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対馬オソロシドコロ、ひじをかりた

高校の同級生三人が、十月の終わりに対馬へ行った。
三人とも四十二で、今も福岡に住んでいる。
話は一人ずつ、別の日に聞いた。
食い違うところは、直さずに並べておく。

河野の話。

言い出したのは俺だ。
ネットでオソロシドコロって名前を見てから、ずっと頭に引っかかってた。
恐ろしい所、と書いて、そう読むんだと。
対馬の南の端、豆酘の近くの山の麓にある。
天道法師っていう、昔の偉いお坊さんの墓と伝わってる場所だ。

坂口に話したら、すぐ乗ってきた。
あいつは中学で社会を教えてて、こういう話に詳しい。
宮原は、男二人じゃ危なっかしいって付いてきた。
三人で泊まりの旅行なんて、高校の修学旅行以来になる。

博多から壱岐に寄る船に乗って、厳原に渡った。
港の近くで車を借りて、島の南へ下る。
山と入り江が交互に出てくる道で、坂口は助手席でずっと地図を見てた。
豆酘の民宿に着いたのは、三時を少し過ぎた頃だ。

港のそばの、二階建ての古い民宿だった。
部屋は二階の八畳で、窓を開けると潮の匂いが入ってくる。
女将さんは六十くらいで、よく笑う人だ。

荷物を置いてすぐ、俺は充電器を差すコンセントを探してた。
窓の下に、古い文机がある。
コンセントは、その脇にあった。
ついでに引き出しを開けたら、四つに畳んだ紙が一枚入ってた。
手帳を破ったような、罫線のある紙だ。
鉛筆で、ひらがなばっかり六行。

「はしのてまえで おりる」
「かわは いしのうえ」
「とりいの てまえまで」
「あしあとは ふまない」
「うしろむきで もどる」
「ひじを かりた」

宿の案内かと思ったけど、宿の名前はどこにも書いてない。
坂口に見せたら、八丁郭への行き方だと言った。
「調べてきた道と、順番が合っとる」
橋、川、鳥居。
明日行くつもりの場所の、そのままの順番だった。

「最後だけ、過去形なんよな」
坂口はそう言って、紙の端を指でなぞる。
ひじを、かりた。
川で滑って誰かに支えてもらったんやろ、と俺は笑った。
念のため写真を一枚撮って、紙は引き出しに戻しておく。

晩飯のとき、女将さんに紙のことを聞いてみた。
「さあ、前のお客さんのやろかね」
知らない、という顔だった。
明日八丁郭に行くと言うと、お茶を注いでた女将さんの手が、一回だけ止まる。
「今はお参りしてもよかことになっとるけど、うちらは行かんね」
帰りは後ろ向きで戻る、というのは昔から言うらしい。
「ここ何日か雨も降っとらんけん、道は歩きやすかよ」
それだけ言って、刺身の皿を一枚足してくれた。

次の日は、朝から晴れてた。
十月の終わりなのに、日なたにいると汗ばむくらいだ。
多久頭魂神社に寄ってから、昼前に浅藻のほうへ車を回した。

浅藻の集落を抜けて、内院へ上がる道が細くなる手前で、左に小さな案内が出てる。
田んぼの間の細い道を、行き止まりまで進んだ。
小さな橋の手前に車を停めたのが、十一時五十分。
ほかに車は一台もない。

坂口が、厳原のスーパーで買った塩の袋を出した。
三人で肩と足元に振って、手のひらを払う。
入る前に塩で清める、というのが今の決まりなんだそうだ。
俺たちは入らない。
鳥居の手前までと、船の上で決めてあった。
それでも坂口は、袋の口をきつく縛ってポケットにしまった。

車を離れて少し歩くと、細い川がある。
水から顔を出した石を伝って、向こうへ渡る。
水は浅くて、底の砂利が一つ一つ見えた。
その先に説明板が立ってて、さらに奥に古い木の鳥居がある。
柱は黒ずんで、根元に苔がついてた。
鳥居の向こうから、森になる。

