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息の届く席

姉が泳ぎ終わるのを待つことになった。ロビーで待っていると送ったら、二階へ来れば、と返事があった。見学席は靴のまま入れる、と続いたので、私は階段を上がった。水着を持っていないことは、最初の電話で伝えてあった。

姉と二人で昼を食べるのは、何年ぶりか分からなかった。去年、私が離婚した時も、実家で顔を合わせて少し話しただけだった。この春から姉の住む町へ通勤するようになり、だったら一度、と誘われた。平日に休める日を教えてほしいと言われ、三つ候補を送った。返ってきたのは、木曜なら午前中に泳いでいるから、そのあとなら空いている、という返事だった。会ってくれるのは嬉しかったが、ついででいいのかとも思った。

二階の見学席には、年配の夫婦が一組いた。奥の壁際で弁当のような袋を開け、女の人が何かを半分にして渡していた。私は三列あるベンチの一番前へ座った。低い手すりの向こうが吹き抜けになっていて、プールを斜めに見下ろせた。下では十人ほどが泳いでいた。水音は大きいのに、監視台の男性が誰かへ話す声は、言葉にならず丸まって届いた。

姉を見つけるのに時間がかかった。帽子をかぶれば髪形は分からないし、水着姿など長いこと見ていない。端のコースで、壁につかまりゴーグルを直している女が、急に手を上げた。私も手を振った。女は親指と人差し指を丸くして見せ、壁を蹴った。姉だった。五十になる前なのに、そんなに泳げるのかと感心して見ていた。

子供のころは逆だった。私が先へ泳ぎ、姉は浅い所から出なかった。姉の顔に水をかけて、母に叱られたこともある。その姉が、向こうの壁まで一度も止まらずに進んでいく。私は携帯で時刻を確かめた。二十五分あった。食事だけなら待ち合わせはもっと遅くてよかったのにと思い、そういうことを考えに来たのではない、と画面を消した。

姉は戻ってくると、こちらを見ずにもう一度壁を蹴った。昼までにはまだ間があった。ベンチの背へ肘を掛け、姉が小さくなるのを眺めていた時、耳のすぐ後ろで、短く息を吸う音がした。走ってきた人が隣へ腰掛けたのだと思った。振り向くと、空いていた。奥の夫婦は変わらず座っている。女の人が紙袋の口を折り、膝へ載せていた。

私は首筋に手をやった。汗も水もついていなかった。プールの反響は変な所から聞こえる、と自分で納得しかけた時、今度は右の耳の前で、ふっと息が出た。近すぎた。吐いた息の温度が耳たぶに残った。隣には、紺色の座面と、長く日に焼けた床があるだけだった。

下を見ると、姉は向こうの端で折り返していた。顔を水につけたまま、両腕を前へ伸ばしている。私は姉が息をするところを待った。顔が上がった。水が顎から落ちた。音は聞こえなかった。代わりに、顔を戻したあとの二かき目で、私の耳元に深い呼吸が届いた。下の誰とも合っていないようだった。

「近くで聞こえますね」
後ろの夫婦へ声をかけた。男の人が私を見たが、女の人は袋を鞄へしまうのに気を取られていた。
「何がですか」
「泳いでる人の息が」
男の人は手すりの下を覗き、そうですね、と答えた。立ち上がると、妻の鞄も持った。二人が帰りかけていたところへ、引き留めるように話しかけたのだと分かった。それ以上は訊けなかった。

二人が階段の方へ行ったので、私も立とうとした。腹へ硬いものが当たった。拳かと思ったが、幅があった。座面の端に引っ掛かったのでもない。私の腹と膝の間で、丸い骨が横へずれた。手を当てると、温かい皮膚があった。指は途中で止まり、その先へ進まなかった。

私は息を止めた。掌の下に何も見えなかった。履いてきたズボンの灰色の縞が、指の隙間からはっきり見えていた。それなのに、掌は人の肘を押さえていた。皮の下で骨が少し回り、私の手をすり抜けた。濡れた肩へ触れた時のような滑り方だった。掌を返すと、乾いていた。

すぐ立てばよかったのだと思う。だが私は、姉に見られるのが先に気になった。何もない所へ手を伸ばしている弟を、下からどう見ているだろう。手を引き、平らな所に置こうとした。右の手首が曲がらなかった。もう一つの肘が外から入り、私の腕を胸へ畳ませた。誰かがうつ伏せで、私の膝を横切ろうとしていた。

その重さで、ベンチの前の脚が鳴った。私の靴は床に着いていた。水はない。胸も普通に息を吸えた。ただ、見えない大人の体が腹へ押し当てられ、立ち上がる余地がなかった。私は左手で、その背中らしい所を押した。そこには骨がなく、少し奥で固い筋肉が盛り上がった。押し返してくる力は、私の手など気にもしていない強さだった。

姉が壁へ着いた。私は左手を上げた。姉は笑い、片手を上げ返した。そのまま指を二本立てた。あと二往復と言っているのだと思った。私は首を振ったが、姉はもう背を向けていた。昔から姉の買い物を待つ時、私は大げさに腕時計を見せていた。いつもの催促に見えたのだろう。今日は腕時計をしていなかった。

呼ぼうと口を開いた時、頬の横で息を吸われた。唇の開く湿った音までした。私の顔へ、触れないぎりぎりまで誰かの口が来ていた。声が出なかった。見えない口から、私が叫ぶのと同じだけの息が出そうな気がした。そのまま顔をよけると、襟が後ろへ引かれた。

