八幡の藪知らずの前で、田辺を十分だけ待たせた。
それだけの話だ。
それだけの話を、俺はまだ誰にも言えていない。
勤め先は看板屋で、人は社長を入れて五人しかいない。
俺は係長で、田辺は二年目の後輩だ。
田辺は入った日から俺を係長と呼ぶ。
社長がそう呼ばせた。
五人の会社で肩書きを言うのは変だと思っていたが、二年もすると耳が慣れた。
その日は市川市役所へ、店の表に看板を出すための書類を出しに行った。
出す前に、現場の写真が要る。
看板を置く場所と、前の歩道の幅が分かる写真を何枚か撮っておけと社長に言われていた。
現場は千葉街道沿いの店の前で、市役所の斜め向かいだった。
会社の車を市役所の駐車場に入れて、横断歩道を渡る。
渡ったところが、藪だった。
知らなかったわけじゃない。
入ると出られない藪が市川の街中にある、という話は、子どものころに聞いていた。
ただ、こんなに道に近いとは思っていなかった。
歩道のすぐ横に、腰の高さほどの石の柵が並んでいる。
柵の向こうは竹だけだ。
太い竹が、人の背の三倍はある高さで詰まっていて、奥が見えない。
一辺が十八メートルほどだと、あとで知った。
家が三軒ほど建つくらいの広さだ。
それでも、中が見えない。
柵に手を置くと、石が冷たかった。
日の当たらない側の石の冷たさだった。
街道側の柵が内側に凹んでいて、その凹みに鳥居と小さな祠がある。
鳥居の脇には市の案内板と、古い石碑が立っていた。
江戸のころから、入ってはいけない場所として知られていたと書いてある。
なぜ入ってはいけないのかは、言い伝えがいくつも並んでいて、どれも最後は、分からない、で終わっていた。
田辺は案内板を読み終えると電話で何か調べて、水戸黄門も入ったらしいですよ、と言った。
「入って、出てきたんだろ」
「出られたから話が残ってるんですよね」
俺たちはそんなことを言いながら、歩道の幅を測った。
五時を少し回っていた。
日が落ちかけて、街道の車がライトを点け始めている。
向かいの市役所は窓の明かりが縦に並んで、建物ごと白く見えた。
歩道には人が多い。
自転車が俺たちの横をすり抜けていく。
その中で、竹の方からだけ空気が冷えていた。
排気の匂いに、濡れた葉の匂いが混ざる。
メジャーを持つ指が、少しかじかんだ。
測っている間に、買い物のカートを引いた年寄りの女の人が、鳥居の前で止まった。
手を合わせて、頭を下げる。
それから鞄から白い手ぬぐいを出して、柵の角の石の上に掛けた。
掛けたまま、しばらく動かない。
使い古した白で、角が一か所だけ黄ばんでいた。
十秒ほどして手ぬぐいを取り、きれいに畳んで鞄に戻した。
田辺が聞いた。
「それ、何かのおまじないですか」
女の人は田辺を見て、それから俺を見た。
「ここのはね、こうするの」
それだけだった。
「あんた、待つ人?」
田辺と俺の間を見て、そう言った。
田辺は意味が分からないまま、はい、と答えた。
「じゃあ袖、中に入れときなさい」
女の人はカートを引いて、八幡宮の方へ歩いていった。
田辺は肘まで上げた上着の袖を見て、笑った。
寒くても袖を上げているのが、田辺の癖だ。
「袖ってなんですかね」
「分からん。言われたんだから下ろしとけ」
田辺は袖を下ろさなかった。
俺もそれ以上は言わなかった。
人の家の作法に口を出す感じがして、言いにくかった。
俺の電話で店の前を何枚か撮って、書類の束を確かめた。
窓口は五時十五分までだと聞いていて、もう時間がない。
俺が出しに行く。
田辺には、歩道の写真をもう何枚か撮っておけと言った。
「柵に沿って、端まで撮っておきます」
田辺は書類鞄を肩に掛け直して、電話を出した。
俺は横断歩道を渡った。
街道は片側二車線で、信号が長い。
