雨は、新三郷駅のホームに降りた時から降っていた。
十月の夕方。
柏木真紀は改札を出て、傘を開いた。
手には不動産屋から届いた紙の地図がある。
三郷市采女の、二階建てのアパート。
内見は五時半からだ。
来年の春から、勤め先が三郷に変わる。
それで部屋を探している。
この町に知り合いは一人もいない。
駅に降りたのも今日が初めてだ。
写真で見た部屋は、南向きの角部屋。
家賃は今より一万円安い。
それだけで、もう半分は決めていた。
武蔵野線は雨で遅れていた。
車内の放送が、何度もそう繰り返す。
真紀の乗った電車が着いたのは、五時を少し回っていたはずだ。
ホームの時計を見た記憶はない。
見る余裕もなかった。
階段を上る人の流れに押されて、改札まで来ている。
駅前は広い。
ららぽーと新三郷の看板が、雨の向こうで光っている。
コストコもイケアも、ここから歩ける距離らしい。
買い物袋を提げた家族が、屋根の下を小走りに抜けていく。
休みの日なら、こういう場所で過ごすのも悪くない。
真紀は、そんなことを考えた。
ただ、目当ての物件は線路の反対側だ。
歩けば十五分。
慣れない道を雨の中で十五分は長い。
靴は、もう爪先まで濡れている。
真紀はタクシー乗り場へ向かった。
並んでいたのは一台だけ。
白髪の運転手が、窓を半分だけ下ろした。
「采女の一丁目まで」
「ああ、線路の下をくぐればすぐですよ」
後部座席は暖房が効きすぎていた。
雨で冷えた指先が、じんと痛む。
真紀は地図を膝に広げ、携帯を取り出した。
画面の時刻は十七時十一分。
不動産屋の小田という男から、短いメッセージが届いている。
「先に部屋の前で待っています」
料金メーターの横に、小さなデジタル時計がある。
十七時四分。
七分遅れている。
車の時計なんてそんなものだ。
真紀は画面を消して、窓の外を見た。
駅前のロータリーを抜ける。
大きな商業施設の裏手を回り込むと、道が急に細くなった。
街灯の間隔が広がる。
両側に背の高いフェンス。
その向こうで、武蔵野線の盛り土が黒く続いている。
「このへん、昔は操車場だったんですよ」
運転手が、前を向いたまま言った。
「貨物のですか」
「そう。でかかった。今はもう、ららぽーとですけどね」
ワイパーが一往復する。
真紀は相づちを打った。
知らない町の、知らない昔の話だ。
聞いていても頭には残らない。
それより、五時半まであと二十分もない。
携帯を見た。
十七時十一分。
さっき見た時から、まだ進んでいない。
駅からここまで、角を二つ曲がっただけだ。
そんなものか。
「新三郷の駅もね、昔はホームが離れてたんですよ」
「離れてた」
「上りと下りが、向こうとこっちで。間に操車場があったから」
運転手の声は、雨の音に半分埋もれていた。
真紀は窓に額を寄せた。
フェンスの向こうは、ただ黒い。
盛り土の上に線路があるはずだが、見えない。
電車の明かりも、来ない。
「ここ、ちょっと有名なんですよ」
「何がですか」
「いや、滑るんでね。坂になってて水が溜まる」
道が下りはじめた。
前方に四角い穴が口を開けている。
線路の下をくぐる、短いガード。
入口の上に小さな看板があった。
采女ガード。
読めたのはそれだけだ。
対向車はいない。
後ろにも車の明かりはない。
真紀の傘の先から、床のマットに水が落ちた。
タクシーの速度が、落ちる。
運転手がブレーキを踏んだ様子はなかった。
坂を下るのに、車が重くなっていく。
タクシーが穴の中に入った。
天井が低い。
オレンジの照明が、濡れたコンクリートを照らしている。
壁は黒いシミだらけだ。
右側に一段高い歩道。
その上まで水が来ている。
水面に照明が映って、天井がもう一つあるように見えた。
歩道の手すりは錆びて、途中で折れている。
人は誰も歩いていない。
暖房の風が、急に湿った。
土と鉄のまじった匂い。
真紀は鼻の奥でそれを嗅いだ。
腕の肌が、袖の中で粟立つ。
床が鳴った。
低い震えが、座席の下から上がってくる。
真紀の背中に、それが伝わった。
運転手がハンドルを握り直す。
