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出流原弁天池の宿で、娘の爪が短くなっていた

池の水は、夜でも底まで見えた。

佐和子はそれを知らなかった。
夜の池は黒く沈むものだと決めていた。
宿の二階の窓から見下ろすと、外灯の光が水を通り抜けて、底の石まで届いている。
鯉が白く浮いていた。
宙に止まっているように見える。

栃木県佐野市の出流原弁天池。
三十年前、父に連れられて来た。
覚えているのは鯉の白さと、手を入れた水の冷たさだけ。
あの時も池のそばの宿に泊まったはずだが、どの宿だったかは思い出せない。
父はもう遠出ができない。
「結衣に鯉を見せてやれ」と言われて、十月の連休に車を出した。

結衣は七つ。
佐和子が初めてここに来た歳と、同じになる。

東北道を佐野藤岡で降りて、田んぼの中の道を北へ走った。
刈り終わった田に、稲の切り株が並んでいる。
結衣は後ろの席で、鯉は何色かとしつこく聞いた。
白いのと赤いのと、金色のがいる。
佐和子は三十年前の記憶で答えた。
嘘になっていないかどうか、自信はなかった。

宿は赤見温泉の小さな一軒だった。
池まで歩いて一分もない。
着いたのは午後四時を回った頃で、玄関で迎えた女将は腰の曲がった人だった。
割烹着の肩に、池の水の匂いがした。

「おかえりなさい」

宿の挨拶はそういうものだろう。
佐和子は靴を脱ぎながら、そう受け取った。
女将は結衣の顔を覗き込んで、目を細めた。

「大きくなったねえ」

初めてなんです、と言いかけて、やめた。
子供を見れば誰にでも言う言葉だ。
年寄りの口癖に目くじらを立てても仕方ない。

帳場で宿帳を書いた。
名前、住所、電話。
人数の欄に、二名。
自分の字でそう書いたのを、佐和子ははっきり覚えている。
ペンを置いた時、女将が宿帳を覗いて、小さく頷いた。

部屋は二階の角で、窓が池に向いていた。
廊下の板が一歩ごとに鳴る。
古い木の匂いに、水の匂いが混じっていた。
荷物を置いて、すぐ池へ出た。
日が傾いて、磯山公園の木の影が長い。
池の周りは百三十八メートルだと看板にあった。
一周するのに五分もかからない。

水は噂どおりだった。
底の水草の一本一本が数えられる。
鯉が泳ぐと、鱗の光が水底の石に映った。
水温は年中およそ十六度で、一日に二千四百立方メートルが湧くという。
名水百選の札が立っている。
池から流れ出す細い川が出流川で、下の養魚場や田んぼへ水を送っているらしい。

結衣がしゃがんで手を伸ばした。

「触っちゃだめ」

佐和子は腕を取った。

「ここの水は、下の人たちの暮らしの水になるの」

結衣は口を尖らせた。
それから鯉を数え始めた。
一、二、三。
同じ鯉を二度数えて、分からなくなって、また一から始める。

崖の中腹に、朱色の社が張り出している。
磯山弁財天。
階段は急で、夕方に登るには遅い。
階段の途中に白い蛇の手水舎があって、その上は暗くなりかけていた。
明日の朝にしようと決めた。

階段の下に、由来を書いた板が立っている。
朝日長者という長者の夫婦が、弁天に願って娘を授かった。
鶴姫という名で、十八の歳に山へ入ったまま戻らず、池の鯉に生まれ変わったのだという。
佐和子は最後の一行まで読んで、鯉を数える結衣のほうへ戻った。
娘が鯉になる話を、娘に読んで聞かせる気にはなれなかった。

五時のチャイムが鳴った。
公園の端に立つ柱の上の、防災無線のスピーカーからだ。
夕焼け小焼けが流れ終わると、男の声が続いた。

「佐野市からお知らせします。出流原町で、女の子の行方が分からなくなっています」

佐和子は結衣の手を取った。
反射だった。
声は年齢を言いかけて、そこで割れた。
十、までは耳に残っている。
あとは雑音で、放送は途中で切れた。

「わたし、ここにいるよ」

結衣が手を振りほどこうとする。
分かってる、と言って、佐和子は握った手を緩めなかった。
池の周りには、ほかに人の姿がない。
昼間は観光客で混むと聞いていたのに、夕方の池は水音だけだった。

