十一月の二週目の日曜、夜中の三時に起こされた。
瀬川の実家の二階で、布団の上に座ったまま、しばらく頭が回らない。
窓の外は真っ暗で、下の台所から湯の沸く音がしていた。
瀬川は高校の同級生だ。
茨城県坂東市、岩井の外れで生まれて、今も実家で親と暮らしている。
俺は東京で働いていて、会うのは年に一度あるかないか。
その瀬川から、十月の終わりに電話が来た。
親父が脚を折ったから、祭りの支度を手伝ってくれ。
そういう頼みだった。
坂東市の岩井では、十一月に将門まつりがある。
平将門を郷土の武将として偲ぶ祭りで、通りに武者の行列が出る。
瀬川の家が入っている班は、毎年その通りに幟を立てる係だった。
「幟を立てるだけなら、俺にもできる」
そう言って引き受けた。
軽い気持ちだったと思う。
前の晩に着いて、居間で瀬川の父親に挨拶をした。
右の脚に白いギプスを巻いて、座椅子に収まっている。
俺の顔を見て、悪いな、と一言だけ言った。
それから瀬川のほうを向いて、神田山も頼むな、と言った。
瀬川は、分かってる、と返す。
寝ぼけた頭では、神田山が何のことか思い出せなかった。
聞くほどのことでもないと思って、聞かずに寝た。
台所で茶を一杯もらって、二人で裏の物置へ回った。
物置の中は、油と藁の匂いがする。
壁に沿って、黒い竿が束ねて立てかけてあった。
「十二本。うちの班は十二軒だから」
瀬川が束の紐をほどきながら言う。
竿は竹で、根元のほうを黒く塗ってある。
先に小さな鉄の輪が付いていて、そこに幟の上を縛る。
一本が三メートルほどあって、持つと冷たくて重い。
二人で軽トラの荷台に積んだ。
俺が渡し、瀬川が並べる。
十二本で荷台がいっぱいになった。
幟の布は箱に畳んで入っている。
麻紐は瀬川が前の晩に切ってあった。
一本の幟に三か所、十二本で三十六本。
箱の中で束になっていた。
積み終えて、荷台のあおりを閉める。
息が白い。
手の甲が冷えて、感覚がなくなりかけていた。
荷台を見下ろして、何となく数えた。
一本、二本、三本。
十三本ある。
「十三本ないか」
「十二だよ」
瀬川が運転席のドアに手をかけたまま、こっちを見た。
「数えてみろよ」
瀬川が荷台に戻って、竿の先を一本ずつ叩いていく。
十二で終わった。
俺ももう一度数えた。
十二だ。
寝ぼけていたんだろう。
そう思って、助手席に乗った。
通りに着いたのは四時を少し回ったころだ。
岩井の中心を抜ける道で、商店のシャッターはみんな下りている。
街灯の下に、班の人が二人、先に来て待っていた。
歩道の縁石のところに、鉄の筒が埋め込んである。
そこに竿を差して、幟を縛る。
作業は単純で、体を動かしているうちに眠気は消えた。
筒は、通りの端まで等間隔に並んでいる。
年上のほうの班の人が、一番端の筒を指して言った。
「そこは使わねえ。昔から空けてある」
蓋がしてあって、落ち葉が溜まっている。
俺は数えなかった。
数えておけばよかったと、あとで思った。
幟は紺地に白で将門公と染め抜いてある。
風が出てきて、布が鳴った。
ばさ、ばさ、と間を置いて鳴る。
最後の一本を縛り終えたのが五時前だった。
班の二人は先に帰っていった。
通りに残ったのは、俺と瀬川だけになる。
「もう一か所、行くとこがある」
瀬川が軽トラの鍵を回しながら言った。
「どこへ」
「神田山」
神田山と聞いて、ようやく延命院のことだと思い当たった。
前に瀬川から、神田山の延命院、と聞いたことがある。
平将門の胴を葬ったと伝わる塚がある寺だ。
坂東市の神田山にあって、菅生沼を見下ろす台地の上に建っている。
「じいさんが、祭りの朝は必ず行ってたんだ。幟を立て終わったら、門の外から手を合わせて帰る。中には入らない。それだけ」
瀬川の祖父は五年前に亡くなっている。
その後は父親が続けていたらしい。
今年は父親が動けないから、瀬川が代わりに行く。
断る理由はなかった。
俺は客で、車を運転しているのは瀬川だ。
降りて帰るといっても、ここから瀬川の家まで歩ける距離じゃない。
軽トラは岩井の市街を抜けて、川を二つ渡った。
道の両側が田んぼになって、やがて沼の気配がしてくる。
窓を少し開けると、水の匂いが入ってきた。
「じいさんの決まりが、もう一つあってさ」
瀬川がハンドルを握ったまま言う。
「門の中は覗くな。手だけ合わせて、すぐ帰れ」
「なんで」
「聞いてない。聞く前に死んだ」
ヒーターの音だけが、しばらく車内に残った。
俺は窓の外の暗い田んぼを見ていた。
そのうち、道の先に黒い木立が盛り上がって見えてきた。