「上りですね。この時間、よく来る」
列車の音は聞こえない。
震えだけが、天井の上を通り過ぎていく。
真紀は天井を見上げた。
照明の脇から、水が一滴落ちた。
もう一滴。
真紀はそれを数えた。
三つ。
四つ。
ガードは短いはずだ。
地図の上では指の幅もない。
なのに、タクシーはまだ穴の中にいる。
運転手は何も言わない。
メーターの数字も動いていない。
真紀は、座席の縁を指で押さえた。
車は進んでいる。
そのはずだ。
壁のシミが、ゆっくり後ろへ流れていく。
黒い輪が二つ並んだシミ。
その下に、横に裂けた長いシミ。
目で追うと、向こうもこちらを追ってくる気がして、真紀は視線を膝に落とした。
地図の上の、采女という二文字。
うねめ。
読み方を知ったのは、今日の昼だ。
ヘッドライトの端に、白いものがあった。
右側の歩道。
水に浸かった足元。
白い足袋が二つ並んでいる。
裾は暗くて見えない。
膝から上も、照明の外だ。
足袋だけが、水の中で白い。
真紀は息を止めた。
声は出ない。
出す前に、片方の足袋が持ち上がった。
壁の方へ一歩。
タクシーはそこを通り過ぎた。
真紀は振り返った。
後ろのガラスは曇っている。
左の袖で、丸くこすった。
濡れたコンクリートの壁。
歩道に水。
足袋は見えない。
人の背中も見えない。
「どうしました」
「いえ」
真紀は前を向いた。
心臓が、喉のすぐ下で打っている。
見間違いだ。
白いビニールか何かが、歩道に落ちていた。
水に揺れて、動いたように見えた。
それでいい。
それで済ませたい。
降りる場所は、この穴の先にしかない。
歩いて戻る道も、この穴の中だ。
そのとき、真紀の左側で音がした。
こん、こん。
窓だ。
真紀のすぐ横の、後部座席の窓。
外から二回叩かれた。
真紀は首を回せなかった。
目だけを横に動かす。
窓は曇っている。
外の照明が、ぼんやりとにじんでいるだけだ。
「水ですよ」
運転手が言った。
「壁から跳ねるんです。坂の下はいつもこうで」
水の音とは違った。
真紀はそう思った。
でも口には出さない。
出したら、それを認めることになる。
車は動いている。
動いているなら、すぐに出る。
それだけを考えた。
ドアの取っ手が、左の腰のすぐそばにある。
開ければ、外には出られる。
降りて、どこへ行く。
前も後ろも、同じ穴だ。
真紀は取っ手から目をそらす。
窓の曇りの向こうで、照明が一つ、ゆっくり後ろへ流れていった。
膝の上の地図を、両手で押さえる。
紙が湿って、指に貼りつく。
喉が渇いて、唾を飲んだ。
音が、自分の耳の中で大きく響く。
運転手は前を向いたまま、何も言わない。
バックミラーの中の目が、一度もこちらを見なかった。
前方が明るくなった。
タクシーが坂を上る。
穴を抜けた。
「はい、抜けました」
運転手の声が、少しかすれていた。
雨の音が戻ってきた。
屋根を叩く、ふつうの雨の音。
真紀は携帯を取り出した。
十七時十一分。
まだ十一分。
穴に入る前と、同じ数字だ。
穴の中で、一分も経っていない。
真紀は画面を見つめた。
おかしい。
あの穴の中で、水を四つも数えている。
足袋を見た。
窓を叩かれた。
一分で済むはずがない。
いや、短いガードだ。
通り抜けるだけなら十秒もかからない。
数えた滴も、たぶん早かった。
携帯の時計は分までしか出ない。
十一分の頭で入って、十一分の尻で出た。
それだけのことだ。
小田に、一言送っておこう。
真紀は画面を出して、短く打った。
「もうすぐ着きます」
送信の丸い印が、回り続ける。
回ったまま、止まらない。
電波の表示が、消えていた。
真紀は携帯をしまった。
しまった手が湿っている。
後ろのガラスをこすった左の袖。
そこから水が垂れていた。
袖口を握ると、冷たい水が手首を伝う。
線路の盛り土に沿って、道が少し続く。
その脇を抜ける時、床がまた鳴った。
「今度は下りだ」
運転手が言う。
真紀はもう天井を見なかった。
ガードを出てから、道は二本曲がった。
右に、左に。
古い住宅の間をゆっくり進む。
