集合場所へ着いた時、もう土の袋は開いていた。美津子は軍手をはめながら、遅くなってすみません、と言った。腕時計では九時の三分前だった。黄色い帽子の女が振り向き、「まだみんな揃ってませんよ」と笑った。その後ろで、煉瓦に腰掛けていた二人の女が、顔を上げずに挨拶した。美津子は名乗り、どこへ入ればいいですか、と訊いた。
引っ越して二か月になるが、部屋の窓から見える坂を、用がなければ上ったことはなかった。坂の途中に帯のような花壇がある。集会所の掲示で植え替えの手伝いを知った時、美津子は曜日を間違えないよう携帯に入れた。退職するまでは朝、会社で誰かに必ず声をかけられた。今は買い物へ行っても、支払いの時に答えるくらいだった。植物のことは詳しくない。せめて土を運ぶ役ならできるだろうと思って来た。
黄色い帽子の女は小坂といった。「ここ、お願いしていいですか」。花壇の下の端を指され、美津子は膝をついた。夏の花を抜いた穴が等間隔に並び、奥には赤紫の丸い花が一列だけ残っている。「こっちは残すんですね」と訊くと、小坂は別の人へ返事をしながら、ええ、と頷いた。丸い花は乾いた紙でできているようだった。一つの茎から二つに分かれ、片方だけが下を向いている。
用意された苗を穴へ置いていく。苗の根は鉢の形に固まり、美津子が手でほぐすと、白い細いものが指に絡んだ。隣の女が、そんなに丁寧にしなくても、と言った。手際の悪さを注意されたのかと顔を上げたが、女は笑って、自分の苗も雑でしょう、と見せてくれた。美津子も笑った。軍手の指先を合わせ、できるだけ隣と同じ速さで土を寄せた。
小坂が花壇の上から下りてきた。「腰、大丈夫ですか」。大丈夫、と答えた時、奥の赤紫の花が、美津子の方へ傾いた。風は上から吹いていた。植えたばかりの苗は坂の下へ揺れているのに、その一本は横へ曲がり、小坂が屈んだのと同じくらい深く頭を下げた。美津子は何となく花にも頷きかけた。花の下に二枚の葉があり、薄い腕を前で組んでいるように見えた。
小坂はどの辺に住んでいるのか訊いた。美津子が下の角の集合住宅を指すと、「ああ、白い塀の」と、すぐ分かってくれた。「坂がきついでしょう。帰り、一緒に下りましょうか」。美津子は、ぜひ、と答えた。小坂は最後まで片づけがあるけれどと断って、また上へ戻っていった。美津子は、それなら片づけまで手伝おうと思った。さっき傾いた花は、こちらを向いたままだった。
苗のトレーを取りに立ち上がると、根元で土が動いた。植えたばかりの苗を踏みかけたかと思い、足を引いた。動いたのは奥の赤紫の花だった。細い茎が根から倒れ、顔に当たりそうな所まで伸びている。美津子は靴の土を煉瓦で落とした。茎は起き上がらない。丸い花の後ろ側に、黒い割れ目が一本あった。近くで見ると、そこは種の入りそうな隙間ではなく、布の襟が開いたように見えた。
美津子はそれ以上覗かず、空のトレーを持って坂を上った。お茶を配る準備が始まっていた。折り畳み机には小さな紙コップが並び、小坂が大きな水筒を傾けている。「美津子さん、冷たいのでいい?」。さっき名乗った下の名前を覚えていてくれたのが嬉しかった。苗の所へ戻る前に、もう一杯だけもらった。二人の女は草むしりの時に腰を傷めた話をしていた。美津子は、私はまだ平気です、と言おうとしてやめた。
元の場所には、赤紫の花が三本倒れていた。土から抜けているのではなく、地面へ押しつけた細い茎が、先の方だけを起こしていた。花の丸い頭は美津子の足元を向いている。隣の女へ、これ、倒しちゃいましたかね、と声をかけた。女は振り向き、「そんなのありました?」と訊いた。美津子は奥の残してある列を指した。女はそこを見て、何か言いかけたが、誰かに名前を呼ばれ、はい、と立ち上がった。
一人になった美津子は、花を起こしておこうと手を伸ばした。茎をつまむと、軍手の先へ何か細い物が食い込んだ。棘のある植物だったのか。すぐに離したが、茎の途中から二枚の葉がこちらへ向き、指の先を挟んでいた。葉の縁はぎざぎざしていなかった。布の袖のように丸く折れ、その中から薄茶色の小さなものが出ていた。美津子が手を引くと、それも引いた。
軍手の指が脱げた。美津子の人差し指だけが、手袋の中で曲がった形になった。葉は空になった指先を挟んでいた。美津子は手首を振った。花は抜けず、茎が曲がった。赤紫の丸い部分が下を向き、細い筋の通った茶色い首が見えた。美津子は軍手を丸ごと脱ぎ、後ろへ尻餅をついた。手袋はその場へ落ち、葉は離れた。小さな首が、ゆっくり元へ戻った。
「すみません、小坂さん」
坂の上へ呼びかけた。小坂は机の向こうで、一人の男から携帯の画面を見せられていた。美津子へ手を上げて、もうちょっと、と口を動かした。美津子は自分で立ち上がった。花のことを大勢へ叫ぶほどの確信はまだなかった。軍手を拾えなかったのは、そこに虫がいるからかもしれない。そう考えながら足元を見ると、倒れていた三本が、土の中を少しずつ進んでいた。
根は切れていなかった。白い糸が地面の下から引き出され、長い弧を描いていた。花の頭が美津子へ近づくと、茎の下で土が盛り上がり、後ろの根が引き込まれていく。急な動きではなかった。美津子が膝をついていた跡を一つ越えるのに、何度も細かく土が崩れた。花の後ろにあったはずの穴が、なくなっていた。美津子は立ったまま、自分の尻餅の跡まで土で埋められていくのを見た。
