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第二今泉踏切、真ん中の席のベルト

篠原がタクシーに乗り始めて六年になる。
宇都宮の会社で、ここ二年は夜の勤務だけにしている。
昼より客が少なく、その分、一人ひとりが長い。
駅東口の乗り場で始発を待つ時間が、いちばん落ち着く。
無線が黙って、客も来ない。
篠原はその時間に、日報の数字を埋めることにしていた。
車は会社でいちばん古い一台で、後ろの座席のばねが鳴る。
客が乗るたびに、きゅう、と鳴く。
篠原はその音で、客の体の重さを当てる遊びを、一人でしていた。

秋の終わりの、四時を少し回ったころだった。
東口の乗り場には、篠原の車しかいなかった。
男の人が一人、歩いてきて、後ろのドアの前に立った。
篠原はボタンを押して、ドアを開けた。

五十代の半ばに見えた。
紺の作業の上着に、肩掛けの鞄。

乗り込んで、男の人は行き先を言った。
「今泉の、踏切の向こう。第二の方」
はい、と篠原は答えた。
上着から、機械油の匂いがした。
夜の勤めを終えて帰る人の匂いだと思った。
お仕事帰りですか、と聞くと、男の人は、迎えに、と言った。
迎えに行く人が、この時間に帰るのか。
篠原はそこで、聞くのをやめた。
メーターの人数のボタンを、一人、で押した。
第二今泉踏切は、駅から北へ八百メートルほどの所にある。
線路沿いの住宅街で、道が細い。

その踏切の名前は、入社した年に先輩から聞いていた。
あそこは止まるな。
止まっても、後ろを見るな。
理由は教えてもらえなかった。

聞き直すと、先輩は、止まった奴が何人かいる、とだけ言った。
何人か、の先がなかった。
北の方に昔の刑場があったと、別の先輩が言っていた。
踏切と刑場は場所が違う、と篠原は自分で調べて知っている。
知っていても、夜にあの道を使うことは、あまりなかった。
一度だけ、二年前の冬に通っている。
その時は何もなかった。
何もなかったので、先輩の言葉は半分、笑い話になっていた。

駅前の明かりを抜けると、道は急に暗くなる。
住宅の窓はどこも暗い。
電線が低く、信号も黄色の点滅に変わっていた。
男の人は、鞄を膝に置いて、窓の外を見ていた。
話しかけてはこない。
篠原も話しかけなかった。

踏切の手前で、警報が鳴った。
赤い灯が左右に振れて、遮断機が下りてきた。
篠原は停止線で止めた。
時計は四時十二分。
上りも下りも、まだ始発の時間ではない。
回送か、貨物か。
線路の左右を見た。
どちらにも、列車の明かりはなかった。
篠原は、自分の息の数を数え始めた。
数えると落ち着くのは、子どもの頃からだった。

ミラーを見た。
男の人は、動いていなかった。
その向こう、後ろの道に、車のライトが一つあった。
だいぶ離れた所で止まっている。
ついてきた覚えはない。
駅を出てから、後ろに車はいなかった。
ライトは二つとも点いていて、高さが低い。
乗用車の高さだった。
篠原はライトから目を外して、前を向いた。
無線が一度、鳴った。
配車の係が、別の車の番号を呼んでいる。
篠原の番号ではない。
それでも、手がマイクの方へ動いた。
誰かの声を聞きたかったのだと、後で思った。

そのとき、車の後ろが沈んだ。
大きい人が後ろの席に乗った時の、あの沈み方だった。
座席のばねが鳴って、車体が一度揺れて、止まった。
ドアは閉まっている。
ロックも掛かっている。

篠原はミラーを見ないで、ハンドルを握り直した。
道が傾いているのだろう、と思った。
停止線の手前は、少し下っている。
そう思うことにした。
手のひらが、ハンドルの革に貼り付いていた。
「すみません、ちょっと揺れましたね」
男の人は、少し間を置いてから言った。
「いつもです」

警報は一分ほど鳴り続けた。
その間、線路のレールだけが、遮断機の赤を映して光っていた。
音が止んだ。
遮断機が上がった。
列車は一本も通っていない。
篠原はゆっくりと踏切に入れた。
線路の継ぎ目で、車体が二度跳ねた。
後ろが重いままなのが、跳ね方で分かった。

渡り切ってすぐ、後ろで警報が鳴り出した。
ミラーの中で、遮断機がまた下りていく。
列車は来ない。
ついてきていたはずのライトも、無かった。
道は暗く、まっすぐで、何もない。
篠原は、見なかったことにして、アクセルを踏んだ。

線路沿いの道を北へ走った。
道が細くなり、街灯の間隔が開いた。
男の人が、道を言い始めた。
次を右。
その先、左。
声は小さく、篠原にというより、隣の誰かに言っているように聞こえた。
篠原は、はい、と返事をして、言われたとおりに曲がった。

曲がった先で、男の人が、ぽつりと言った。
「線路ができる前は、こっちもあっちも、一つの村だったんです」
篠原は、そうなんですか、と答えた。
「家はこっち、墓はあっち。渡らないと、行けなくなった」

それで踏切ができた、と男の人は言った。
誰に向けた話なのか、分からなかった。
篠原は、ミラーを見ないで聞いていた。

首の後ろに、何かが当たった。
座席の頭の所を、後ろから押された感じだった。
客が前のめりになる時に、よくある。
手で掴んで、体を起こす。
その感触だった。

ミラーを見た。
男の人は、右の窓の側に座って、両手を膝に置いていた。
前のめりにはなっていない。
篠原の頭の後ろに、男の人の手は届かない。
それでも、押されたままだった。
一定の力で、ずっと。