夕食は部屋だった。
落ち鮎の塩焼きと、湧き水で炊いたという飯。
女将が膳を運びながら、何でもない声で言った。

「昨日も遅くまで池にいたでしょう。夜は冷えるから」

「今日着いたんです」

「あら、そうだったかね」

女将は笑って、それ以上言わなかった。
佐和子は箸を止めた。
ついでに、夕方の放送のことを聞いてみた。

「放送なんか、なかったよ。五時のチャイムだけ」

女将は膳を置いて出て行った。
結衣は飯を頬張ったまま、何も言わない。
聞こえていたはずだ。
それとも、聞こえていなかったのか。
佐和子は鮎の身をほぐしながら、スピーカーの位置を思い出していた。
柱は池の向こう岸にあった。
宿の帳場からでも、聞こえる距離だ。

膳を下げに来た女将が、茶を置きながら付け足した。

「夜は池に降りないでね。縁の石を踏まれると困るの」

分かりました、と答えた。
降りる気はない。
結衣はもう眠そうに目をこすっていた。

父に電話をかけた。
鯉は見たか、と聞いてくる。
見た、白いのがいた、と結衣が横から答えた。
父は笑って、それから佐和子に言った。

「お前は七つの時、夜中に一人で池に降りて、宿の人に連れ戻されたんだぞ」

覚えていない。
佐和子はそう答えた。
父は、だろうな、と言った。
寝ぼけていたから、と。
電話を切ってから、三十年前の夜を探してみた。
何も出てこなかった。
鯉の白さと、水の冷たさだけ。
手を入れた水の冷たさは、昼のものだと思っていた。

風呂は小さな内湯で、湧き水を沸かしているという。
結衣は湯の中で鯉の真似をした。
上がって、結衣の髪を乾かしてやった。
乾かしながら結衣の指先を見ると、爪が伸びている。
家で切りそびれている。
だから鞄の内ポケットに爪切りを入れてきた。
風呂の前に出しておいたのに、結衣は布団に入った途端に寝てしまった。

明日の朝でいい。
佐和子は爪切りを内ポケットに入れ直し、鞄の口を閉めた。

窓のカーテンを引く。
引く前に、もう一度だけ池を見た。
外灯が一本。
鯉が白い。
人はいない。
水面の端に、社のある崖が黒く映っていた。

十一時過ぎに、音で目が覚めた。

パチン。

小さく、硬い音。
壁の向こうからだと思った。
隣の部屋の客が爪を切っている。
それだけのことだ。
古い宿で壁が薄い。
佐和子は目を閉じた。

パチン、パチン。

二度目は一時を回っていた。
枕元の携帯の数字で分かった。
音は壁からではない。
窓のほうからだった。
硝子の向こうで鳴っているのか、こちら側なのか、分からない。

佐和子は布団を出て、カーテンの端を指で開けた。
池が見える。
外灯の下に、石の縁。
その先に黒い水。
鯉は底のほうでじっとしていた。
誰もいない。

カーテンを戻した。
気のせい。
古い宿は木が鳴る。
自分にそう言って、結衣の隣に横になった。
結衣の寝息は規則正しい。
足の裏が冷えていて、布団の端を引き寄せた。

眠れないまま、湧き水の音を聞いていた。
窓を閉めていても、水の音は途切れない。
昨日も遅くまで池にいたでしょう、という女将の声が戻ってきた。
夜中に一人で池に降りた、という父の声も。
どちらも自分の話ではない気がした。
どちらも自分の話だと言われている。
一日に二千四百立方メートル。
看板の数字が、意味もなく頭を回った。
枕元の携帯を見ると、一時十二分。
画面を伏せて、目を閉じた。