渡っている間、背中に竹の冷えが付いてくる感じがして、一度だけ襟を立てた。
渡る途中で振り返ると、田辺は鳥居の前で竹を見上げていた。
小さく口を開けて、上を見ていた。
市役所の窓口は空いていた。
担当の女の人が書類を一枚ずつ確かめて、受領書は後日になると言う。
提出者の欄の片岡の字を指で押さえて、ご本人ですね、と聞かれた。
はい、と答えた。
横の壁は一面のガラスで、街道の車のライトが流れていた。
向かいまでは見なかった。
窓口の後ろの壁に時計があって、五時十二分を指していた。
出るときに見たら、五時二十三分。
十分と少し。
それだけだ。
外に出ると、暗くなっていた。
信号待ちの間、向かいの藪が見えた。
竹は黒い塊になっていて、鳥居だけが街灯で白い。
田辺は、鳥居の前に立っていた。
こちらに背を向けて、竹の方を向いている。
車が通るたびに、ライトが田辺の黒い背中を右から左へなぞった。
信号が変わって渡った。
鳥居の前は、来たときより冷えていた。
風は無い。
それなのに、竹の上の方で葉がこすれる音が続いていた。
声を掛けると、田辺はすぐに振り向いた。
顔は田辺だった。
「終わりました?」
「終わった。帰るぞ」
田辺は歩き出した。
最初に目が行ったのは鞄だった。
肩に掛けていた書類鞄を、田辺は手にぶら下げていた。
持ち手に指を二本引っ掛けて、腕を伸ばしたまま、鞄の底が膝の横で揺れている。
重いものを入れた持ち方だった。
中身は空のファイルが二冊だけだ。
「肩、痛いのか」
「いえ」
それだけ言って、田辺は持ち方を変えなかった。
次に、歩き方だった。
藪の柵には、石の柱が等間隔に立っている。
田辺は柵に沿って歩きながら、柱の前を過ぎるたびに、右足を少し高く上げた。
段差はない。
歩道は平らだ。
それでも、何かを跨ぐ形に足を上げて、置く。
一つ目の柱で気づいて、二つ目、三つ目でも同じだった。
四つ目で、俺は田辺の足元を見るのをやめた。
見ていると、自分の足も上がりそうだったからだ。
横断歩道の手前で、田辺が言った。
「片岡さん、車の鍵、持ってます?」
俺は足を止めた。
社内で俺を片岡さんと呼ぶ人間はいない。
取引先の人間でも、社長が係長と言うのを聞いて、そう呼ぶ。
「なんだ、その呼び方」
田辺は首を傾げた。
「え、変でした?」
変だ、と言えなかった。
言えば、何が変なのかを自分で説明することになる。
鞄と足と呼び方だ。
三つ全部、人に話せば笑われるくらい小さい。
それが三つ、十分の間に揃った。
理屈は付けられる。
十分も一人で待てば、人は暇をつぶす。
鞄くらい持ち替える。
段差のない所で足を上げるのは、靴の中の砂でも気になったからだろう。
呼び方は、ただの言い間違いだ。
俺は頭の中でそう並べた。
並べ終わる前に、田辺の袖口が目に入った。
袖は下ろしてあった。
いつ下ろしたのか。
その袖口から、白い布がはみ出している。
手ぬぐいを、手首に巻いていた。
「それ、どうした」
「さっきのおばあさんが、くれたんですよ。片岡さんが行ってる間に、戻ってきて」
「あの人、八幡宮の方に行ったぞ」
「戻ってきたんです」
手ぬぐいの端が、車が過ぎるたびに揺れた。
角が一か所、黄ばんでいる。
あの女の人は、その手ぬぐいを十秒だけ柵に掛けて、畳んで鞄に戻した。
置いていかない、という手つきだった。
それを人の手首に巻かせて帰るか。
そう思ったが、言わなかった。
言わないで、信号が青になるのを見ていた。
帰りの車で、田辺はよく喋った。
柵の端まで写真を撮ったこと。
石碑の字が読めなかったこと。
竹が風で鳴って、鳴るたびに中の方で何かが折れる音がしたこと。
全部、行く前の田辺と同じ声だった。
