頬の脇から汗の滴るのだけが見えた。村井が、もういい、と言った。二人とも返事をしなかった。
「違うんだ。そっちへ引かれると、転ぶ」
村井は手を離した。航平の体が真帆へ倒れ、二人で床に尻餅をついた。村井は壁の中ほどで片膝をついていた。手を土につき、少し休むように頭を下げた。真帆はまだ航平の服を握っていた。指を開くと、布の細い皺が掌の中に残った。
村井は立ち上がった。二人を見下ろすような向きでいたが、首を曲げることが辛そうだった。来た方へ戻ってください、と真帆は頼んだ。村井は足元を見た。その後ろに、望遠鏡の太い筒があった。正しくは、筒の上に道が通っていた。道の縁から真帆たちへ下りられそうな場所は、どこにも見えなかった。
村井が携帯を出し、画面へ指を当てた。航平のポケットで音が鳴った。航平は床に座ったまま電話へ出た。
「聞こえます。ここにいます」
そう答えてから、携帯を耳に押し当てた。目の前の村井が何か話していた。真帆にも口が動くのは見えたが、声はもう届かなかった。航平の受話口から、ごうごうと風の音が漏れた。
真帆は上着を袋から引き出した。何かしていないと、座ったまま見送ってしまいそうだった。袖口をつかみ、村井の方へ差し上げた。村井は手を振った。断っているのか、もっと近づけと言うのか分からなかった。真帆が立つと、航平が袖を下ろした。真帆は振りほどこうとし、村井の足元を見てやめた。土の道は、さっきよりずっと遠かった。背伸びをしても届かない所に、靴下の白があった。
村井は二人へ向き直ろうとして、よろめいた。道端の草をつかんだ。真帆は足元を見ることしかできなかった。草が抜けたら、こちらへ落ちてくるのではないか。そう思ったが、村井は道の方へ倒れ込んだ。頭を抱え、ゆっくり起きた。それから二人を見て、片手を胸の前で上げた。真帆は、はい、と答えた。何に答えたのか、自分でも分からなかった。
階段の下へ移った航平が、人を呼んだ。真帆は出入口に残った。村井が見えなくなった時、どちらへ行ったのか誰も知らないのが嫌だった。明るい道は屋根の隙間へ続いていた。村井はしばらく同じ所に立っていたが、やがて背を向け、ゆっくり歩き始めた。片足だけ靴がないので、土の柔らかそうな所を選んでいた。
人が来るまでの間に、村井は屋根の向こうへ出ていった。小さくなった背中を、真帆は外の坂から見た。丸い屋根のすぐ上に土の道があり、先は星の間へ伸びていた。下には何もなかった。航平は携帯を耳から離さず、何度も村井の名を呼んだ。風の音は途中で切れた。掛け直すと、呼び出す音がいつまでも続いた。
来た人たちも空を見た。真帆へ、どこですか、と訊いた者は一人もいなかった。村井の体は白いシャツの小さな形になっていた。立ち止まるたび、腕がこちらへ上がった。屋根へ梯子が掛けられた。上がった人はすぐ降りず、両腕を広げて村井に合図した。村井も足を止めた。屋根にいる人の顔より、空にある村井の姿の方がずっと小さかった。下で梯子を支えていた人が、携帯で誰かへ状況を伝え始めた。真帆は上着を着ていた。いつ袖を通したのか覚えていなかった。足の震えを止めようと、石段へ座った。
東が白み始めると、道の草が見分けにくくなった。村井はまだ立っていた。夜の黒さが薄れ、その白いシャツも空へ紛れていった。真帆は目をこすらずに見続けた。一度まばたきをしたあと、どこにいたのか分からなくなった。航平が腕を伸ばし、指で示した。真帆は、見えた、と言った。見えてはいなかった。
明るくなった空には、雲もなかった。航平の指は上がったままだった。真帆はその手を下ろさせず、自分も同じ所を指した。石段の下に、村井が脱いだ靴が置いてあった。誰かが中から持ってきたのだろう。口を上に向けた靴の中へ、朝日が深く差し込んでいた。
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