十二月の最初の月曜、朝の六時十分。
俺は小津町のバス停に着いた。
家を出たのは五時四十分だ。
谷のいちばん奥、林道の入口に近い家から、小津川に沿って歩いて下りてくる。
懐中電灯で足元だけ照らして、三十分かかる。
膝が悪いので、下りの坂は一歩ずつ横向きだ。
バスは平日に三本しか来ない。
西八王子の駅を七時過ぎに出たのが、谷を上がってきて小津町で折り返す。
朝の一本目は、ここを七時四十分過ぎに出る。
逃せば、次は十時台だ。
整形外科のリハビリは、月曜と木曜の九時に予約してある。
これに乗るしかない。
免許は春に返した。
娘がうるさかったし、軽トラをバックさせて庭の柚子の木にぶつけたのもある。
前は町会で、ワゴンのバスを走らせていた。
モリアオガエル号といって、家の前で手を上げれば止まってくれた。
運転手とは顔見知りで、降りるのも玄関の前。
それも何年か前に終わった。
今のバスは、町の奥までは上がってこない。
停留所の名前は小津町だ。
俺はいまだに、会館前と言ってしまう。
ワゴンのころの呼び方が抜けない。
町の中にある停留所は、終点のここだけだ。
あとは道ばたで手を上げれば止まる。
自由乗降というらしい。
待合は、木で骨を組んでトタンを載せただけの小屋だ。
三方を囲って、道の側だけが開いている。
ベンチはない。
少し離れて街灯が一本あって、その明かりの外は真っ暗になる。
道の向かいには、石の地蔵さんが何体か並んでいる。
脇に、木の祠がひとつ。
着くと、俺は道のこっちから手を合わせる。
向こうへ渡ったことはない。
年寄りは、待つのが仕事みたいなものだ。
乗り遅れたらと思うと、家でじっとしていられない。
暗いうちに出て、暗いうちに着く。
それで一時間半、トタンの下で立っている。
秋に孫の圭太が来たとき、俺のスマホにアプリを入れてくれた。
バスがいまどのへんを走っているか、絵で出るやつだ。
停留所の名前が縦に並んで、その間をバスの印が動いていく。
「じいちゃん、早く行きすぎなんだよ、これ見てから家を出なよ」
圭太はそう言って、小津町がいちばん上に出るようにしてくれた。
ついでに、別の画面も見せられた。
心霊スポットを集めたサイトで、ここのバス停が載っているという。
夜中に女が立っているとか、運転手が乗せたら消えたとか、そういう話だ。
「ベンチに座ってるって書いてあるよ」
「ベンチなんか、ねえぞ」
圭太は笑って、画面を下へ送った。
夜中にバイクで来て騒ぐ若いのがいるのは、俺も知っている。
あの月曜の朝、谷の底はまだ暗かった。
尾根の上の空だけが、うっすら青くなりかけている。
息を吐くと白く伸びて、懐中電灯の輪の中で消えた。
足の下で霜が鳴る。
川の音のほかは、何も聞こえない。
風に、薪を燃やす匂いがまじっていた。
女が座るという話を、ふと思い出した。
懐中電灯で、待合の隅を順に照らしてみる。
囲いの継ぎ目と、吹きこんだ落ち葉しかない。
座るところもないのに、と声に出して言った。
照らした自分が、ばかみたいだ。
六時二十四分に、アプリを開いた。
圭太には、七時を過ぎてから見ろと言われた。
することがないから、開いただけだ。
画面の上から、小津町、小津自由乗降、恩方ターミナルと並んでいる。
停留所でもないのに、自由乗降にまで名前の欄があるのがおかしい。
その欄に、バスの印がひとつ出ていた。
横に、まもなく到着と小さく書いてある。
一本目は、まだ西八王子を出てもいない時間だ。
坂の下を見た。
ライトはない。
エンジンの音もしない。
回送が上がってくるのかと思って、しばらく待った。
印は、自由乗降の欄に止まったまま動かない。
五分ほどして、小津町の欄に移った。
表示が、到着に変わる。
道には何もいない。
次に見たときには、印は消えていた。
機械のことは、俺にはわからん。
電波の具合で、先週の分でも出たんだと思った。
スマホをポケットにしまって、手袋をはめ直す。
七時半を過ぎて、本物のバスが上がってきた。
谷の底はまだ日陰で、ライトをつけたままだ。
運転手は四十くらいの男で、見ない顔だった。
「朝早くに、回送か何か上がってこなかったかい」
「いえ、今日はこれが一番ですよ」
「アプリに出てたんだ、六時半前に」
