真鍋と同じ部屋で寝るのは、もう無理だと思っていた。いびきのせいだった。昔から大きかったが、年を取るにつれて、息を吐くときだけでなく吸うときにも鳴るようになった。去年の旅行では、僕は夜中の三時に車へ移り、運転席で朝を迎えた。本人には言っていない。眠れなかったと言えば、薬を飲むとか鼻に貼るものを買うとか、その場で対策を考え始める。そこまでさせて、まだ駄目だったとは言いたくなかった。
今年の宿を決めたのも真鍋だった。山歩きのあとに寄る、小さな宿泊施設。四人部屋だが二人でも使え、夕食は付かない。届いた予約画面の写真には二段ベッドが二つ写っていた。僕は別々の部屋がいいと一度打って、送らずに消した。二人きりなのに四人分の広さを使える、と真鍋が喜んでいたからだ。荷物を運び込むと、空いている二つのベッドには寝具が畳んであり、上の段は使わないよう受付で言われていた。
夕方、僕らは近くで蕎麦を食べた。店を出てから真鍋は地図を広げ、明日の尾根道を指で辿った。僕は川沿いの平らな道を歩きたかった。膝が痛いわけではなく、ただ景色を見るために何時間も登りたくなかった。けれど、学生のころ山の会へ真鍋を誘ったのは僕だ。今さらそれを言い出せず、雨なら川のほうでもいいね、と答えた。予報は晴れだった。
部屋へ戻ると、真鍋は下のベッドを一つずつ使おうと言い、入口に近いほうへ荷物を置いた。僕は窓際を選んだ。パイプの枠と薄いマットレスが、壁際へぴったり寄せてある。上段の毛布は、枕の上に四角く載っていた。真鍋が風呂へ行ったあと、僕は椅子をベッドの脇へ引き、携帯で別の宿を探した。近くには空きがなかった。画面を閉じたとき、頭上で布の擦れる音がした。
枠の隙間から見える毛布は、さっきより細長かった。四角い端が少し引き込まれ、反対側が丸く膨らんでいた。真鍋が戻ったら、あれで耳のまわりを囲えば多少は静かになるかもしれないと思った。上段は使うなと言われていたが、毛布を下ろすくらいはよさそうだった。立って手を掛けると、まだ触れていないほうの端が、つま先を伸ばすように動いた。
僕は毛布から手を離した。端は止まった。僕が引いたために、重なった部分がずれたのだと思った。毛布の真ん中に指を入れて持ち上げたが、思ったより重かった。湿っているのでもない。畳んだ布の厚みの中に硬いものがあり、それが横へ転がった。掌へ当たった感触が肘に似ていて、僕はすぐ下ろした。上段の枠が一度軋んだ。
毛布の角に、洗濯済みの印だろう、青い短い糸が結んであった。その角だけを見つめていると、糸はゆっくり枕のほうへ寄った。毛布全体が滑ったのではない。横になった人が冷えた肩へ掛け直すように、片端だけが持ち上がり、中央の膨らみにかぶさった。そこには三十センチほどの長さしかなかった。
真鍋が戻ってきた。髪を拭きながら、風呂の水圧が弱い、と文句を言った。僕は上の毛布を指さし、今あれが動いた、と伝えた。真鍋は眼鏡を掛け直した。半笑いになりかけた顔が、毛布を見て止まった。「何か入ってるの」と訊くので、分からないと答えた。僕にそんな顔をさせるなよ、とも思った。困ったことがあるといつも先に現物を見に行くのは、昔から真鍋だった。
真鍋は梯子を一段だけ上がった。上段へ体を載せず、枠に片腕を掛けて覗いた。「毛布だよね」と言ってから、返事を待たずにその端をつまんだ。広げるつもりらしかった。僕は下から、受付へ訊けばいい、と言った。毛布の端が真鍋の指ごと上がった。中で何かが体を丸めたように見えた。指に挟まれた端とは逆の縁に、膝頭ほどの丸みが二つ、順に浮き出た。
