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振らなかった方

打ち返すつもりで上げた右腕を、私は途中で止めた。隣の台から球が転がってきて、足の間を抜けたからだった。
「すみません」
向こうの若い男が言い、台の端を回ってきた。私と打っていた人は、球を左手に持ったまま待っていた。
その手の下で、乾いた音がした。白い球が一つ、私の胸へ飛んできた。私は避け損ね、腹へ当てた。軽いはずのものが、みぞおちに硬く響いた。

卓球をしたのは、二十年ぶりだった。会社で一緒に昼を食べていた人が退職してから、昼休みが長くなった。食べ終わっても十二時二十分だった。机に戻ると電話を取ってしまう。それが嫌で商店街を歩くようになり、薬局の二階の窓に、昼の個人利用、と貼ってあるのを見つけた。
学生のころ、上手かったわけではない。ただ、部活の連中が帰ったあとの体育館で、友人と打っているのは好きだった。勝敗をつけずに済む遊びがあることを、その時初めて知った。
土曜日に靴を持って行った。階段を上がる途中、ラケットを持っていないことに気がついた。

受付の女性が引出しを開ける前に、窓際から声がした。
「それ、端が剥がれてるやつじゃないですか」
スポーツバッグを開けていた男性だった。三十代の終わりくらいに見えた。女性が、まだ使える、と言うと、男性は自分のバッグからもう一本出した。
「よかったら。今、相手いないんで」
坂口と名乗った。私は借り物を傷めるのが嫌だったが、受付の安いものを選び直すのも悪い気がして、頭を下げた。
「久しぶりなんです」
「僕も先月からです。ここは」
卓球そのものは久しぶりではなかった。球は、私が少し左右へずれても、手の届く高さへ返ってきた。

坂口さんは、強く打ちませんかとも、もっと腰を落とせとも言わなかった。それが有難かった。時々、私が高く返した球を、ぐっと腕を引いて待つ。その形になると、私は身構えた。けれど坂口さんは角度だけを変え、柔らかくこちらへ送った。
「打ってくれていいですよ」
私は途中で言った。相手が合わせているのを知らない人だと思われたくなかった。
「いきなりやると、僕の方が肩やるんで」
坂口さんは笑った。教える言い方ではなかった。次の球が来たので、私も打った。それで話が終わるのが、久しぶりに気持ちよかった。

三台あるうち、真ん中を使っていた。窓際ではさっきの若い男が父親らしい人と打っていて、入口寄りには誰もいなかった。台の間は青い低い囲いで分かれていた。何度か球がそこを越え、そのたびに誰かが拾い、短く頭を下げた。
私が右へ大きく返した球も、囲いの脚に当たった。坂口さんは追わずに手を振った。足元に転がっていた別の球を、私が先に拾った。
黒い印も店の名前もなかった。少し黄色がかっていて、爪で押したような窪みがあった。
「それで大丈夫です」
坂口さんは遠くからそう言った。私が妙に丁寧に回して見ていたせいだろう。

その球でしばらく続けたあと、隣から球が転がってきた。私は腕を止めた。坂口さんも打っていなかった。それなのに胸へ来た。
床を跳ねた球を若い男が取ろうとしたので、私は、そっちじゃなくて、と言った。自分の腹を押さえながら言ったせいで、彼はひどく恐縮した。
「当たりました? すみません」
「いや、あなたのじゃないんです」
彼は頭を下げて、自分の球を拾って戻った。坂口さんが台の向こうから、平気ですか、と訊いた。
「今、どこから」
「見てなかった。そっち、取ってもらったと思って」
左手の中にはまだ白い球があった。窪みのある球だった。坂口さんが取ったのを、私は見ていなかった。

足元に落ちた方を探した。囲いの布の下にも、私の靴の後ろにもなかった。
「あったやつ、使いましょう」
坂口さんが言った。こちらへ球を転がし、台の縁で私が受け止めるのを待った。窪みに触れると、表面は乾いていた。
自分の側で一度弾ませ、打った。球はネットへ当たって戻った。
笑って拾おうとした時、ネットの向こう側でも音がした。
白い球が、坂口さんの右手の前へ落ちた。坂口さんは取ろうとせず、その上へ左手をかざした。球は指のすぐ下で横へ飛んだ。私のラケットへ、正面から当たった。

腕が後ろへ持っていかれた。強い球だった。坂口さんが打つところは見ていない。右手は脇へ下げたままだった。
「今の、打ちました?」
訊くと、彼はラケットを台へ置いた。
「打ってない」
笑ってはいなかった。私は、では何なのかと訊かなかった。坂口さんが隣の台を見るのに合わせて、私もそちらを見た。若い男は水を飲んでいた。父親らしい人は、受付の女性と話していた。

坂口さんがこちらへ回ってきた。ネットに引っ掛かった球を、私の方から取った。自分が打とうとした球だと分かる窪みがあった。
「これでしたよね」
私は頷いた。みぞおちへ当たった方は見つかっていない。それを伝えようとした時、坂口さんの手の中で球が鳴った。
指が少し開き、白いものが落ちた。床に触れる直前で、真横へ動いた。
坂口さんの靴に当たると思った。球はその先で一度低くなり、何もないところから斜め上へ返っていった。硬い板へ打ちつけた時の音だった。
私たちは二人とも、同じ側に立っていた。

「すみません。ちょっと来てもらえますか」
坂口さんが受付へ声を掛けた。
女性は机の下から腰を起こし、私たちを見た。台の脚が緩んでいるのか、と言いながら歩いてきた。坂口さんは説明を始めたが、球が、球が、と同じ言葉を二度言って止まった。
私は借りたラケットを差し出しかけた。見てもらうものはこれではなかった。
その時、握っていた手が、内側へ捩れた。