「あれ、たまに変なとこに出るんですよ」
運転手は笑って、扉を閉めた。
動きだしたバスの窓から、待合を振り返る。
向かいの尾根の上だけが、日に当たって明るい。
木曜も、着いたのは六時十分。
月曜のことは、もう半分忘れていた。
待合に懐中電灯を向けて、足が止まった。
左の隅に、誰か立っている。
子どもだった。
中学生くらいの男の子で、学生服の上に紺の薄いジャンパーを着ている。
鞄は持っていない。
顔は、下を向いていてよく見えない。
白い運動靴が霜で濡れて、灰色になっていた。
「おはよう」
声をかけると、男の子は頭だけ下げた。
この町の子なら、顔はだいたいわかる。
百軒ちょっとの谷だ。
中学生なんて、今は数えるほどしかいない。
どの家の子か、思い当たらない。
しばらく、二人とも黙って立っていた。
「バスは、まだ一時間半も先だぞ」
「でも、もうすぐ来るって出てます」
男の子は、スマホをこっちに向けた。
俺のと同じアプリだった。
自由乗降の欄に、バスの印がある。
腕時計を見ると、六時二十四分。
俺も、自分のを出した。
同じ欄に、同じ印が出ている。
「月曜もそれが出たんだ、来やしなかったよ」
「来ますよ、乗れないだけで」
男の子は、画面から目を上げずに言った。
しゃべっても、男の子の口から白いものが出ない。
俺の息ばかりが、懐中電灯の光の中で白く揺れる。
若いと、体の芯が温かいのかと思った。
「どこの家の子だ」
少し、間があく。
「わかんないです」
「わかんないって、お前」
「気がついたら、ここで待ってて」
指で画面を送って、別のページを出してくる。
圭太に見せられたのと同じサイトの、書き込みの欄。
「明け方、小津町のバス停に、中学生くらいの男の子が立ってる」
「話しかけると、自分がどこの子か聞いてくる」
「あの子、もういないことになってる子だって」
男の子は、三つ目のところで指を止めた。
「これ、俺のことらしいんです」
「俺、ここにいますよね」
俺は、男の子のジャンパーの袖をつまんだ。
冷たくて、湿っている。
布の手ざわりは、ちゃんとある。
「いるよ、寒くねえのか、こっちへ寄れ」
男の子は動かなかった。
六時半になる少し前、印が小津町の欄へ移った。
到着の表示が出る。
坂の下に、ライトは見えない。
男の子が待合を出て、道の端に立った。
右手を、坂の下へ向けて上げる。
手を上げれば止まる、あの合図だ。
「終点だぞ、上げなくたって止まる」
「止まらないんです、いつも」
下から、冷たい風が上がってきた。
軽油の焼ける匂いがする。
大きな車が鼻先をかすめるときの、あの押される感じが胸に来た。
俺は目をつぶった。
開けたとき、道の端には誰もいない。
膝から力が抜けて、俺は囲いに背中をつけた。
トタンが、かすかに鳴った。
霜の上に、運動靴の跡がついている。
待合の口から道の端まで、四つ。
その先は、ない。
アプリの印は小津町を離れて坂の下へ動き、恩方ターミナルの手前で消えた。
七時四十分過ぎのバスに乗るとき、運転手に聞いてみる。
「下で、学生服の子とすれ違わなかったかい」
「こんな時間、誰も歩いてないですよ」
月曜と同じ運転手だった。
今度は、笑わなかった。
その晩、圭太から動画が届く。
みんな動画と言うが、俺の口からはビデオしか出てこない。
押し入れには、女房が撮りためたビデオテープがまだ二十本ほどある。
女房が逝って三年、デッキは一度も動かしていない。
「じいちゃん、これ、じいちゃんじゃね?」
心霊スポットのビデオを上げている、誰かのページだった。
題は、小津町バス停、明け方、定点。
上がったのは、今朝の六時五十分。
青い明け方の光の中に、待合が映っていた。
道の向かいから撮っている。
画面の下の端に、丸い石の頭がいくつか見切れていた。
地蔵さんのすぐ脇の、その背丈くらいの低さから撮ったビデオだ。
待合の中に、俺が一人で立っている。
誰もいない左の隅に向かって、口を動かしている。
男の子は、映っていなかった。
代わりに、左の隅の地面に赤いものが置いてある。
指で、画面を広げた。
四角い箱だ。
朱塗りの、木の箱に見えた。
音を大きくしてみた。
川の音しか入っていない。
画面の俺は、あの子と話した時間よりずっと長く、しゃべっている。
