小学三年の夏休みを、私は伊奈町の祖父母の家で過ごした。
母は上尾の病院で夜勤をしていた。
父は名古屋に単身赴任中。
一か月まるごと子どもを預けるのは気が引ける、と母は何度も口にする。
それでも、他に手がなかった。
祖父母の家は小室の畑の中にある。
ニューシャトルの志久駅から歩いて十分間ほど。
庭の先に畑が広がり、畑を挟んで五百メートルほど先に、黒い木の帯が横たわっている。
無線山だ。
昔、あの森の上に外国の電波を受ける受信所があったらしい。
じいちゃんは若い頃、そこで働いていたという。
耳が遠いのは受話器を一日中当てていたせいだと、ばあちゃんは言う。
本当かどうかは知らない。
奥の間の鴨居の上に、古い写真が一枚飾ってある。
背の高い鉄塔と、黒く塗られた木の柱が何十本も並ぶ写真だ。
その手前に、若い男の人が何人か立っている。
どれがじいちゃんかは、教えてもらえなかった。
家には黒電話が一台あった。
廊下の突き当たり、窓の下の電話台に乗っている。
窓からは畑と、無線山の木の帯が見える。
廊下は板張りで、朝はひやりと冷たい。
歩くと必ず、足の下で板がぎしりと鳴る。
従兄のたか兄も、同じ夏をこの家で過ごしていた。
中学一年。
私とたか兄は、玄関脇の六畳に布団を並べて寝る。
扇風機が一台、首を振っていた。
たか兄は買ってもらったばかりのスマホを、枕元から離さない。
母との約束が一つあった。
夜勤の休憩は朝の四時過ぎに入る。
その時間に電話をかけるから、鳴ったら出てほしい。
ばあちゃんは四時前には畑に出てしまう。
じいちゃんには、鳴っても聞こえない。
「あんたが出てくれると、安心して朝まで働けるから」
母はそう言った。
私は胸を張って頷く。
頼られて、背が少し伸びた気がした。
母の夜勤は週に二、三回で、その晩の明けだけ電話が鳴る。
ばあちゃんからは、別のことを言われた。
「じいちゃんは急かす時に、黙って背中を押すからね。驚かないで」
人を呼ぶ代わりに、平たい手のひらで背中の真ん中をぐっと押す。
耳が遠いと、声を出すのも面倒になるらしい。
実際、その夏に何度かやられた。
手は厚くて、乾いていて、少し硬い。
最初に変な音がしたのは、着いて三日目の明け方だった。
ベルの音で目が覚める。
枕元の時計は四時二十分。
障子の向こうが灰色に明るんでいる。
たか兄は隣で寝息を立てていた。
私は布団を抜け出し、廊下を走る。
足の裏に、板の冷たさが貼りつく。
受話器を取った。
もう温かい。
耳に当てる方も、口に当てる方も、人の手の温度になっている。
「もしもし」
返事の前に、音があった。
さらさらと、乾いたものが擦れる音。
風が木の葉を撫でる時の音に近い。
枯れ葉を手で揉んだ時の音にも近い。
それが数秒続いて、ふっと消えた。
「もしもし、起きてた?」
母の声だ。
いつもの、少し疲れた声。
「変な音がした」
「音? こっちは何もないよ」
母は二分ほど話して切った。
ちゃんと食べているか。
たか兄と仲良くしているか。
それだけだ。
じいちゃんが使った後なのだろう、と思った。
奥の間からは、いびきが聞こえていたのだけれど。
畑から戻ったばあちゃんに、音のことを話した。
「ああ、朝方はね。昔から混線するの」
ばあちゃんは手を洗いながら言う。
この家の電話は、じいちゃんが受信所にいた頃から朝方に調子が悪いらしい。
じいちゃんに聞くと、箸を止めて畑の向こうを見た。
「朝はよく入るんだ」
それだけ言って、また味噌汁をすすった。
遠い国の声は、朝方が一番よく届いたらしい。
受信所で働いていた頃の話は、いつもその一言で終わりになる。
その日の昼、たか兄が無線山に連れて行ってくれた。
畑の道を志久駅の方へ回り込む。
薬科大学の建物を横に見て、乗馬クラブの柵を過ぎると、森の入り口に看板がある。
緑のトラストの保全地だと書いてあった。
散策路から外れて入ってはいけない、とも。
入ってすぐ、空気が変わった。
日差しが葉に遮られ、首筋の汗が引いていく。
コナラの幹が何本も立ち、上の方で葉が重なっている。
土の匂いが濃い。
少し歩くと案内板があった。
受信所の名前と、できた年と、なくなった年が書いてある。