柄から手を放すと、ラケットは落ちずに、腹の前で横になった。赤い面が上を向いた。何かに当たったのではなく、下から押され続けているようだった。私は一歩退いた。
女性が、手、離してますよね、と訊いた。返事をする前に、ラケットが横へ走った。
台の縁へ当たり、床へ落ちた。音が二つした。木の部分がぶつかった低い音と、そのすぐ前に、球を打った軽い音がした。

坂口さんはラケットに手を伸ばし、途中でやめた。
私は、弁償します、と言った。
「そうじゃなくて」
坂口さんは屈んだまま、私を見た。
「腕、大丈夫ですか」
右手を開いた。親指の付け根に赤い筋ができていたが、動いた。動くことを見せたくて、何度も開いて閉じた。
「持ってなかったんです」
女性に言った。彼女は、見てました、と答えた。その返事を聞いても、何かもう一つ証明したかった。坂口さんの物を床へ投げたのではないと、本人に思ってほしかった。

隣の男が、囲いのこちら側へ顔を出した。父親らしい人も後ろへ来ていた。
女性が二人を入口側へ下がらせた。まだ時間が、と若い男は言いかけたが、床のラケットを見てやめた。赤い面の真ん中に、丸い窪みができていた。球が載っているのではなかった。表面だけが、ゆっくり押し込まれていた。
坂口さんが息を吐いた。
「拾わないで」
私に言ったのだと思った。私は何もしていなかった。彼自身の手が、膝の先へ出ていた。

私は自分の腕を見た。さっき止めたのと同じくらいに、肘が曲がっていた。
打とうとしてやめた動きが、遅れて来るのではないかと思った。球に手が届かずに振らなかった時、相手の胸へ当てそうで手を引いた時。あの辺りに、打つつもりのものだけが残ったのではないか。
その考えを言いかけると、坂口さんは首を振った。
「僕、あんな持ち方、しないです」
床のラケットが持ち上がりかけていた。柄が先に立ったのではない。赤い面の端が折れ、床に触れた部分が爪先のように曲がった。

木が割れる音で、私は肩をすくめた。
薄い板なのに、一度では折れなかった。赤い面が内側へ閉じ、黒い面が外へ張り、柄がゆっくり床を擦った。坂口さんは自分の手を胸元へ寄せた。誰もそんな握り方はできなかった。
ラケットの間で、白いものが一瞬見えた。球だったかどうか、分からなかった。丸いままではなく、薄く押し潰され、裂けた木の間へ入っていた。

女性は隣の台の囲いを寄せようとした。
「そこ、触らない方が」
坂口さんが止めた。女性は持った枠をその場へ置き、入口に近い方だけを動かした。私たち三人と、真ん中の台との間が塞がれた。
若い男たちは靴を履き替えていた。父親らしい人が坂口さんに、警察か、と訊いた。
「分からないです。人に当たったんで」
私の腹を見た。痛みはもう薄くなっていた。大丈夫だとまた言いそうになったが、黙っていた。平気だと言うたびに、この場を終わらせてよい理由を増やしている気がした。

台の脚の下で球が跳ねた。
誰も拾わなかった。囲いの向こうへ転がり、途中で跳ね方を変えた。低く二度、次に台の上まで上がった。ネットの真下へ白い影が映った。台へは落ちず、向こうの縁を越えた。
私は出口を見た。受付の横へ抜ければ、何もまたがずに靴の所まで行ける。
坂口さんのバッグは窓の下にあった。その口から、別のラケットの柄が出ていた。

「取ってきます」
言ってから、何を取りに行くのか指した。借りた物を壊して、さらに自分だけ帰ることはできなかった。
坂口さんは私の前へ手を出さなかった。
「いいです。後で」
「でも、中に財布とか」
「靴んとこにあるんで」
坂口さんは少し強く答えた。私がバッグを見ると、彼も振り返った。彼の右手はまだ胸の前にあった。
私は、すみません、と言って下がった。

受付の女性が電話で店の住所を伝えていた。私たちの名前も訊かれた。順に答えると、急に、ここへは初めて来たのだったと思い出した。坂口さんだって、先月から通っているだけだった。床のどこかにこの球を止める場所があると、知っている人ではなかった。
「高いやつだったんですよね」
私は小さな声で言った。坂口さんは、まあ、と答えた。
「借りるんじゃなかった」
「貸す時は普通だったでしょう」
彼は私を見なかった。窓際のバッグを見ていた。その言葉で慰められたようには感じなかった。壊れた物の代金を話せば、元の遊びの続きを話せると思っていた自分が恥ずかしかった。

受付の横で靴を履き替えた。右手が少し震え、紐を結ぶのに時間がかかった。坂口さんは立ったまま待った。階段を下りる前に、女性へ連絡先を渡した。借りたラケットのことは言わず、当たったのは私です、と伝えた。
坂口さんも自分の番号を書いた。ペンを置く時、奥で球の音がした。彼の手が止まった。
私も聞いた。同じ音だった。よく返ってきていた時の、二人で打つ間隔ではなかった。二つの音の間に、人が腕を引き戻すだけの間がなかった。

階段を二段ほど下りたところで、坂口さんが引き返した。私は名前を呼んだ。
「荷物じゃないです」
踊り場からそう答え、受付へ、上がってくる人がいたら止めます、と言った。
私は彼の隣へ戻った。すぐ下で薬局の戸が開き、買物袋を持った女の人が出ていった。階段を上がる人はいなかった。
床に置いてきた自分の室内履きを思い出したが、取りには戻らなかった。上では時々、乾いた小さな音がした。その合間に、一度だけ、木の裂ける長い音が続いた。坂口さんは聞き終えるまで、階段の手すりを見ていた。

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