説明板の字は日に焼けて、半分くらいしか読めない。
奥へ十分ほど登ると、石を積んだ四角い塔があると聞いてた。
高さは三メートルくらいだと、坂口が言う。
俺たちは、それを見ていない。
見ないと決めてきた。

木の名前も、坂口がいくつか言ってたけど覚えてない。
とにかく葉が厚くて、上が全部ふさがってる。
昼の十二時なのに、鳥居の向こうは夕方みたいに暗い。
こっち側には、まだ田んぼの光が届いてる。
湿った土と、青い葉の匂いが、鳥居の中から流れてきた。
奥で、鹿が一回、高い声で鳴いた。

あれ、と宮原が小さく声を出す。
鳥居の向こうの湿った土に、足跡がある。
裸足だ。
指の形まで、ちゃんと分かる。
森の奥から、こっちへ向かって並んでた。
七つか八つ。
最後の一つが、鳥居の柱と柱の間で止まってる。
戻っていく跡は、ない。

窪みには、どれも水が溜まってた。
雨は何日も降ってないと、女将さんが言ってたはずだ。
水は澄んでて、底の土の色が透けて見える。
上の石積みのところは裸足で参るらしい、と坂口が言った。
誰かがさっき、裸足で降りてきたんだろう。
そう思うことにした。
その誰かは、俺たちの横を通ってないのに。

写真を撮ろうと思った。
鳥居はくぐらない。
柱の一歩手前で足を止めたまま、上半身だけ少し前に倒して、携帯を足跡に向けた。
やめとけ、と頭の中で自分の声がする。

そのとき、胸を押された。
手のひらだ。
シャツの上から、みぞおちのあたりに、ぺたりと当たる。
冷たくはない。
人の手くらいの温かさで、ゆっくり、でも強く、俺の体を起こしていく。
二歩下がったところで、離れた。
左の斜め前に、宮原の肩が見える。

声は出なかった。
大声を出すなと、坂口に言われてたのもある。
でもそれより先に、喉が閉まってた。
宮原が振り向いて、俺のシャツの胸を見てた。
あとで聞いたら、そこだけ手の形に平らになってたらしい。

帰ろう、と坂口が言った。
俺もうなずいた。
背中は向けない。
鳥居を見たまま、後ろ向きで車まで戻る。
一番後ろが坂口、真ん中が宮原、鳥居に一番近いのが俺だ。

下がりながら、足跡から目が離せなかった。
窪みの水が、揺れてた。
風はない。
鳥居の間の、一番手前の足跡だけ、水の面が細かく震えてる。
その場で誰かが足踏みしてるみたいだった。

後ろで、じゃりっと石の鳴る音。
首だけ振り向くと、坂口が川の石の上に立ってた。
宮原が支えたんだと思った。
俺は一番前で、五歩は離れてたから。
もう一回前を見たら、足跡の水は揺れてなかった。
袖のことなんか、そのときは頭になかったよ。

宮原の話。

私は、母に箱を持たされてた。
黒い漆の、長細い箱だ。
筆箱を二つ並べたくらいの大きさで、色の褪せた赤い紐が十字にかけてある。
母の実家に昔からある物で、中は見たことがない。
母が年の暮れに一回だけ開けて、中を拭いて、また閉める。
開けていいのは母だけ、というのが決まりだった。

対馬の山に行くと言ったら、母が仏間から出してきた。
「持っていき、邪魔にはならんけん」
理由は、聞いても言わない。
トートバッグの底に、タオルでくるんで入れた。
河野くんと坂口くんには、言ってなかった。
言ったら笑われると思ったから。

二日目の朝、最初に多久頭魂神社へ寄った。
豆酘にある古い神社で、境内は木がびっしり茂ってる。
石の鳥居をくぐると、車の音が急に遠くなった。
坂口くんが言うには、もともと社殿がなくて、山を拝むための場所だったらしい。
その奥に、今でも人が入っちゃいけない森がある。
不入坪、という。
縄が張ってあって、向こうは木の影で暗かった。