もう一度、小坂を呼んだ。今度は声が出なかった。正確には、呼ぶ前に唾を飲もうとして、喉がつかえた。口の中が乾いていた。さっきお茶を二杯も飲んだのにと思った。舌に何か薄い物が当たる。唇の端からつまみ出すと、赤紫の小さな紙片が指に載った。花の一枚のようだった。揉んでも潰れず、硬い縁が親指の皮を切った。美津子はそれを落とし、帽子も脱いだ。
坂の上へ行こうとして一歩踏み出した。花が起きた。三本のうち、一番近いものだけが、茎の半ばで直角に曲がった。美津子の右膝も曲がった。痛みはなく、力が抜けたわけでもなかった。誰かが後ろから膝の裏へ膝を当てた時のように、立つ場所をずらされた。転ぶ前に踏ん張ると、今度は左の踵が上がった。美津子は両足を開いた。花の二枚の葉も離れ、軍手の上で開いた。
「ちょっと。どこか、痛いんですか」
隣にいた女が戻ってきた。美津子はその顔を見て、両手を出した。女は手を取ろうとしたが、美津子の掌を見て止まった。右の人差し指の腹に、赤紫の粒がいくつも出ていた。血豆にも見えたが、表面は乾き、擦れ合うと紙の音がした。「虫かしら」。女は自分の軍手を外し、美津子の手首をつかんだ。花の葉が閉じた。女が美津子を引くより先に、美津子の腕が内側へ捩れた。
女は大きな声で小坂を呼んだ。ようやく何人かがこちらを向いた。美津子は女へ、手を離さないで、と言おうとした。顎が下がった。首の後ろで、ぱりっと乾いた音がした。口は開いたが、胸へ押しつけられて言葉にならなかった。目の下に花があった。葉の間には、顔を下げた人の小さな背中があった。二つに分かれた肩の線、襟に隠れた首。あれは花をそう見立てた形ではなかった。着ている物の皺が、一つずつ増えていた。
小坂が駆け下りてきて、美津子の脇へ腕を入れた。「日陰へ。椅子を持ってきて」。美津子の足が地面を離れた。花は土を引いてついてきた。根が煉瓦を越える所で土が散った。小坂はそれを見ず、美津子を花壇の端へ座らせた。美津子は頭を上げようとした。膝の上に載った両手が、自分の物とは思えないほど軽かった。力を入れれば、掌の中で細い筋が折れる気がした。
「聞こえます? 美津子さん」
小坂の手が頬に触れた。温かかった。その人の方を向きたいのに、首が動かない。美津子は靴の先で、近づいてきた花の一本を踏んだ。自分で動かせる場所が、そこしか見つからなかった。花の丸い頭が潰れた。美津子の奥歯の間で、何かが割れた。口から赤紫のものがこぼれ、ズボンの上を転がった。小坂が短く息を吸った。美津子は踏むのをやめた。靴の下にあった小さな頭は、潰れた形のまま、こちらへ起き上がった。
携帯で誰かを呼んでいる声がした。美津子は小坂の袖をつかんだ。指は曲がったが、布を握れなかった。爪のところに丸い硬い物が集まり、指の間へ擦れた。小坂はそれを見て、袖を引いた。逃げたのだろうか。薄い皮が剥がれないように、そっと手を抜いたのだと美津子は思おうとした。けれども、その手が戻ってくる前に、花壇の地面が顔へ近づいていた。
美津子は目を閉じなかった。煉瓦の端が顔より高くなり、朝には見えなかった側面の白い汚れがあった。自分が屈んでいるのだと思った。小坂の靴が大きくなった。靴紐の先の硬い筒が、膝ほどの高さで揺れた。外れて落ちた帽子が美津子を半分覆い、小坂がそれを取った。光が戻ると、そこには見上げなければ目が合わない人たちが立っていた。
土に触れている足が熱かった。右へ動こうとしても、右がどちらなのか分からなくなった。首を曲げた方が前で、他は全部後ろだった。美津子のすぐ脇で、別の赤紫の頭が揺れた。折れたまま起き上がっていた頭だった。首の筋を辿ると、その背中には小さな襟があり、両肩が上がっていた。顔がこちらを向くことはなかった。美津子も同じように肩を上げようとした。頭の重さに引かれて、体が前へ曲がった。
小坂が膝をついた。美津子はその人の名を呼ぼうとした。息が外へ出ていかず、赤紫の硬い物の隙間で止まった。小坂の指が地面を探り、美津子の軍手を拾った。軍手は一つしかない。もう片方をどこで外したのか、美津子は思い出せなかった。小坂は拾った軍手を両手で広げ、中を覗いた。何もないのを確かめても、地面へ戻そうとはしなかった。
さっき手を貸した女が何か言った。小坂は首を振った。顔が見えた。その目は地面を探している。美津子は気づいてほしくて、体を傾けた。隣の花も動いた。奥の列が一斉に同じ方へ倒れ、細い茎が擦れて、乾いた音を立てた。小坂はその音のした方を見た。美津子の頭のすぐ上へ、ためらいながら指が下りてきた。
指は届かなかった。小坂は手を引き、自分の胸元を押さえた。美津子の方を見ているのに、目は合わなかった。美津子はもう一度体を傾けた。根元の土が少しだけ崩れた。小坂は後ずさりし、煉瓦から離れた。朝、美津子と一緒に下りると約束した坂が、その人の背後に続いていた。美津子はそちらを向こうとして、頭の重さを支えた。薄い首の後ろに日が当たり、逃れようのない熱が、少しずつ奥へ染みていった。


コメント