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窓の縁

征二が洗車場へ車を入れると、茜は客に向ける顔をした。その顔のまま運転席へ歩いてきて、窓の下で父親だと気づいた。
「何しに来たの」
「洗車」
征二は助手席の紙袋を持ち上げた。朝、茜が置いていった弁当だった。茜はそれを見て、ああ、と口を開けたが、手は出さなかった。後ろから別の車が入ってきていた。
「先にこっちへ寄せて。そこで止まらないで」
腕を大きく動かして場所を示した。征二は、分かってる、と答えた。

茜はこの春から、その店で働いていた。学校を出て最初に入った会社は二か月で辞めた。何があったのか、征二には詳しく話さなかった。次を決めるまで家にいればよいと言ったのだが、六月にはここへ通い始めた。
夕食の時、仕事はどうだと訊くと、普通、と返ってくる。普通ならいいのだろうと思う一方、前の会社の時もそう答えていたことが気になった。車を洗う時なら少し長く顔を見られる。弁当を見つけた時、その考えが先に浮かんだことを、征二は妻に言わなかった。

入口には洗車の値段が三つ書いてあった。征二が真ん中を指すと、茜は車を見回し、外だけでいいんじゃない、と言った。
「中も頼むよ。せっかくだから」
「今だと待つよ」
「急いでない」
茜は紙を挟んだ板に何かを書き、別の係員へ声を掛けた。征二のことは父とは言わなかった。
鍵を渡して車を降りると、茜は弁当を受け取った。紙袋の底へ指を当て、冷たい、と言った。
「冷蔵庫へ入れておいたんだ」
「ありがと」
それだけ言って、建物の脇へ消えた。

待合室はよく冷えていた。窓越しに、茜が車へ水を掛けるのが見えた。もう一人、年配の男性が反対側を洗っていた。二人で何か話し、茜が笑った。
征二は携帯電話を見るふりをして、時々顔を上げた。家では、あんな笑い方を最近見ていなかった。前の会社を辞めたことを、ここで誰かに話しているのだろうか。勝手に話されるのは嫌だと思いかけ、それは娘の話だったと気づいた。
泡のついた車は、自分のものとは違って見えた。後部の窓を茜が拭き始めると、征二は画面へ目を戻した。

しばらくして、窓を叩かれた。茜が外から指で呼んでいた。
車の左側へ行くと、後部座席の窓に、細い茶色の筋が残っていた。指を曲げたような形だった。
「これ、前からあった?」
「いや。ないと思う」
「外、何もついてないんだよね」
茜は濡れた布を畳み直し、筋の上を拭った。筋は消えなかった。征二が顔を寄せると、その中に細かな皺が見えた。窓の向こうには、いつもの灰色の座席があった。

「樹液とかじゃないの」
征二が言うと、茜は、触ったら分かるよ、と答えた。指先でガラスに触れた。冷たく、滑らかだった。筋のところにも盛り上がりはなかった。
茜はドアを開けた。開いた角度について、茶色の筋も動いた。征二が中を覗く間、娘は内側から同じ所を拭いた。
「ここも平ら」
布を離したあとで、茜は自分の指を見た。それから窓を下げると言った。

ガラスはいつもの速さでドアの中へ入った。茶色の筋が下の縁へ近づいた時、引っ張られて長くなった。
征二は、待って、と言った。茜の指はもうボタンから離れていた。
窓は半分開いていた。茶色いものだけが、黒い縁の上に残っていた。薄い端がめくれ、その下から、桃色の湿った面が出ていた。ガラスの汚れなら、一緒に下りているはずだった。

茜が年配の男性を呼んだ。男性は隣の車から顔を上げ、手袋を外しながら来た。
「どうした」
「窓、何か挟まって」
男性が屈み、めくれた所を覗いた。征二は、さっきまでなかったんです、と言った。男性がこちらを見ると、また、来るまでは、と付け足した。
茜の口元が動いた。何か言いかけたらしかった。男性は返事をせず、顔を近づけていた。

めくれた端に、短い毛が一本あった。
水を含んでガラスへ張りついていたその毛が、ゆっくり起きた。窓の縁に溜まった水が、桃色の面へ吸い込まれた。
男性は両手を下ろした。
「触らなくていい。離れよう」
茜が一歩退いた。征二には、拭くのをやめるほどの物にはまだ見えなかった。何かの切れ端を挟んだのだろうと考えた。洗車の前から付いていたのか、ここで付いたのか。それをはっきりさせたい気持ちがあった。

征二が手を伸ばすと、茜が、だめ、と言った。
娘の声に重なるように、めくれた端が立った。
下に隠れていた曲線が現れ、内側へ回り込んだ。それは耳だった。大きさだけなら、大人の耳ほどだった。耳たぶに当たる丸い所が、窓の縁へ押しつけられていた。
征二の指は触れずに止まっていた。耳の穴が、その指の方へ向いた。ガラスとドアの間には、人の頭が入る隙間はなかった。

「何これ」
茜は男性に訊いた。男性は首を振った。
征二も後ろへ下がった。ドアは開いたままだった。車内には誰もいない。濡れた布が後部座席の上に一枚置いてあった。
茜がそれを取ろうとすると、男性が名前を呼んで止めた。彼は征二へも離れるように言った。強く叱る声ではなかったが、従わずに済む調子でもなかった。
征二は、その人の名札を初めて読んだ。長田と書いてあった。

