受講者が帰る前に、綾乃は空になった皿を撮るつもりでいた。料理だけなら家でも撮れる。六人が作って、六人が食べ終えたところを、休んでいる先生に見せたかった。携帯電話を窓際に伏せて置き、盛り付けに使ったスプーンを布巾の上へ戻した。鶏肉の煮込みは少し汁が多かったが、焦げたところはなかった。
月に二度の料理教室で、綾乃が前に立つのは初めてだった。先生が足を痛め、来月の予約が取れなくなるから一回だけ頼みたい、と電話をしてきた。十年以上通っている上野さんもいるから大丈夫だと言われた。その上野さんは、綾乃が材料費の説明をしているあいだに人数分のまな板を出し、肉の皮を嫌う人がいることも、小さい鍋の蓋が閉まりにくいことも教えてくれた。助かった。休憩のときに手順表を直している綾乃へ、急がなくていいよ、と言ったのも上野さんだった。
出来上がったものを並べてから、綾乃は一人だけ箸を取らないことに気づいた。上野さんの前には煮込みと麦ご飯が揃い、ほかの五人の茶碗からは湯気が薄くなり始めていた。「味、濃かったですか」と尋ねると、まだ食べてないの、と上野さんは笑った。胸の前で揃えた指が、エプロンの紐を撫でていた。
「じゃあ、少し冷めてから」
「うん。みんな先に食べて」
綾乃は自分の椅子を引いた。上野さんは前回まで、誰より先に味見をして先生と塩加減の話をする人だった。最近一人になった、と準備中に聞いた。亡くなったのかと思って曖昧に頷いたら、亭主が出ていったんだよ、と本人が言い足した。それ以来、綾乃は上野さんへ何を言っても、余計な慰めに聞こえる気がしていた。
隣の女性が、肉が軟らかい、と言った。綾乃も鶏肉を一切れ口に入れた。熱くはなかった。飲み込むときに、奥歯のあいだで小さく殻が割れた。肉に骨片が残っていたと思い、舌で探った。何も触れない。唾を飲むと、また同じ場所でぱり、と割れた。向かいの男性がきゅうりの漬物を噛んでいた。綾乃の皿にきゅうりはない。
男性が箸を休めて茶を飲むと、音はしなくなった。綾乃は頬の外側から奥歯を押した。痛みもなかった。調理室には硬い音がよく響く。天井から吊った蛍光灯の紐まで、誰かが席を立つたびに震えた。机を囲んで食べるのは久しぶりだね、と上野さんが言った。自分の箸は紙の袋から出していなかった。
綾乃の隣の女性が咳をした。大丈夫ですか、と綾乃が身を寄せたところで、自分の舌に強い胡椒の味が広がった。煮込みには入れていない。各自で振るよう机の端に瓶を置いていた。その瓶を握った男性が、出過ぎた、と小皿へ肉を移していた。喉を刺すほどの辛さだった。綾乃が口を押さえると、隣の女性も同じように口を押さえていた。
「辛いの、私だけじゃないですよね」
女性の問いに、綾乃は返事をする前に上野さんを見た。長くここにいる人なら、何か説明ができる気がした。上野さんは首を傾げ、手を伸ばして胡椒の瓶を男性から受け取った。口の穴が大きいほうへ回っていた。「これ、蓋を全部取らなくていいのよ」そんな注意をしてから、上野さんも一度だけ咳をした。
綾乃は人数分の水を汲もうと立ち上がった。自分の肉に胡椒がついたならまだ分かる。鍋を間違えたのか、盛り付けの順はどうだったかと考えながら、流しに並べたコップへ手を伸ばした。そのとき、左の頬を内側から柔らかいものが押した。舌を出した覚えはなかった。口の中に入れた自分の舌は、下の歯の裏にきちんと収まっている。それとは別の、幅の広いものが頬の肉をゆっくり押し上げていた。