たか兄はスマホで案内板を撮った。
鴨居の上の写真と見比べるのだという。
「じいちゃん、ここにいたんだって」
「らしいね」
写真の鉄塔は、今の木より高い。
その奥に桜並木がある。
春は花見客でいっぱいになる場所だ。
夏の今は葉が黒いほど濃い緑で、幹は太くてごつごつしている。
根が散策路に盛り上がり、何度もつまずいた。
たか兄は歩きながらスマホを構え、友達に送るのだと言って並木を撮り続ける。
私も一枚撮られた。
ロープの張られた先には入っていない。
たか兄が「あっちは駄目」と言ったからだ。
理由は聞かなかった。
帰り道、たか兄がぽつりと言った。
「無線山、夜は行くなよ。よくない話があるから」
どんな話かは、教えてくれない。
その夜、布団の中で何度か聞いたけれど、寝たふりをされた。
二度目は、その翌々日。
ベルで起きた。
時計は三時五十分。
障子はまだ暗い。
青みがかった黒だ。
母にしては早い。
それでも私は廊下へ出る。
出なければ、母が心配する。
廊下の突き当たりで、受話器のコードが揺れていた。
誰も触っていないのに、ゆらゆらと左右に振れている。
風かと思って窓を見た。
閉まっている。
受話器を取った。
「もしもし」
あの音だった。
さらさら、さらさら。
乾いたものが擦れる音。
今度は、音が近い。
一度目は遠くで鳴っていた。
今は送話口のすぐ裏で、何かが擦れている。
「お母さん?」
返事はない。
代わりに、送話口のすぐ近くで、誰かが息を吐いた。
ふう、と長く。
耳に温かい息がかかった気がして、私は受話器を耳から離す。
ぷつ、と切れた。
受話器を戻してから、十分間ほど、それを見ていたと思う。
もう一度鳴る。
今度は母だった。
「さっき、かけた?」
「今が最初だよ。一回しかかけてない」
母は気にしなかった。
間違い電話でしょ、の一言で済ませる。
朝食の時、ばあちゃんが言った。
「今日は二回鳴ったね。一回目は出がけに聞いた」
たか兄は「間違い電話が一回あっただけじゃん」と言って、卵かけご飯をかき込んだ。
そうか。
間違い電話か。
相手がたまたま外にいて、風の音が入った。
コードが揺れていたのは、ベルの振動。
私は自分にそう言い聞かせた。
じいちゃんは何も言わず、味噌汁をすすっている。
夜、布団の中で、たか兄が言い出した。
「次に鳴ったら、配信しよう」
友達に見せるのだという。
たか兄は友達と、夜中にスマホで配信を見せ合う遊びをしていた。
画面の横に、見ている人の書き込みが流れる仕組みだ。
間違い電話の相手を当てる、と言って笑っていた。
私は嫌だった。
でも、たか兄が起きて見ていてくれるなら、一人で廊下に立つよりましだ。
そう思って頷いた。
三度目は、その週の終わり。
四時十分。
障子がようやく灰色になりかけている。
明け方の、色のない時間だ。
ベルが鳴っている。
たか兄が起きた。
スマホの明かりで顔が青い。
「行け。撮ってるから」
私は廊下に出た。
走らなかった。
足の裏が、板の冷たさを一歩ずつ数えていく。
背中の方、廊下の入口に、たか兄がスマホを構えて立っている。
電話台の前に立つ。
コードは揺れていない。
窓の外、無線山の上の空だけが薄く明るい。
受話器を取った。
さらさら。
さらさら。
もう「もしもし」とは言わなかった。
ただ聞いている。
乾いた音が、送話口の裏で鳴っている。
音が近づいてくる。
受話器の中の音が、受話器の外へ広がっていく気がした。
廊下の空気そのものが、さらさらと鳴っている。
背中に重さが来た。
肩甲骨の間。
平たいものが、ぐっと押している。
人の手の形だ。
手のひら全体で、受話器の方へ押してくる。
じいちゃんだと思った。
急かす時の、あの押し方だ。
でも廊下の板は鳴っていない。
じいちゃんが歩けば、必ずぎしぎし鳴る。
足音も、いびきの途切れた気配もない。
たか兄が動いた音もしない。
振り向けなかった。
押されているせいで、首が回らない。
受話器を持つ右手が、耳に押しつけられている。
私は空いている左手を、背中へ回した。
指が沈んだ。
温かい。
柔らかくて、弾力がある。
タオルでくるんだ湯たんぽに、指を突っ込んだ時に近い。
指の第二関節まで、ずぶりと入った。