台地の縁に、寺の屋根がある。
菅生沼は霧で白かった。
沼の向こうの岸は見えない。
空はまだ暗いが、東の端だけ、色が薄くなり始めている。
延命院の前の道で、瀬川が車を停めた。
エンジンを切ると、耳の奥で血の音がする。
門は閉まっていた。
門の横に、木の案内板が立っている。
神田山延命院、と読めた。
案内板には、将門の胴を葬った塚があると書いてある。
塚のそばに大きなカヤの木がある、とも書いてあった。
文字の半分は、露で濡れて読みにくい。
軽トラの荷台のあおりに、もう白いものが降りている。
足元の砂利を踏むと、音が大きく響いた。
俺は踏まないように、足を止める。
霧の中に、木の匂いがした。
俺たちは門の前の道に立った。
瀬川は門に向かって、俺はその左斜め後ろに立つ。
門の内側に桜の木が並んでいて、その奥は黒い。
瀬川が手を合わせた。
俺も真似をして合わせる。
掌が冷えて、合わせた手の音だけが大きい。
どん、と音がした。
瀬川が目を開ける。
俺も開けた。
音は門の奥のほうから来ている。
覗くなと言われた、その奥からだ。
どん。
どどん。
締め太鼓の音だ。
祭りの囃子のような打ち方だった。
「公民館の若い衆だろ。朝から練習してんだ」
瀬川が小さい声で言う。
公民館は、俺たちが来た道の反対側にある。
音は寺の奥から来ている。
俺はそう思ったが、口には出さなかった。
太鼓は四つ打って、止まった。
しばらく待っても、もう鳴らない。
鳥が一羽、頭の上を抜けていった。
「塚はあの奥」
瀬川が門の奥を指した。
「不動堂の裏だ。カヤの木がある。でかい木で、塚を抱えるみたいに立ってる」
門の内側は見えない。
ただ、塀の切れ目から、木の上のほうだけが見えた。
霧の上に、黒い枝が広がっている。
俺はそれを見ていた。
太鼓の音のあとで、目が勝手にそっちへ行った。
覗くなと言われたのは瀬川で、俺じゃない。
そう自分に言い訳をして、見ていた。
瀬川が手を合わせ直して、俺だけが木を見ていた。
幹の、枝が分かれるあたりに、黒いものがある。
最初は、こぶだと思った。
古い木にはよくある。
次に、蔓が絡んでいるのかと思った。
それが、ずり下がる。
人の背丈ほど、一度に下がった。
幹に沿って、張り付いたまま。
それで止まる。
喉の奥が鳴った。
自分の唾を飲む音だ。
指の先が痺れて、拳を握っても握った感じがしない。
瀬川は気づいていない。
目を閉じて、門に向かったままだ。
俺は瀬川の肩を叩こうとして、やめた。
叩いたら、瀬川がそっちを見る。
瀬川が見たら、あれも気づく。
根拠はない。
ただ、そう思った。
木のほうを見ないようにして、瀬川の背中だけを見た。
背中の作業着に、幟の紺色の糸くずが付いている。
それを数えた。
三つ。
「よし、帰ろう」
瀬川が言った。
声が普段どおりなのに、救われる。
軽トラに乗る前に、一度だけ木を見た。
枝の分かれ目に、何もない。
下のほうは、塀で見えなかった。
車が動き出した時、東の空が赤くなっていた。
菅生沼の霧が、下から光って見える。
鴨の群れが水面から一斉に上がって、沼の向こうへ消えた。
俺は寺のほうを振り返らなかった。
振り返れば見える位置に、カヤの木はあった。
帰りの車の中で、頭の中に理屈を並べた。
猿。
このあたりに猿はいないと、瀬川から聞いたことがある。
猫。
人の背丈ほどの猫はいない。
蔓が落ちた。
風は、あの時なかった。
「じいさんは、なんであそこに行ってたんだ」
俺が聞くと、瀬川はしばらく黙った。
「知らね。親父に聞いても、じいさんがそうしてたから、としか言わないんだ」
家に着いたのは六時過ぎだった。
おばさんが味噌汁を温めていて、俺は飯を二杯食った。
体が温まると、門の前のことが、少し遠くなる。
祭りは昼からだった。
通りは人でいっぱいになって、武者の行列が歩き、囃子が鳴った。
俺たちの幟は、風をはらんで一列に並んでいる。
囃子の太鼓は、公民館の若い衆が叩いていた。
九時に公民館から出してきたのだと、班の人が教えてくれた。
その前は、鍵のかかった倉庫に入っていたらしい。
どん、どどん。
打ち方は、明け方に聞いたのと同じだった。
俺は瀬川の顔を見た。
瀬川は見返してこなかった。
行列が通り過ぎたあと、俺は端から幟を数えた。
一、二、三。
十三本ある。
もう一度、反対側から数えた。
十三本。
今度は数え間違いじゃない。
筒は、数える気になれなかった。
「瀬川、幟、十三本ある」
瀬川は行列の後ろを見ていて、振り向かなかった。
「十二だろ」
「数えてみろ」
瀬川が数えた。
