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大手町の将門塚の配信に、父が映っていた

長男の話

父は大手町で働いている。
会社は将門塚の斜め向かいのビルに入っている。
二十年近く、毎晩あの前を通って帰ってくる人だ。

俺は市川の実家暮らしで、大学二年。
一階に祖父、二階に俺と両親が寝ている。
東西線の行徳駅から歩いて十分の家だ。
父は東西線で大手町まで、乗り換えなしで通っている。

十月の平日だった。
夜の十時過ぎ、俺は自分の部屋で配信を見ていた。
配信の音は、イヤホンで聞いていた。
禁足地めぐりを売りにしている配信者がいる。
入らない、触らない、柵の外から撮る。
それだけを守って、夜の町を歩く人だ。
視聴者は毎回、三百人くらい。
俺はこの配信を、半年前から見ている。
入らない人だから、安心して見ていられる。

その夜は市川の八幡の藪知らずから始まった。
本八幡の駅から少し歩いた、市役所の向かいの小さな竹藪だ。
配信者は玉垣の外に立って、中を映さなかった。
「ここは入る場所じゃないんで」
俺が見始めた時には、もう切り上げる所だった。
藪の前の歩道には、まだ人通りがある。

次の目的地が大手町の将門塚だと聞いて、俺は画面に顔を寄せた。
父の会社が映るかもしれない。
理由はそれだけだ。
配信者は総武線と東西線を乗り継いで、大手町へ向かった。
移動中の画面は、電車の床ばかり映している。

十一時過ぎ、配信者は大手町駅の出口を上がった。
塚に一番近い階段だ。
上がりきると、目の前に塚がある。
低い木の塀に囲まれた、小さな広場。
塀の角で、小さな飾りガラスだけが光っている。
木の匂いまでは、画面からは分からない。
石碑に明かりが当たっていて、オフィス街の中でそこだけ白く浮いている。
配信者は歩道に立ったまま、広場には入らなかった。

「ここも入らないです。手前から撮ります」
「背中を向けるなって、よく言われるんで」
配信者が小声で付け足した。
塚の向こうに、高いビルのガラスが並んでいる。
真下の歩道だけ、人がいない。

マイクが風の音を拾っていた。
内堀通りの方から、お濠の水の匂いがする時間だ。
父がそう言っていたのを、俺は思い出した。
配信者は何度も上着の前を合わせていた。
息が白くなりかけている。
十月の夜の風は、大手町では冷える。

コメント欄が一気に流れた。
「背中向けんなよ」
「首塚に背を向けると祟られる」
「昔は蛙だらけだったよな」
俺もその噂は知っていた。
あそこに置かれていた蛙の置物は、首が帰ってきたから蛙、という話だ。
今は置けないらしく、画面に蛙は一つも映っていない。

ビルの窓はほとんど暗い。
たまに、まだ明かりのついた階がある。
父の会社の階だ、と思った。
その時の俺は、まだ笑っていた。
配信者が言う決まり事を、ゲームの説明みたいに聞いていた。

十一時十三分。
配信画面の右上に、時刻が出ている。
歩道の奥から、スーツの男が歩いてきた。
鞄を右手に提げている。
鞄の持ち手に、黄色い反射材の飾りがぶら下がっていた。
俺が高校の時、父に渡したものだ。
行徳の自転車屋で買った、安い飾り。

父だった。
顔は映っていない。
配信者は気づいていない。
カメラは石碑に向いたままだ。
男は画面の端に入ってきただけだ。
それでも鞄で分かる。
ずっと同じ鞄を使っている人だ。

父は塚の前で止まった。
鞄を左手に持ち替えて、石碑の方へ頭を下げた。
深い礼ではない。
会釈くらいの角度だ。
それから、また歩き出した。
駅の階段の方へ消えていく。

俺は画面の前で、背筋を伸ばしていた。
父は家で、塚の話をしない。
会社の近くにあることすら、母から聞いて知った。
拝む人だとは思っていなかった。
まあ、毎晩前を通れば、そうもなるか。
その時はそう片付けた。

十一時十四分。
配信者がしゃべっている途中で、声が割り込んだ。
叫び声だ。
男の声で、短い。
言葉ではない。
喉の奥を叩いたような、一発の声だった。
配信者の肩がはねて、カメラが揺れた。
「え、今の何」