書き込みが、いくつも付いている。
「じいさん、誰としゃべってんの」
「左の隅の赤い箱なに」
「月曜のやつには、箱なかったよな」
あの朝、向かいには誰もいなかった。
地蔵さんの前は、懐中電灯で一度なでている。
人がいれば気づく。
箱だって、あの子の足もとにあれば、照らしたときに見えている。
月曜にも撮られていたなんて、俺は知らない。
電話をかけると、圭太はしばらく黙った。
「加工かもね、箱だけあとから足すとか、簡単だし」
「誰が撮ったんだ」
「夜のうちにカメラ置いといたんじゃない、肝試しの人とか」
そうだな、と俺は言った。
そういうことにしておけば、眠れる。
金曜から日曜まで、谷を下りなかった。
柚子の木の下の落ち葉を掃いて、あとはこたつでテレビを見る。
一度だけ、押し入れを開けた。
ビデオテープの背に、女房の字で番組の名前が書いてある。
一本だけ、何も書いていないのがあった。
デッキに入れれば、何が映るかわからない。
俺は戸を閉めた。
土曜の夜は、娘から電話が来る。
「寒いんだから、病院くらいタクシーで行きなよ」
「西八王子まで、いくらかかると思ってんだ」
娘はため息をついて、施設のパンフレットの話をはじめた。
俺は、適当なところで切る。
月曜のリハビリを休もうか、何度も考える。
休めば、病院から娘に電話が行く。
娘はその日のうちに、町田から車で上がってくる。
そうなれば、施設に入れという話の続きだ。
それに、向かいにカメラがあるなら、この目で見ておきたかった。
次の月曜、六時十分。
いつもより、霜が厚い。
待合に入る前に、道のこっちから向かいを照らした。
地蔵さんが並んで、脇に祠がある。
三脚も、小さな機械も見当たらない。
懐中電灯を下に向けて、手を合わせた。
渡りはしなかった。
待合に、懐中電灯を戻す。
誰もいない。
左の隅に、箱があった。
朱塗りの木の箱だった。
弁当箱を二つ重ねたくらいの大きさで、蓋に細い紐が十文字にかけてある。
角だけ朱がはげて、木の地が出ていた。
蓋の上に、霜がうっすら乗っている。
ゆうべのうちから、ここにあったわけだ。
中に何が入っているかは、考えないことにした。
あの子が来ていないのが、かえって落ち着かない。
山の家では、道ばたの知らない物に手を出さない。
お袋にそう言われて育った。
俺は箱からいちばん遠い、右の柱のそばに立った。
電池がもったいないので、懐中電灯を消して上着にしまう。
右手は、そのままポケットに入れた。
帰ろうかと思う。
家までは暗い上り坂で、三十分ではすまない。
七時四十分過ぎのバスに乗らなければ、娘に電話が行く。
尾根の上が、少しずつ白くなってくる。
谷の底は、まだ夜の色のままだ。
六時二十四分。
ポケットのスマホが震えた。
左手で出すと、圭太からだった。
あれから圭太は、あのページに通知が来るようにしていたらしい。
「じいちゃん、また上がってる、いまそこにいる?」
開くと、同じ題のビデオだった。
上がったのは、二分前。
道の向かいの低いところから、待合を撮っている。
右の柱のそばに、俺がいる。
左の隅に、赤い箱。
箱の横に、学生服の男の子が立っていた。
男の子は、右手を坂の下へ上げている。
画面の中の俺も、同じように右手を上げていた。
俺の右手は、ポケットの中だ。
上げてなんかいない。
顔を上げて、向かいを見た。
地蔵さんの影しかない。
撮っている奴がいるなら、画面の明かりくらいは見えるもんだ。
アプリに切り替える。
自由乗降の欄に、バスの印があった。
すぐに、小津町の欄へ移る。
到着の表示が出た。
坂の下から、冷たい風が上がってくる。
軽油の匂いがした。
胸を、押される。
右の手首に、何かが触った。
細くて冷たい、小さな指だった。
それが俺の手をポケットから引き出して、上へ持ち上げようとする。
左手のスマホが落ちて、霜の上で跳ねた。
画面が上を向いて、バスの印が光っている。
俺は左手で、右の手首をつかんだ。
力いっぱい下へ引いて、腹に押しつける。
膝が鳴った。
それでも、離さない。
握った左手の中で、脈が二つ打っている。
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