振り向くと、みんなが黙っていた。上野さんの顎が動いた。食べていないのに、煮込みを味わうように何度も動いた。斜め向かいの女性の頬にも、綾乃と同じ場所に膨らみができていた。誰かが皿に箸を落とした。綾乃はコップを手放した。一個だけ流しの中で回り、底を上にして止まった。
「いったん、食べるのをやめてください」
やっと言えた声が、自分の喉より下で響いた。胃のほうまで筒になっているような声だった。男性が口の中のものを出そうとして、紙ナプキンを開いた。その一瞬、男性の下唇の奥に歯が見えた。本人の歯列のもっと後ろに、黄色みのある大きな歯が横へ並んでいた。喉の幅には入らない。白い上着の女性が男性の肩へ触れかけ、その手を引っ込めた。
綾乃は椅子の背を掴んだ。男性が口を閉じると、奥の歯も見えなくなった。隣の人が息を吸うたび、綾乃の上顎に冷たい風が当たった。自分は鼻で息をしていた。男性の握るナプキンは白いままだった。噛んだ肉は出てこなかった。「吐けない」と小さく言って、男性が喉元をさすった。その指の動きと同じ速さで、綾乃の喉にも下向きの圧迫が走った。
上野さんは席を立ち、綾乃に代わって棚から大きなボウルを下ろした。「無理に飲み込まなくていいからね」と言いながら、男性の前に置いた。嘔吐するときに背中をさする人の口調だった。男性はボウルを両手で持ち、下を向いた。上野さんが背中へ掌を置くと、綾乃の背中には何も起きなかった。それをありがたいと思った直後、男性の開いた口から長い音がした。
大勢が一緒に熱いものを冷ましているような音だった。綾乃の前髪が額に張りついた。生ぬるい息が、机の下から頬へ昇ってくる。誰も咀嚼していないのに、調理室のあちこちで噛む音がした。あごの関節が擦れる、湿った小さな音だった。窓の外では、ゲートボールの球を打つ音がしていた。その乾いた音だけが遠かった。
「ごめんね、食べたくなくて座ってたんじゃないんだよ」
上野さんが綾乃に言った。ボウルを持った男性を見たまま、早口で続けた。「朝は食パン半分いけたの。ここなら食べられると思って。見てるだけでも、今日はいいと思ってたんだけど」綾乃は頷きかけた。それはちゃんと聞くべき話だった。しかし、今聞きながら頷けば、この食卓を続けてよいことになる気がした。
「上野さんのせいだなんて、誰も言ってません」
言ってから、せい、という言葉を自分が初めて持ち出したことに気づいた。上野さんは唇を結んだ。その下で顎だけが横へずれ、戻った。本人が噛もうとしている動きには見えなかった。「顎、おかしいですね」と綾乃が言うと、上野さんは両手で頬を挟んだ。すぐ綾乃の歯も、左右から強く押された。
頬から手を離してほしいと頼むことができず、綾乃は自分の口を押さえた。唇の裏側に、ざらついた指の腹が触れた。指は外側にある。爪の先も歯に当てていない。それなのに内側から、別の指が唇をめくろうとしていた。上野さんが手を下ろすと、歯への圧迫だけが消えた。綾乃の口の中には、まだ指がいた。
廊下で台車の車輪が鳴った。管理人が回収用の箱を運んでいる。綾乃はそちらへ行こうとして、机の角へ腰をぶつけた。エプロンのポケットが椅子の背に引っ掛かった。ほどこうと下を向くと、靴の間の床に影が揺れていた。蛍光灯の下にいる人の影ではなかった。歯の隙間から洩れるような、細い明暗が何本も床を横切っていた。
上野さんがポケットを外してくれた。何も言わず、引っ掛かった布を椅子から持ち上げた。その指が普通の手つきだったために、綾乃は泣きそうになった。上野さんを疑っている自分がいた。食べていないことも、ここなら食べられると思ったという言葉も、何かを連れてきた人の言い分に聞こえ始めていた。同じ人が、さっきから困った人の背をさすり、今も裾をほどいてくれている。