コメント欄が止まらない。
「叫んだ」
「後ろ」
「さっきのサラリーマン」
「背中見せてたの誰」
配信者は塚の方を向いたまま、動かなかった。
動けなかった、と思う。
俺も、マウスに乗せた手のひらに汗が出ていた。

「酔っ払いですかね」
配信者がそう言って、笑った。
笑い声が少し高い。
俺もその説明で納得しかけた。
大手町でも、夜なら酔った人くらい歩いている。
コメント欄も「酔っ払い」で落ち着きかけた。

配信者は、そこから後ろ向きに歩き始めた。
塚に背中を向けないように、一歩ずつ下がる。
「帰ります、後ろ向きで帰ります」
靴の音が、マイクに入る。
コツ、コツ、と硬い歩道の音だ。

その音が、二つあった。
配信者の足音と、半拍遅れて、もう一つ。
配信者は一人だ。
その夜は「今日も一人です」と何度も言っていた。
コメント欄に「足音二つある」と流れた。
俺もそう聞こえた。
片方は革靴で、もう片方は、底の柔らかい靴の音だ。
作業靴の、ゴムの音に近い。

俺はそこで、座り直した。
椅子の背もたれが、背中に冷たい。

角を曲がった所で、配信が切れた。
回線が落ちた、と後で配信者は書いていた。
画面には「配信が終了しました」の文字だけが残った。

俺は時計を見た。
十一時十六分。
父が帰るまで、あと四十分ある。
その四十分のことは、あまり覚えていない。
部屋のドアを開けて、階段の明かりをつけた。
それだけはした。

父が帰ってきたのは、十一時五十五分。
玄関の鍵の音がして、靴を脱ぐ音がした。
いつもと同じ順番だ。
俺は階段の上から「おかえり」と言った。
父は靴を揃える手を止めて、体ごとこちらを向いた。
「起きてたのか」
声はいつもの声だ。
鞄の飾りは、ちゃんと付いていた。
父はそのまま風呂に入った。
配信のことは、その夜は言えなかった。
言えたのは、三日後だ。

父の話

俺は立ち止まっていない。

あそこの前は毎日通る。
二十年だ。
止まったことは一度もない。
うちの親父に、子供の頃から言われている。
あそこの前で呼ばれても振り向くな、止まるな、と。
だから止まらない。
それだけだ。

その夜は十一時過ぎに会社を出た。
エレベーターで一階に降りて、裏口から歩道に出る。
塚の前を通るのが、駅への一番の近道だ。
別の出口に回ると、十分は余計にかかる。
東西線の終電を考えると、回り道はしたくない。
塚の手前で、配信の子がいた。
携帯を塚に向けて、何かしゃべっている。
その横に、もう一人立っていた。

灰色の作業着の男だ。
塚に背を向けて、こっちの歩道の方を向いている。
背中を向けている。
あの場所でそれをやる人を、俺は初めて見た。
男は片手を上げて、自分の首の後ろに当てた。
目をそらしたのは、そこだ。

通り過ぎて、階段を降りる。
降りる途中で、後ろの方から声がした。
叫び声だ。
俺は振り向かなかった。
親父の言いつけ通りだ。
手すりを握った手が、湿っていた。

階段を降りきった所で、足音がついてきた。
階段の上から、一段ずつ。
改札を抜けて、ホームに立つまで、ずっと後ろにいる。
電車が来て、ドアが開いて、乗った。
後ろの足音は、ホームで止まったままだ。
俺は窓に映った自分の顔を見て、それから目を閉じた。
行徳まで、目は開けなかった。

息子は、俺が塚の前で頭を下げた、と言う。
配信にそう映っていた、と。
俺は止まっていない。
頭も下げていない。
あの場所でそれをやるのは、うちでは禁じられている。

一つだけ、気になっていることがある。
会社の話だ。

一週間前、フロアの模様替えがあった。
窓際の書庫を動かした。
塚の方を向いた窓の下に、三十年置きっぱなしだった書庫だ。
動かしたら、壁に紙が貼ってあった。
黄ばんだ札だ。
字は読めない。
その下の床に、木の箱が一つ置いてあった。
手のひらに乗る大きさで、紐で縛ってある。
埃の上に、箱の形だけ白く残っていた。