真鍋が梯子から下りた。裸足が床へ着く音が大きかった。「これ、誰かのものじゃないかな」そんなことを言った。何かが入っているかという話をしていたのに、持ち主がいるかどうかに変わっていた。「人がいるの」と僕が訊くと、真鍋は少し怒ったように、そんな薄いとこにいるわけないだろ、と答えた。毛布の厚みは、枕と合わせても僕の手のひら一枚分くらいだった。
受付へ行った。奥から出てきた女性は、上の寝具が動く、と説明する僕を見て、虫でしょうか、と訊いた。違いますと答えても、それ以上うまく言えなかった。女性は部屋番号を確認し、布団の交換ならできると言った。空いている部屋はないとのことだった。真鍋は後ろから、僕が眠れそうにないので、上のを全部出してもらえるかと頼んだ。僕のために頼まれることに腹が立ったが、何も言えなかった。
女性が持ってきた空の台車を廊下へ置き、三人で部屋に入った。上段の毛布は四角く戻っていた。女性は梯子の二段目へ上がり、枕を下から包むようにして寝具を抱えた。僕も真鍋も、すぐには手を出さなかった。毛布は普通に持ち上がった。女性が腕へ載せ直したとき、こちらを向いた折り目が横へ開いた。
折り目の奥には布が重なっているはずだった。僕に見えたのは、何枚もの踵だった。足が並んでいるのではない。一枚の薄い踵の形が、そのすぐ下の同じ形へ重なり、さらに下にも続いていた。肉の厚みがないのに、赤く擦れた皺があった。女性の腕の上で、それらが一つずつずれた。眠っている者が足先をこすり合わせる、ごく小さな動きだった。
真鍋が、置いて、と言った。女性は意味が分からず、ベッドへ戻しかけた。真鍋はもう一度、床へ置いてください、と言った。女性は寝具を床へ下ろした。そのとき顔に毛布の縁が触れ、身を引いた。「温かい」と言った。僕はそれが嫌だった。人の寝ていたあとなら温かくて当たり前だ。そう思わせようとするような、ちょうどよい温かさなのが嫌だった。
床に置いた寝具の横から、枕だけが押し出された。誰の手も触れていない。枕の片隅はしばらく潰れたままで、ゆっくり元へ戻った。女性は入口まで下がった。真鍋が電気を全部つけた。窓ガラスに三人の姿とベッドが映ったが、明るさは何の役にも立たなかった。床の毛布の中に、何かが横向きで寝ている。そのまま布と一緒に何度も折られている。そういう姿勢で眠れるものなのだと思った。
女性は別の職員を呼ぶと言い、部屋を出た。真鍋は枕を避けて僕の鞄を取り、下のベッドへ載せた。「とりあえず風呂行ってきたら。俺ここで見てるから」僕はその言い方にかっとなった。風呂へ行って戻れば、真鍋が片をつけている。いつもそうだと責めかけて、昔から僕がそれを待っていたことを思い出した。宿の予約も、明日の道も、この毛布のことも。
「見てなくていい。俺もここにいたくない」
真鍋は濡れた髪へ手をやった。「そりゃ俺だって、いたくないよ」それならそう言ってくれればよかった、と僕は思った。口にはしなかった。代わりに自分の鞄を取り、まだ使っていないタオルを中へ押し込んだ。ここで寝ることだけは、もうやめようと思った。
真鍋が枕元へ伸ばした手が止まった。彼の薄い寝袋は、下のベッドに広げてあった。いつも宿の寝具の上に敷く、灰色の袋だ。その中央に細い窪みができていた。空のはずなのに、横を向いた背中の線があった。真鍋は入口から目を離さずに、寝袋の端を引いた。窪みがついてきた。マットレスは平らなまま、布だけが横向きの人の形に沈んでいた。
「それ、置いて」
自分が真鍋と同じ言葉を使ったことに気づいた。真鍋は寝袋から手を離した。袋の口が数センチ開いた。内側に見えるのも同じ灰色の布で、頭や顔はなかった。だが、袋の中で何かが反対向きに寝返った。布が床へ落ちかけるほど強く引かれ、パイプの枠に当たった。そのまま落ちずに、胸の前へ布を引き寄せる動きをした。