シャツの第一ボタンは開けていた。襟元から斜めに布が突っ張り、右の袖が持ち上がっていた。私の腕は肘から下しか動かせない。肩と脇の間へ、見えない腕が入っていた。泳ぐ時に腕を大きく回す、その途中へ私が挟まっているのだと、ようやく分かった。ひとかきするたびに、私の上半身は少しずつ左へ運ばれた。

姉の名を呼んだ。一度では届かなかった。二度目は、何を呼んだのか自分でも分からないほど大きな声になった。監視台の男性が顔を上げた。姉も振り返った。私は左手で襟を引き、首を振った。姉がゴーグルを額へ上げた。笑っていなかった。

監視の男性が何か叫んだ。私は立てない、と答えたつもりだった。男は台から下り、近くの別の係員へ腕を振った。姉はもうプールから出ていた。足を拭く所で一度つまずき、手を壁へついた。私はそれを見て、急がなくていい、と言いかけた。見えない胸が重く下がり、ベンチの座面へ私の腿を押しつけた。

骨がきしむというほどではなかった。踏まれた足を誰もどけてくれない時の痛みが、腿全体に広がった。体をねじれば逃げられそうで、ねじるたびに袖が首を絞めた。私はボタンに指をかけた。一つ外すのに手間取り、途中で引きちぎろうとしたが、布は思ったより丈夫だった。呼吸がまた耳へ来た。私の左から右へ、顔だけが戻ってきていた。

通路の扉が開き、姉が来た。濡れた水着の上に、大きなタオルを巻いていた。係員らしい若い女性も一緒だった。
「どこ。痛いの、どこ」
姉は私の胸に手を当てようとした。その手が、胸の手前で止まった。指が何かを避けるように開いた。姉は私の顔を見た。
「これ、あんたの腕じゃないね」
違う、と言うと、姉は黙った。女性はすぐ近くまで来ていたが、手を出さなかった。

「シャツ、脱ぐ」
私が言った。姉は頷いて、下のボタンを外した。私の手をどけ、最後の一つまで開くと、背中へ回った。女性へ、出る所を空けてもらえますか、と頼んでいた。自分の震えを抑えているような、低い声だった。女性は通路の扉を大きく開き、そこへ立った。

左の腕は抜けた。右だけが抜けなかった。袖が肘の所で裏返り、私の手を包んだ。姉は袖口をつかんだが、引かなかった。
「手、握ってる。開いて」
私は開いたつもりだった。指が一本ずつ離れた時、初めて、それまで何かをつかんでいたことが分かった。細い指のようなものが、私の掌からほどけた。泳ぐ腕に挟まれただけではなかった。私の右手を、向こうも握っていた。

袖から手が抜けた。姉が後ろへ一歩下がったので、私もそれを追ってベンチから転げ落ちた。肩が床へ当たり、息が出た。見えない重さは降りてこなかった。姉は私を抱き起こさず、まず両方の脇へ手を入れようとした。私は自分で膝をつき、立った。立てたことが信じられず、足元を見ていた。若い女性が、こちらです、と繰り返した。

脱いだシャツは落ちなかった。ベンチの上、私が座っていた高さで、前を開いたまま横になっていた。右袖がゆっくり伸びた。左袖も伸びた。布の下には体があるはずなのに、開いた前からは座面の傷が見えた。襟はプールの方を向いていた。息継ぎをするたびに、襟だけが横を向いた。

女性が、離れてください、と言った。私にではなかった。通路へ入ってきた年配の男性に向かって言っていた。その人はシャツを見て、何をしてるの、と訊いた。姉が私の背を押した。私は扉の外へ出た。シャツを返してほしいという気持ちが、ほんの一瞬だけあった。朝に私が洗濯機から出して、まだ少し湿ったまま着てきた服だった。襟の折り目も私がつけた。置いていくのが嫌で見ていると、姉が私の肩へ自分の手を回した。

女性は中に残り、男性を私たちの後へ出した。それから壁に手をつけて、ベンチから大きく離れた。シャツが動き出した。袖の先が座面を越え、手すりまで届いた。布が絡むだろうと思った。何にも引っ掛からなかった。両袖が手すりの上へ伸び、胸の辺りが少し浮くと、横になった服は、吹き抜けへ滑り出した。

下で笛が鳴った。短い音が何度も続いた。シャツは落ちなかった。手すりの外で、一度だけ止まった。そこまで来れば足を掛ける物は何もない。空の右袖が後ろへ曲がり、続いて左袖が曲がった。泳いでいた。水面よりずっと高い所を、私のシャツが泳いでいた。

女性が扉を閉めた。見えなくなってから、膝が震え始めた。姉はタオルを外して私へ掛け、自分の二の腕をさすった。下の階から大勢の声が上がってきた。階段を下りようとしたが、女性が、少しここで、と止めた。腰の無線へ何かを伝え、返事を聞いてから、廊下の奥へ私たちを誘導した。

細長い窓の前を通った。上の端だけ開けて換気する窓で、ここからもプールが見えた。姉が足を止めた。私のシャツは、真ん中のコースの上にあった。泳いでいた人たちは端へ寄り、何人かは水から上がっていた。濡れた足がタイルを急ぐ音に混じって、あの呼吸がした。窓の向こうからなのか、私のすぐそばなのか、分からなかった。

「あれ、平泳ぎじゃない」
姉が言った。私はシャツを見た。腕を前へ出し、丸くかいて、また前へ出す。同じことを繰り返していた。姉は私の肘をつかみ、窓から引き離そうとした。今度は本当に姉の指で、爪が食い込んだ。

袖の動きが見えた。両手を前へ出しているのではなかった。肘を曲げ、下へ伸ばし、また曲げる。水面には、誰の頭もなかった。シャツはその何もない場所へ、体重をかけていた。押したあとで、空の襟がゆっくり横を向き、たっぷりと息を吸った。

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