十二で止まって、それから俺を見た。
その目が、笑っていない。
夕方、幟を抜いて回った。
一本ずつ縛りをほどいて、荷台に積む。
ほどいた紐は、その場でごみ袋に入れた。
積み終えた竿は、十二本だった。
物置に戻して、紐で束ねる。
麻紐の箱を見ると、切った紐が一本だけ残っていた。
三十六本切って、三十六か所縛った。
一本残るはずがない。
瀬川は、数え間違えて多く切ったんだろう、と言った。
俺もそれでいい。
そう思うことにした。
その晩、台所でおばさんと話した。
瀬川は風呂に入っている。
「うちの班はね、昔は十三軒あったんだよ」
おばさんが茶を注ぎながら言った。
「一軒、家が絶えてね。もう二十年になる」
瀬川は十二軒だと言っていた。
物置で、何の迷いもなく。
二十年前なら、瀬川は十八だ。
覚えていないはずがない。
「おじいさんは、祭りの朝に延命院へ行ってたんですよね」
「ああ、行ってた」
おばさんは茶碗を置いて、少しだけ声を落とした。
「でも、途中からやめたよ。門の前まで行くのを、やめた。車の中から手を合わせて帰ってた」
「いつからですか」
「さあ。あの家が絶えたころかねえ」
瀬川が風呂から上がってきて、話はそこで終わった。
俺は聞いたことを瀬川に言わなかった。
言ってどうなるとも思えない。
寝床に入ってからも、なかなか寝つけなかった。
目を閉じると、幟の布が鳴る音が耳に戻ってくる。
ばさ、ばさ。
間を置いて、もう一回。
音を数えているうちに、いつの間にか眠っていた。
翌日の昼、瀬川に守谷の駅まで送ってもらった。
別れ際に、瀬川は幟の話も寺の話もしなかった。
また来年な、とだけ言った。
俺は、ああ、と返すだけだ。
電車に乗ってから、上着のポケットに手を入れた。
その時は、何も入っていなかった。
一週間が過ぎた。
朝、出がけに上着を着る。
あの明け方に着ていた、厚手の上着だ。
右のポケットに手を入れると、硬いものが指に当たった。
取り出すと、楕円の実だった。
親指の先くらいの大きさで、先が尖っている。
緑がかった茶色で、表面に筋がある。
鼻に近づけると、樹の匂いがした。
あの門の前で嗅いだ、霧と木の匂いだ。
カヤの実だと、調べて分かった。
俺は門の中に入っていない。
木まで二十メートル以上あった。
塀の切れ目から、枝の先を見ただけだ。
瀬川に写真を送った。
返事は夜に来た。
「カヤだな。でもあの木、実がなったか、見たことない」
少しして、もう一通来た。
「親父に見せた。黙って、電話を返してきた」
それきり、瀬川からは来ていない。
俺も送っていない。
その実は、今も机の引き出しに入っている。
捨てようとして、捨てられなかった。
ごみ箱の上で手を開きかけて、そのまま閉じた。
手の中で、実が温かかった。
引き出しを開けるたびに、数える癖がついている。
今朝は、一つだった。
同じ地域の怪談
袋田側に信号機だけが残る廃隧道。鎖の外に立っていただけで、膝の裏を押される。誰も中へは入っていない。それなのに後日、車の後ろの席から濡れたも…
ファインダーの中、鳥居の右の柱のわきに、人が立っていた。顔を上げると、岩の上には誰もいない。覗き直すと、いる。柵の中に、入れるわけがないのに…
牛久沼の東岸から、渡れないはずの島を見に行った。友人は小さいころボートで渡ったと言う。杭は五本だった。
茨城県常総市の鬼怒川沿いに、白い塔が立っている。 高さはおよそ四十八メートル。 田と畑の平らな土地に、そこだけ縦の線が伸びている。 鬼怒砂丘…
茨城県笠間市に佐白山という山がある。 標高はおよそ二百メートルで、山頂に笠間城の跡が残る。 麓の公園は桜と紅葉の名所として知られ、昼は散策の…
この地域の心霊スポット
茨城県の水辺に語られる心霊スポット「三次親水公園」。親水公園の水辺で、足を止める位置に迷う三次。怪談・都市伝説として語られる噂と、現地の空気…
茨城県の心霊スポット「塔ヶ崎隧道」。県道2号の脇から森へ入る箱型トンネル。ガラス片の床に、忘れられた道筋。怪談・都市伝説として語られる噂と、…
茨城県の史跡に残る心霊スポット「十五郎穴」。崖に並ぶ横穴墓群。穴の前だけ、見学の声が小さい。怪談・都市伝説として語られる噂と、現地の空気を追…
茨城県稲敷郡美浦村の心霊スポット「霞ヶ浦分院」。鹿島海軍航空隊跡から大学病院、廃墟、公開公園へ変わった場所の履歴と霊の噂を整理する。現地の空…
茨城県常総市篠山の心霊スポット「神子女霊園」。地名、霊園内の塚状地形、水害の記憶、動物の鳴き声の噂が重なる公営霊園。現地の空気と、噂の出どこ…


コメント