寝るためにあるものが、使われていた。畳んであっても、狭くても、かまわないのだと思った。真鍋はまだ寝袋を見ていた。一緒に歩いた山で何度も使った、買い替えを惜しんでいる袋だった。僕は返してもらおうと言いかけたが、誰に言うつもりなのか分からなかった。部屋のどこを向いて声を掛ければいいのかも分からない。
二つ目の上段から、さっと布の擦れる音がした。僕らは揃ってそちらを見た。まだ誰も触っていない枕と毛布が、柵の内側へ斜めに移っていた。音の速さに似合わず、動きはひどくゆっくりだった。毛布の端が上がる前から、その端の行く先が目に見える気がした。肩へ掛け、顎の下へ押し込み、もう片方を足に挟む。それぞれの形が一瞬ずつ布に浮かび、少し遅れて本当の折り目がついた。
僕は真鍋の鞄を持ち上げようとした。重くて持てず、本人に持って、と頼んだ。真鍋が鞄を肩に掛けた。扉を抜けるまで、僕らは床の寝具を踏まないように歩いた。頭を跨ぐことだけはしたくなかった。しかし頭がどこかは分からなかった。枕から離れた毛布の一角が膨らんでいて、それを頭と思えば、反対側にも同じ膨らみがあった。
廊下へ出ると、呼ばれた職員の男性が来た。僕らの説明を聞き、女性と部屋の前まで行った。中へ入らないでほしいと僕は言った。男性は入口から床を見て、上の照明を見上げた。何か言いかけて口を閉じ、扉を半分だけ寄せた。ベッドの中から、長く息を吐く音がした。男とも女とも分からない。鼻の奥で詰まっていたものが通るような、気持ちよさそうな寝息だった。
僕は笑ってしまった。声は出なかったが、顔が笑う形になった。今夜も眠れない。真鍋が隣にいると、結局こうなる。そんな卑屈な考えが浮かんで、自分が嫌になった。真鍋は部屋から戻った職員と話していた。料金はいいから休めるところがほしい、と言っていた。僕は横へ行き、二人で座れる椅子があれば、と付け足した。
談話室の照明を残してもらい、朝までそこにいた。自動販売機の紅茶を飲んでいると、真鍋が僕に謝った。安さだけで選んだから、と言うので、それは違うと答えた。実際、値段でこんなことが起きるなら、僕らが昔使ったもっと安い宿はどうなるのか。そう言うと真鍋は少し笑った。僕は、自分はいびきで眠れなくて、次は部屋を分けたかったのだと話した。
「先に言ってくれよ」
それだけだった。対策を考え出すことも、気を悪くしたと告げることもなかった。僕が別々の部屋を提案し、真鍋が聞き入れたら終わる話だった。真鍋は椅子の背にもたれ、眠るなよと言われても無理だよ、と言った。寝ていいと答えた。やがて大きないびきが始まった。僕は腹を立てながら携帯を見た。耳を塞げば少し小さくなる、ちゃんと真鍋のいる場所からする音だった。
朝、鞄を持って受付へ行くと、部屋にはまだ入れないと言われた。寝袋はそのまま置いていくと真鍋が言った。女性は返金の封筒を出し、受け取るよう頼んだ。僕は二人が話すあいだ、廊下の奥を見ていた。昨夜の扉の下から灰色の布が少し出ていた。真鍋の寝袋だと思った。やがて端が部屋の中へ引かれたが、すぐ近くの壁に丸い膨らみが残った。
それは低い位置から少しずつ上がり、壁紙の模様を伸ばさないまま、扉の脇で落ち着いた。壁に肩を預けて眠る人のようだった。僕は真鍋の声を聞きながら、その膨らみが次にどちらを向くかを見ていた。壁は平らに戻り、扉の蝶番が一つだけゆっくり沈んだ。部屋全体が寝返りを打とうとしていた。僕らはこのあとの予定の話をやめ、まだ誰も起きてこない廊下を通って、外へ出た。


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