総務の年寄りが来て、顔色を変えた。
「それは動かすなって、引き継いでたんだけどな」
誰が置いたのかは、誰も知らない。
工事の人は、箱を開けずに、元の場所に戻した。
札も貼り直して、書庫も戻している。
模様替えは、その窓際だけ中止になった。

俺はその時、笑っていた。
箱を戻す工事の人に、お疲れさんと言った。
笑っていたのは、俺だけだったと思う。
工事の人は、灰色の作業着を着ていた。
工事会社の制服だ。
それ以上のことは、俺には言えない。

母の話

私はその夜、台所にいました。
主人の夕飯を温め直す前に、流しを片付けていた時です。

一階の和室から、声がしました。
義父の部屋です。
義父は八十三になります。
耳は遠いのですが、夜は目ざとい人です。
叫び声でした。
言葉ではなくて、一回だけ、大きな声。
電子レンジの時計が、十一時十四分でした。

和室に行くと、義父は布団の上に座っていました。
目は開いていて、天井を見ています。
「お義父さん」と声をかけると、首ではなく、体ごとこちらを向きました。
昔からそうなんです。
首が固いから、と本人は言います。

「工事の人が、箱を動かした」
義父はそう言いました。
何の工事か聞いても、答えません。
そのまま横になって、朝まで眠りました。
部屋の空気が、少し土の匂いがしました。
窓は閉まっていたのに。

二階の長男には、聞こえていなかったようです。
後で聞いたら、イヤホンをしていたと言いました。

翌朝、義父はその夜のことを覚えていませんでした。
主人の会社で箱が出た話を、私はその時まだ知りませんでした。
主人が話したのは、その週の日曜です。
義父も昭和の頃、大手町のビルで働いていた人です。
主人の会社とは別の会社でしたが、場所は近かったと聞いています。
塚の話は、私の前では一度も出たことがありません。

それから、義父は夜中に起きなくなりました。
前は週に二度は起きて、廊下を歩いていたのに。
今は朝までぴたりと動きません。
楽になった、と言えば楽になったのですが。

長男の話、続き

配信の録画は、次の日の昼に公開された。
見たのは、昼休みだ。
十一時十三分の所まで飛ばして、再生した。

父が映っていない。
歩道には配信者の影しかない。
塚の前を横切る人は、誰もいなかった。
鞄の黄色い飾りも、映っていない。
俺は三回、巻き戻した。
三回とも、歩道は空いていた。
配信者に、録画を切っているのかと聞いてみた。
返事はない。

叫び声は入っていた。
十一時十四分、同じ場所で、同じ声。
後ろ向きに歩く配信者の足音も、二つ聞こえる。
そこは、生で見た時と同じだ。

コメントだけが残っていた。
「さっきのサラリーマン」
「背中見せてたの誰」
録画にはコメントもそのまま表示される。
サラリーマンが映っていない画面の上を、その言葉だけが流れていく。

俺は父に録画を見せた。
父は十一時十三分の所を、黙って最後まで見た。
「俺じゃない」
それだけ言った。
でも父は、その日から鞄の飾りを外している。
外して、俺に返してきた。
今は俺の机の引き出しに入っている。
引き出しを開けるたびに、黄色い反射材が光る。

配信者はその後も配信を続けている。
大手町の回のことは、一度だけ触れた。
「足音は俺のが反響しただけ」
そう書いて、その話は終わりになった。
作業着の人のことは、配信者は一度も言っていない。

父は今も大手町に通っている。
会社も同じ、帰る時間も同じ。
帰りは同じ歩道を通って、同じ階段を降りる。
塚の前を止まらずに歩いて、東西線で行徳に帰ってくる。
そこは何も変わっていない。

父のことで、一つだけ変わった。
父を後ろから呼ぶと、首だけで振り向かなくなった。
食卓でも、廊下でも、玄関でも。
名前を呼ぶと、父は一度止まる。
それから、体ごとこちらを向く。
母は、年のせいで首が固くなったのだろう、と言っている。
父は何も言わない。

一階の和室では、祖父が朝まで眠っている。

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