縄の手前で、私は森を見てた。
入る気なんてない。
写真も撮ってない。
ただ立って、見てただけ。
そしたら、肩のバッグが後ろへ引かれた。
持ち手に指を引っかけて、くいっと。
子どもが親の服を引っぱるくらいの、軽い力だ。

河野くんがふざけたんだと思って、振り向いた。
河野くんは石の鳥居のとこで、こっちに背中を向けて電話してる。
坂口くんは、私の右の、ずっと離れたとこ。
誰よ、と言いかけて、飲みこんだ。
バッグの底で、箱がことんと鳴った。

八丁郭の鳥居では、私は河野くんの左の、一歩後ろにいた。
足跡を見つけたのは私だ。
言わなきゃよかったと、今でも思う。

河野くんが体を前に倒したとき、急に、後ろへ戻ってきた。
押し返されたみたいに、二歩。
私の横を過ぎて、右の後ろで止まる。
振り向くと、シャツの胸のとこが、手の形にぺたんと平らになってた。
指を五本、開いた形。
すぐに皺が戻って、分からなくなった。
河野くんは口を開けたまま、何も言わない。

走って逃げたかった。
でも、背中を向けるわけにいかない。
鳥居を見たまま、私が先に下がって、河野くんと前後を入れ替える。
後ろ向きに歩くのは、思ったよりずっと怖かった。
足元が見えない。
目の前には河野くんの背中と、その向こうの鳥居。
バッグの持ち手を握って、かかとで一歩ずつ地面を探す。
後ろからは、坂口くんの靴の音が聞こえてた。

川のとこで、その音が止まる。
石が鳴って、水がはねた。
振り向いたら、坂口くんが前のめりに倒れかけてた。
大声は出すな。
転ぶな。
坂口くんに言われてたことが、両方いっぺんに頭に浮かんだ。
私は、両手で口をふさいだ。

坂口くんは、倒れなかった。
体が斜めのまま、止まってる。
右の袖が、後ろへピンと張ってた。
肘のとこを後ろからつままれて、引っぱられてるみたいに。
袖の後ろには、川しかない。
それから坂口くんは、ゆっくり体を起こした。

車に戻ると、行きは助手席だった坂口くんが、黙って後ろの席に座った。
私も後ろに乗って、バッグを二人の間に置く。
エンジンがかかったとき、バッグが坂口くんのほうへ、ことんと倒れた。
その腕に、もたれる向きで。
坂口くんの右の袖、肘のとこに、濡れた跡がある。
指の形が四つと、反対側に一つ。
宿に着く前に、日に当たって乾いてしまった。

宿の階段を上がるとき、バッグが重かった。
タオルと箱と財布しか入ってないのに、持ち手が指に食いこむ。
箱がもう一つ増えたくらいの重さ。
このことは、今も二人に言ってない。

坂口の話。

僕は、ちゃんと調べていったつもりだった。
八丁郭は、天道法師が入定した場所だと伝わってる。
母親が日の光を受けて身ごもり、生まれた子だという。
都で、天皇の病気を祈って治した話もある。
龍良山の南の麓で、昔は坊さんと山伏しか近づけなかった。
今は禁足が解かれて、市の史跡になってる。

決まりも、覚えていった。
塩で清める。
大声を出さない。
転ばないように気をつける。
拾った物は持ち帰らない。
帰りは背中を向けずに、後ろ向きで戻る。

昔は、間違って入ってしまったら、わらじを頭に載せて後ずさりで出たそうだ。
インノコ、インノコと唱えながら。
自分は犬の子です、という意味らしい。
転んだら、片袖をちぎって身代わりに置いていく。
船の上で話したら、河野は笑ってた。
「わらじなんか持っとらんばい、靴を頭に載せるしかなか」