篠原はミラーの角度を少し下げた。
後ろの席が全部入るように。
真ん中の席のシートベルトが、引き出されていた。
金具が差し込まれて、ベルトは斜めに張っている。
誰も座っていない席に。
男の人は、そのベルトの横で、膝を見ていた。
乗る時に、男の人が自分で締めたのかもしれない。
乗る時のことを、篠原は思い出そうとした。
思い出せたのは、ドアのボタンを押した自分の指だけだった。

メーターを見た。
人数の表示が、二人、になっていた。
押した覚えはない。
手は、ハンドルから離していない。
篠原は表示から目を外した。
機械は、たまに間違える。
そう思うことにして、思えなかった。

「お客さん」
篠原は、言ってから、何を聞くのか決めていなかった。
男の人は、はい、と答えた。
後ろの、締めました、と聞いた。
男の人は、少し黙った。
「締めてません」
それから、言った。
「もう少しです」
篠原は、それを答えにした。

目的地は、住宅街の行き止まりにある一軒家だった。
門灯は消えている。
家の中は暗い。
表札はあったが、字は読まなかった。
読まないようにした。
塀の内側に物干しがあって、竿には洗濯ばさみだけが、間を空けずに並んでいた。
篠原は車を寄せて、メーターを止めた。
千二百円。
男の人は、小銭を数えて、きっちり渡した。

その時、家の方から音がした。
しゃ、しゃ、と水の中で手を動かす音。
米をとぐ音だ。
篠原の実家で、朝に母が立てていた音と同じだった。
四時二十分過ぎに、暗い家の中で、誰かが米をといでいる。
台所の窓には、明かりがない。
音だけが、規則正しく続いている。
篠原はその音を、懐かしいと思いかけて、やめた。
「待ってる人がいるんで」
男の人は、そう言った。

篠原はドアのボタンを押した。
ドアは開かなかった。
もう一度押した。
開かない。
モーターの音だけがして、ドアは動かなかった。
男の人は急がなかった。
膝の上の鞄を、両手で押さえていた。
降りるつもりが無いようにも、見えた。
篠原は三度目に、ボタンを押す前に、息を一つ吐いた。
押した。
開いた。

男の人が降りた。
鞄を持って、門の方へ歩いていく。
車の後ろは、沈んだままだった。
一人降りたのに、軽くならない。
ミラーの中で、真ん中のベルトは、まだ張っていた。

門の前で、男の人が振り返った。
篠原を見て、それから、車の後ろの席を見た。
何も言わなかった。
軽く頭を下げて、鍵を使わずに戸を開け、家の中に入っていった。
米をとぐ音が、止まった。

篠原は、ドアを閉めなかった。
エンジンを掛けたまま、座席の間から後ろへ手を伸ばした。
真ん中のベルトの金具に、指が触れた。
金具は冷たかった。
冬の朝の、金属の冷たさだった。
押すと、音がして、ベルトが巻き取られていった。
するすると、座席の脇へ戻っていった。

車の後ろは、まだ沈んでいた。
篠原は、開いたままの後ろのドアを見た。
そこから、暗い道が見えた。
誰もいない。
篠原は、ゆっくり、十まで数えた。
数え終わっても、何も変わらなかった。
無線が鳴った。
今度は、篠原の番号だった。
配車の係が、位置を聞いている。
篠原はマイクを取らなかった。
取れば、答える声が、自分のものでない気がした。

もう一度、数えた。
七のところで、車体が持ち上がった。
ばねが戻る音がして、後ろが軽くなった。
乗った時の沈み方の、逆だった。
座席のばねが、きゅう、と一度だけ鳴いた。
開いたドアの外で、砂利を踏む音が一つした。
一つだけで、続かなかった。
篠原は、後ろを見なかった。
先輩の言葉を、そこでやっと守った。

ドアのボタンを押した。
今度は一度で閉まった。
ミラーを元の角度に戻した。
後ろの席には、誰もいない。
真ん中のベルトは、座席の脇に収まっている。

空車の表示は、点けなかった。
点けないまま、来た道を戻った。
踏切の手前で、警報は鳴らなかった。
遮断機は上がったままで、篠原はそこを一度も止まらずに渡った。
線路の継ぎ目で、車体は軽く一度だけ跳ねた。
渡ってから、後ろの道にライトがあるかどうかは、確かめなかった。

駅東口に戻ると、空が少し明るくなっていた。
乗り場には、もう二台並んでいた。
篠原は列の後ろに着けて、エンジンを切った。
メーターの人数の表示は、一人、に戻っていた。
いつ戻ったのかは、分からない。

降りて、後ろのドアの窓を見た。
外側のガラスに、手のあとが付いていた。
大人の手だった。
指を開いて、ガラスを押した形。
内側ではなく、外側に。
篠原は自分の手を、そのあとに重ねてみた。
篠原の指の方が、一関節ぶん短かった。

篠原は、上着の袖で、それを拭いた。
拭いてから、運転席に戻って、日報を書いた。
乗客一名、千二百円。
踏切で止まったことは、書く欄がない。
書く欄がないので、書かなかった。

列の前の車から、先輩が降りてきて、篠原の車の後ろの窓を見た。
拭いたあとが、まだ残っていた。
先輩は何も言わず、自分の車に戻った。
篠原は、次の客が来るまで、運転席に座っていた。
次の客は、駅から西へ行く人だった。
篠原は、線路を渡らない道を選んだ。

舞台になった場所

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