茜が、窓、上げた方が、と言った。長田はボタンへ手を伸ばさず、首を振った。
耳の後ろが膨らみ始めていた。首や頬が出てくるのかと思ったが、同じ皺のある面がさらに開いた。内側から別の耳が出たのではなかった。一つの耳が、ドアの横幅ほどに伸びていった。
上の端がガラスから離れた。日が裏側を透かし、赤い線が何本も見えた。征二はそれを血管だと思った。思った途端、夏の日差しで温まった自分の耳がむずむずした。

隣で水を止める音がした。別の係員がこちらを見ていた。
長田が、車を入れないで、と言った。店の前で待っていた客が窓から身を乗り出しかけ、係員に誘導されて、道路の方へ戻っていった。
茜はまだドアの前にいた。足元を濡らしていた水は流れ去り、コンクリートの細かい砂が見えていた。耳だけが濡れていた。窓の下から、ゆっくり、内側へ向けて折れ曲がった。
車に耳がついたのだと考える方が、見たままの形に近かった。征二には、それを口に出せなかった。

「茜、こっち来い」
征二が呼んだ。
娘が顔を向けるより先に、耳の上端がこちらへ傾いた。ドアは動かなかった。大きな薄い面が、征二へ正面を向けた。
耳の奥に、窓の下りた縁が見えていた。黒いゴムも、濡れた金属もあった。その手前に深い窪みがある。穴の奥を見ていると、ガラスのあるはずの位置が分からなくなった。
茜は征二の所へ来ず、長田の後ろへ下がった。

長田が建物の方を指した。三人で待合室の入口まで戻った。
征二はそこで茜の肩へ触ろうとし、娘が身体をよけるのを見た。
「服、濡れてるから」
茜はそう言った。制服の肩は濡れていなかった。征二の手にも水はなかった。出した手をポケットへ入れようとして、途中で下ろした。
長田が別の係員と話していた。何を呼べばいい、と相手が小声で訊き、長田は少し考えてから、人が近づかないようにして、先に電話、と答えた。

待合室には小さな子供を連れた女性がいた。係員に言われて外へ出ようとし、征二たちの顔を見ると、子供を抱き上げた。征二は道を空けた。
ガラス戸の外に、車の屋根が見えていた。耳の上端が、その上へはみ出していた。風に煽られているのではなかった。風が止んでも、同じ速さで前へ傾いた。
もう一度、娘の名を呼びたくなった。声を掛けてはいけないのだろうか。そう考えたが、長田もほかの係員も話している。耳が何を聞いているのか、何も分かってはいなかった。

茜は店の電話のそばへ行き、長田に車の番号を伝えた。征二が覚えていた数字を言う前に、娘は最後まで答えた。
長田が頷き、受話器へ向かって、窓の所です、と話した。
茜は濡れた両手をズボンの横へつけた。爪の脇に黒いものが残っていた。子供のころ、絵の具で汚した指をそのように拭いて、征二に叱られたことがあった。今、そうするなとは言えなかった。

「帰ろう」
征二が小声で言うと、茜は父親を見た。
「車、動かせないでしょ」
「車はいいから。迎えに来てもらって」
「私、ここで働いてるんだけど」
すぐに返ってきたので、征二は言葉に詰まった。危ないのだから帰ってよいだろうと思った。妻へ電話を掛けようと出した携帯を、そのまま握っていた。茜は、何もしていないはずなのに、先ほどから何度も手を拭っていた。
茜は窓の方へ一度目をやり、唇を強く結んだ。

長田が電話を置いた。奥へ移るよう言った。車から離れた所に、もう一つ事務室があるという。
征二は、娘も、と言いかけた。
「全員、奥です。店、閉めますから」
長田が先に言った。茜は頷いて、待合室の戸に手を掛けた。
「そこはそのままでいい」
長田の声で、手を離した。鍵の束を持った係員が来たが、長田は戸を閉めることより、入口の向こうに人が残っていないかを見ていた。

建物の脇を回る時、征二は自分の車を横から見た。
大きな耳は、窓へ戻りかけていた。小さくなったのではなかった。薄い上端から丸まり、ガラスの縁と平行に巻き込まれていた。厚い耳たぶだけが最後まで残り、黒いゴムの上を滑った。
窓の筋はまだ見えた。来た時と同じ車へ戻ったようだった。
征二が足を緩めると、前を歩いていた茜も止まった。
「お父さん」
名前を呼ばれた車のように、運転席の窓に茶色の曲線が浮いた。

征二は走らなかった。走れば茜を押しのけるほど道が狭かった。前を向き直り、娘の後ろを歩いた。靴の中へ水が入っていた。いつ、どこで濡れたのか分からなかった。
事務室へ入ると、茜は椅子を一脚引き出した。征二を座らせ、自分は入口のそばへ立った。長田が人数を数え、外から戻った係員に、もう誰もいないね、と確かめた。
ドアを閉める前に、薄いものが擦れ合う音がした。道路を通る車の音に混じり、一度長く続いた。征二は娘を見た。茜も聞いていた。入口へ半歩寄りかけて、長田と目を合わせ、その場にとどまった。

壁際の冷蔵庫の上に、弁当の紙袋があった。
茜が冷蔵庫を開けると、長田のらしい大きな容器と、飲み物が何本も入っていた。娘は袋の底を支え、空いている所へ自分の弁当を入れた。
「お父さん、お昼は」
征二は、まだ、と答えた。茜は袋から箸を出し、自分のポケットへしまった。
「あとで何か食べて」
食べて帰れという意味なのか、一緒に食べるつもりなのか、征二には分からなかった。訊こうとした時、閉まったドアの向こうで、水の落ちる音がした。
室内の誰も、話の続きを急がなかった。

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