雨で道の色が黒い。
どの家も雨戸を閉めていて、人の気配がない。
庭先の柿の木だけが、実を赤く灯している。
真紀は、それを目印に覚えようとした。
帰りに、一人でここを歩く。
歩いて、あのガードを抜けて、駅へ戻る。
考えただけで、膝の裏が重くなった。
電柱の下に、傘が一本立っていた。
青い傘。
その下で、若い男が手を上げた。
「お待たせしました」
運転手がそう言って、車を止めた。
「ずいぶんかかっちゃいましたね」
真紀は、その言葉の意味が分からなかった。
五分も乗っていない。
料金は二千円を超えていた。
駅からの距離で、こんなにかかるのか。
聞く気にはなれなかった。
早く降りたい。
それだけだ。
小銭を出す指が、うまく動かない。
運転手は釣りを渡す時も、こちらを見なかった。
目の下に濃い影がある。
乗った時には、なかった気がする。
ドアが開く。
雨の匂いが入ってくる。
真紀は傘を開いた。
足が、地面に着く。
肩の力が抜けた。
アパートは、写真で見たより古い。
外壁の白が、雨で灰色に沈んでいる。
二階の角の部屋。
あそこだ。
「柏木さんですよね。よかった。電話、繋がらなくて心配してたんです」
青い傘の男が名刺を出した。
小田。
電話で聞いた声より若い。
真紀は名刺を受け取りながら、携帯を見た。
十七時十六分。
画面の上に通知が並んでいる。
着信。
小田。
十七時二十五分。
同じく三十一分に、もう一件。
そのあと三十八分にも来ている。
不在着信が三件。
通知は来たのに、さっき打ったメッセージの送信の印だけが、まだ回っている。
真紀は画面をもう一度見た。
今が十六分。
着信が二十五分、三十一分、三十八分。
まだ来ていない時刻の着信だ。
真紀の親指が止まった。
「電波、切れてたみたいで」
小田が言った。
真紀は何も答えられなかった。
小田の腕時計が見える。
文字盤の針は、六時の少し手前。
携帯がおかしい。
真紀はそう決めた。
穴の中で電波が切れて、時計が狂った。
そういう話は聞いたことがある。
着信だけが先に届いて、時刻が後から合う。
きっとそうだ。
運転手の時計も七分ずれていた。
あの車の中は、時計が全部おかしい。
そこまで考えて、手が止まった。
運転手の時計が遅れていたなら。
あの車は、駅を出た時から、もう遅れていた。
何に対して遅れていたのか。
真紀は、その先を考えるのをやめる。
背中の汗が、冷えて貼りついていた。
タクシーが動き出した。
白髪の頭が、前を向いたままだ。
テールランプが来た道を戻っていく。
ガードの方へ。
赤い光が、坂の下へ沈んで消えた。
あの穴を、もう一度くぐるのか。
真紀は、傘の柄を握り直した。
「采女の地下道、通ってきました?」
小田が、アパートの階段を指しながら聞いた。
「地下道」
「ガードって、運転手さんは言ってました」
「ああ、呼び方はいろいろで。昔はもっと長かったとか聞きますけど。私が子どものころから、あの長さですよ」
小田は、何でもない顔で笑った。
地元の人間の顔だ。
真紀は、足袋のことを言わなかった。
言えば、この男の顔が変わる。
部屋を見る前に、それは見たくない。
真紀は階段に足をかけた。
鉄の段が雨で滑る。
手すりは冷たい。
二階の部屋の窓に、明かりはない。
雨どいから落ちる水が、足元で跳ねた。
「電車、止まってましたね」
「え」
「武蔵野線。五時過ぎから、雨で。柏木さん、間に合ってよかった」
真紀は足を止めた。
床が、二回鳴った。
「あ、それと」
小田が傘を少し持ち上げた。
「五時四十分ごろ、ガードまで見に行ったんです。遅いし、電話も出ないし」
真紀は手すりを握った。
「タクシー、止まってましたよ。穴の中で。ハザード出して。他に車もいなくて」
雨が傘を叩く。
「後ろの席の、横の窓。二回叩いたんです」
こん、こん。
「返事がなくて。中が曇ってて、誰も見えなかったので」
真紀の左の袖から、水が一滴、階段に落ちた。
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