綾乃が廊下へ出ると、口の中が急に乾いた。胡椒の味は残っていたが、内側の指は触れなくなった。管理人の名前を呼んで、調理室で具合の悪い人がいる、と伝えた。食品で何かあったかもしれない、と言い足したところで、違う、と自分の声が漏れた。説明ができない。管理人は台車を脇へ寄せ、電話を取りに行った。綾乃はその背中へ、全員を部屋から出したい、と言った。
入口から呼ぶと、白い上着の女性が最初に来た。口を固く閉じ、両腕を胸に抱えていた。続いて二人が出てきた。全員が出れば済むと期待して、綾乃は室内を見た。男性がボウルを抱えたまま座っていた。もう一人の女性が、その隣で皿を片づけ始めていた。混乱すると洗い物をしてしまうのは、綾乃にも覚えがある。「置いてください」と大きめに言った。女性は皿を重ねたまま、困った顔をした。
上野さんが、今日は片づけなくていいって、とその人に言った。言いながら、空の皿を一枚手に取った。自分でも気づいたように手を止め、皿を戻した。皿が台に触れた音が、綾乃の口の中でした。綾乃はまた敷居を越えていた。一歩下がった。すぐに音は遠ざかったが、次に上野さんが何かを飲み込んだのが見えたとき、自分の喉は廊下にいるまま動いた。
ボウルを抱えていた男性が、ゆっくり立った。誰も口を開けていない。椅子を戻すために腰を曲げた男性の背中を、綾乃は止めるように見つめた。もうそのままでいい。言おうとした唇に、温かいものが触れた。誰かが綾乃に食べさせようとしている。柔らかく煮えた肉だった。皿から取り分けたばかりの、太い繊維がほぐれていく鶏肉。綾乃は歯を食いしばったまま首を振った。
上野さんが最後に来た。綾乃の携帯電話を窓際から持っていた。「これ、あなたのでしょ」渡す声は掠れていた。綾乃は受け取って画面を伏せた。空になった皿は一枚も撮れなかった。上野さんは入口で足を止め、顎の下を指で撫でていた。「お腹だけは、いっぱいなのよ」と言った。その人の胃の中で何が起きたのかを、綾乃は想像しかけてやめた。
管理人が持ってきた椅子に皆を座らせ、綾乃も電話で問われることへ答えた。鶏肉を何時に買ったか、誰が最初に不調を訴えたか。用意した手順表の裏に時間を書こうとしても、咀嚼の音がした時刻が思い出せなかった。六人の名前を書いたところで、上野さんが七人よ、と訂正した。講師を人数から抜いていた。自分の椅子も、あの机を囲む一脚だった。
綾乃は先生へ電話をかけなかった。先にこちらの人へ話してください、と管理人に促され、来た救急隊員に自分の口を開いて見せた。ライトが舌を照らした。大きな歯は見えなかったらしく、隊員は別のことを尋ねた。綾乃にも、今は自分の舌しか感じられなかった。上野さんは少し離れた椅子に座り、渡された袋を膝に広げていた。二人の目が合った。綾乃が隣へ移ると、上野さんは袋の端を片手で寄せ、椅子一脚分の場所を空けた。
調理室の扉は開いていた。食卓の真ん中に残った煮込みの鉢が、ここからは横長に見えた。その縁に、一切れの肉が載っていた。誰かが箸で摘まみ損ねたような置かれ方だった。見ていると、肉が鉢の内側へ少しずつ引かれた。こぼれた汁は動かなかった。綾乃は上野さんの顔を見た。口は閉じている。ほかの五人も、今は何も食べていない。綾乃は唾を飲み込まず、隣の上野さんの手を握った。開いた扉の奥で肉が一切れ消えた。二人とも口を閉じていた。握った手に力が入り、綾乃の顎が一度だけ動いた。


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