あの紙を見たとき、僕は道順より、最後の一行が気になった。
ほかは全部、これからすることの書き方だ。
最後だけ、もう済んだことになってる。

鳥居の前では、僕は一番後ろの、説明板の横にいた。
河野が押し戻されるのも見てる。
冗談じゃなくて、本当に足が二歩、勝手に下がってた。
だから、すぐ帰ろうと言った。

後ろ向きのまま、かかとで地面を探して下がる。
一歩ごとに、転ぶな、と頭の中で言ってた。
川の石は、行きにも渡ってる。
一つ目に乗って、二つ目に足をかけたとき、かかとが苔で滑った。

体が前にのめる。
片袖、という言葉が頭をよぎった。
膝から石に落ちる。
そう思った瞬間、右の肘を後ろからつかまれた。

指が四本、肘の内側に食いこんで、親指が外側にある。
濡れてた。
川の水と同じくらい冷たい。
それで、ぐいっと後ろへ引き戻された。
倒れずにすんだ。

河野か宮原だと思った。
悪い、と言いかけて、前を見る。
二人とも、前にいた。
宮原は口を押さえてこっちを見てて、河野はその向こうで首だけ振り向いてる。
僕の後ろは川で、その先は橋と田んぼしかない。
木の枝が袖に引っかかったんだ、と考えた。
川の上に、枝なんか一本も出てなかったけど。

立ち直っても、手は離れなかった。
さっきほど強くない。
指の先を、肘に軽く引っかけてるだけ。
その持ち方を、僕は知ってる。

親父は何年か前から目を悪くして、出かけるときは僕の肘をつかんで歩く。
前を行く人の肘を、後ろから軽く持つ。
目の見えない人は、そうやって道を教えてもらうんだ。
あのときの指は、親父と同じ持ち方だった。

支えてもらったんじゃない。
肘を貸してるのは、僕のほうだ。
そう分かってからも、足は止められなかった。
止まったら、今度こそ転ぶ。
残りの石を渡って、橋まで、後ろ向きのまま歩いた。
肘には、ずっと指がかかってた。

なんで後ろの席に乗ったのか、自分でも分からない。
座ったとき、指が離れた。
たぶん、離れた。
宮原のバッグが僕のほうへ倒れてきたのは、覚えてる。

宿に戻って、真っ先に文机の引き出しを開けた。
あの紙を、もう一回見たかったから。
でも、引き出しは空だった。
女将さんに聞くと、部屋の掃除は、僕らが発つ朝にするという。
誰も入ってないはずよ、と言われた。
河野の携帯の写真には、六行とも、ちゃんと写ってた。
紙だけが、ない。

宮原の話の続き。

福岡に戻って二週間して、箱を母に返しに行った。
母は仏間でそれを受け取ると、開けると言う。
年の暮れでもないのに。
「人に持たせたら、中を見るもんたい」
母が、赤い紐をほどく。

蓋が開いた。
白い紙の包みが入ってる。
私が中を見るのは、それが初めてだった。
包みの上に、四つに畳んだ紙が一枚、載ってた。
罫線のある、手帳を破ったような紙。
河野くんの携帯で見た、あの紙だ。

息が止まった。
母が、指の先でそれを開く。
折り目のところだけ、まだ湿ってる。
鉛筆の、ひらがなの六行。
その下に、同じ字で、もう一行あった。

「まだ かえしていない」

母は何も聞かなかった。
紙を元のように畳んで、包みの上に戻す。
蓋をして、紐を二重に結んだ。

河野くんと坂口くんには、写真は撮らずに、口で伝えた。
河野くんはその晩、携帯に残ってたあの写真を消したらしい。
坂口くんは、階段を下りるとき、右の肘を少し体から離すようになった。
この前三人で集まったときに、見た。
本人は、気づいてない。

箱は今も、母の家の仏間にある。
あの紙は、中に入れたままだ。
母は毎朝、仏間に入って、紐の結び目を確かめてるそうだ。

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