匂いがした。
雷が落ちた後の、鉄を舐めたような匂い。
それが、慌てて引いた。
背中が軽くなる。
受話器の中で、ぷつ、と鳴って、ツーという音に変わった。
気がつくと、電話台の下に座り込んでいる。
喉が渇いて、唾が飲めない。
左手を見た。
何もついていない。
手のひらは温かく、指を鼻に近づけると雷の匂いがした。
振り向いた廊下には、たか兄しかいない。
板の上に、私の足の裏の汗の跡だけが並んでいる。
たか兄は廊下の入口に立ったまま、スマホの画面を見ていた。
顔を上げない。
「画面、止まった」
それだけ言って、こちらへ来た。
板がぎしぎし鳴る。
たか兄が歩くと、ちゃんと鳴る。
画面を見せてもらった。
配信はもう切れている。
横に流れる書き込みだけが残っていた。
なんか白い。
肩のとこ。
手じゃね。
止まった。
四つ。
書き込んだのは、たか兄の友達二人だ。
どちらも、私の肩の上に白いものが見えたと書いている。
たか兄は、目では何も見えなかったと言った。
画面の中の私の肩の上だけが、息で曇った窓みたいに白くなり、そこで固まった。
目を上げても、廊下には私が立っているだけだった、と。
録画は残っていた。
途中から同じ画が止まったまま、音だけが続いている。
さらさら、という音が、スマホの小さなスピーカーから出ている。
たか兄はそれを最後まで聞かず、録画を消した。
友達には、電波が悪かったと書いて送る。
五時過ぎ、ばあちゃんが畑から戻ってきた。
廊下に座っている私を見て、目を丸くする。
「じいちゃんは?」
私が先に聞いた。
「奥で寝てるよ。いびきかいてる。どうしたの、顔が真っ白だよ」
たか兄とは、昼に話した。
たか兄は少し考えてから言う。
「静電気だろ。古い電話だし。雷の匂いって、静電気でもするんだぜ」
画面が白くなったのは電波のせい、背中の手は寝ぼけだと言われた。
寝ぼけて、自分の左手で自分の背中を触ったのだ、と。
それなら指が沈んだ説明がつかない。
私はそれ以上言わなかった。
ばあちゃんが病院にかけてくれて、母にも話した。
母は少し黙ってから、口を開く。
「その時間、私は電話してないよ。かけたのは四時四十分」
四時四十分に、電話は鳴っていない。
私はずっと廊下に座っていた。
じいちゃんには、ばあちゃんが話した。
じいちゃんは何も言わず、縁側に出て、畑の向こうを長いこと見ている。
その晩から、じいちゃんは廊下の窓の雨戸を閉めるようになった。
夏の間、ずっと開けっぱなしだった雨戸だ。
電話は、それから鳴らなくなった。
母からの電話も鳴らない。
線は通じている。
こちらからかければ、母の病院にはつながる。
向こうからかけても、この家の電話だけが鳴らない。
母は職場の電話が悪いのだと言う。
たか兄は黒電話が古いせいだと言う。
八月の終わり、私は上尾の家に帰った。
左手の指を鼻に近づける癖が、九月に入っても抜けない。
九月の彼岸に、母と一緒に伊奈町へ行った。
廊下の突き当たりに、黒電話はない。
代わりに白いコードレスの電話機が乗っている。
鳴らない電話を、じいちゃんが取り替えたのだ。
たか兄も来ていた。
二人で物置を覗くと、黒電話は段ボールに入れられ、丸めたコードが上に乗せてあった。
物置の中は蒸し暑く、黒い電話機が埃で灰色に見える。
たか兄はそれを抱えて座敷に運び、畳に置いた。
受話器を外す。
「送話口って、回すと開くんだぜ」
中を見せたかったらしい。
黒い円盤をねじると、かちりと外れた。
中から、乾いたものがこぼれる。
桜の花びらだった。
茶色く縮んだ花びらが、受話器の中にぎっしり詰まっている。
送話口の穴を塞ぐように、何十枚も。
畳にこぼれた花びらから、雷の匂いが立った。
「ばあちゃん、これ開けたことある?」
たか兄が廊下に向かって聞く。
ばあちゃんは「ない」と答えた。
四十年、一度も開けていない、と。
九月だった。
たか兄は何も言わずに花びらを掃き集め、送話口を戻した。
黒電話は、また段ボールに入れられる。
廊下の雨戸は、九月になっても閉まったままだ。
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