同じ声で、俺を片岡さんと呼んだ。
三回数えて、数えるのをやめた。
途中で一度、田辺が窓を少し開けた。
「竹の匂い、まだしますね」
俺にはしなかった。
ハンドルを握る手が、ずっと湿っていた。
会社に戻ると、社長が残っていた。
田辺は鞄を机に置いて、お疲れさまです、と言った。
社長が、おう、と返した。
社長は田辺の方を見なかった。
俺は社長に呼び方のことを言おうとして、やめた。
言ったところで、社長は俺の顔を見て、疲れてんだろ、と言うだけだ。
たぶんそのとおりだ。
そう思って、帰った。
その夜、田辺が自分の撮った分の写真を共有フォルダに上げた。
枚数は二十枚ほどで、柵、鳥居、案内板、柵の端と続く。
時刻は五時十六分から五時二十一分まで。
俺が窓口にいた時間だ。
十七枚目で、手が止まった。
時刻は五時十九分。
柵を正面から撮った一枚だった。
石の柱の間に、人の背中が写っている。
黒い作業用の上着で、俯いているのか、首が見えない。
竹の方を向いて、柵に両手を置いて立っている。
うちの会社の上着だ。
背中に小さく入った白い字が、うちの社名に見えた。
俺は椅子の背に掛けた、自分の上着を見た。
同じ上着だ。
田辺も同じものを着ている。
だから、田辺が自分の背中を撮れるわけがない。
俺は市役所の中にいた。
時計を見ている。
通行人だと思うことにした。
黒い上着は珍しくない。
社名に見えたのは、見慣れた字だからだ。
拡大しなかった。
拡大すれば、読めてしまうと思った。
電話を伏せて、台所で水を飲んだ。
喉を通る水の音だけが、しばらく部屋にあった。
翌日、田辺は普通だった。
鞄を肩に掛けて、段差のない床を普通に歩いて、俺を係長と呼んだ。
袖は肘まで上げていて、手首に手ぬぐいは無かった。
「昨日、俺のこと何て呼んでた」
「係長ですけど」
田辺は本気で分からない顔をした。
俺はそれ以上聞かなかった。
聞いて、田辺が困る顔を見たくなかった。
あの女の人の、待つ人、という言い方だけが、昼過ぎまで耳に残った。
写真のことも言わなかった。
共有フォルダの十七枚目は、まだそこにある。
田辺が消していないから、俺も消せない。
消す理由を、田辺に聞かれたくない。
受領書を取りに行ったのは、三日あとだった。
田辺は別の現場に出ていて、俺が一人で行った。
夕方で、同じ時刻だった。
市役所の駐車場に車を入れて、横断歩道の手前まで行って、渡らなかった。
藪は向かいにある。
見るだけなら、ここからでも見える。
鳥居の白と、黒い竹と、柵の石の列。
柵の前に、人はいなかった。
車のライトが、誰もいない柵を右から左へなぞっていった。
いないのを二度確かめてから、庁舎に入った。
窓口は、あの日と同じ女の人だった。
後ろの壁の時計は、五時十四分。
俺の上着を見て、ああ、と言った。
「先日の。今日はお一人で」
「はい。受領書を」
女の人は引き出しから封筒を出して、確かめながら言った。
「この前は、お連れの方が出されましたよね」
俺は、はい、と言いかけて止まった。
「あなたは外の、鳥居のところで待ってらした方」
封筒へ、手だけが出た。
声は出なかった。
出したのは俺だ。
この窓口で、あの壁の時計を見ながら、書類を一枚ずつ確かめてもらった。
待っていたのは田辺だ。
鳥居の前で、口を開けて竹を見上げていた。
女の人は気にせずに続けた。
「ガラス越しに見えてましたよ、こちらから。ずっと竹の方を向いて、柵に手を置いたまま動かないで。寒いのに大変だなって」
それから封筒の宛名を指で押さえて、言い足した。
「ご本人の確認だけ。片岡さんで、よろしいですね」
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