パチン。

三度目は、枕のすぐ横で鳴った。

佐和子は手探りで電気の紐を引いた。
明かりが点く。
結衣は寝ている。
両手は布団の中だ。
顔は壁のほうを向いて、口が少し開いている。

畳の上に、爪切りが落ちていた。
窓の下。
刃を開いたまま。

鞄の内ポケットに戻した。
それは間違いない。
戻して、鞄の口を閉めた。
そこまで覚えている。

佐和子は爪切りを拾った。
金属がぬるい。
鞄を開けて、内ポケットに戻し、今度は鞄ごと押し入れに入れた。

寝る前に自分で出して、置き忘れたのかもしれない。
疲れている。
三時間も運転した。
記憶なんて、そんなものだ。

そう思いながら、窓のカーテンをもう一度開けた。

外灯の下に、人がいた。

小さい。
石の縁にしゃがんで、両手を水のほうへ下ろしている。
顔は見えない。
髪が肩のあたりで切り揃えられているらしい、とだけ分かった。
結衣と、同じくらいの長さに見えた。

佐和子は息を止めていた。
湧き水の音が、その間だけ遠のいた。
振り返る。
結衣は布団の中だ。
壁のほうを向いて寝ている。

もう一度、窓の外を見た。
その人が、立ち上がる。

カーテンを手から離した。

部屋は二階だ。
結衣は寝ている。
車の鍵は押し入れの鞄の中で、時刻は一時半だった。
行く場所がない。
下に降りれば帳場は暗いし、女将を起こして何と言えばいいのか。
佐和子は電気を消さずに、結衣の上に腕を回して横になった。
心臓の音が畳に響く気がした。
喉が渇いて、唾を飲むたびに音が鳴る。

布団の中から、結衣の手が出てきた。
佐和子の手を探して、指を絡める。
指先が短かった。
つるりとしていた。

朝は晴れだった。

結衣は先に起きて、窓の外を見ていた。
佐和子は結衣の両手を取って、爪を見た。
十本とも、短い。
白い縁がきれいに揃っている。

「誰が切ったの」

「お母さんじゃん」

結衣は変な顔をした。

「昨日の夜、池のとこで切ってくれたでしょ。おばあちゃんが見てた」

「部屋から出てないよ」

「出たよ。すごく寒かったもん、覚えてる」

結衣はそれきり鯉の話を始めた。
夜の鯉は白かった、と言った。
昼より大きく見えた、とも。

玄関に並べた結衣のサンダルを見た。
裏が濡れていた。
草の切れ端が張り付いている。
隣に置いた自分の靴は乾いていた。

爪切りは鞄の内ポケットにあった。
押し入れに入れたままの鞄の中に。
受け皿を開けると、何も入っていない。

窓から池を見下ろした。
朝の水は、夜よりも透けていた。
石の縁には何もない。
外灯は消えている。
縁のすぐ下に、白い鯉が一匹、ほかの鯉から離れて浮いていた。
結衣が横に来て、昨日の夜の、と言った。
それ以上は聞かなかった。

帳場には女将の息子だという男がいた。
女将は朝から池の掃除に出ているという。
母はゆうべ九時には休んだので、挨拶ができずにすみません、と男は頭を下げた。
年寄りだから夜は早いんです、と。
結衣が佐和子の袖を引いた。
何か言いかけて、やめた顔だった。
会計のあと、男が宿帳を開いて見せた。

「三名様でご記入ですが、お二人でよろしいですね」

自分の字だった。
三名。
二と書いた記憶が、頭の中で動かない。
佐和子は横線を一本引いて、二名と書き直した。
手が震えないように、ゆっくり書いた。
男は何も聞かなかった。

磯山弁財天には登らなかった。
結衣は登りたがったけれど、階段の下で引き返した。
社の下の岩の隙間から、冷たい風が吹き出していた。
風穴というらしい。
結衣はそこに手をかざして、冷蔵庫みたい、と笑った。
佐和子は結衣の手首を取って、池のほうへ戻した。
池を半周だけして、車に乗る。
池の向こう岸で、割烹着の背中が水に向かってかがんでいた。
結衣は鯉に手を振っていた。

帰りは佐野田沼インターから高速に乗った。
インターまでの道で、結衣は後ろの窓に額をつけて、池の方角を見ていた。
もう池は見えない。
高速に乗ってすぐ、結衣は寝た。
佐和子はサービスエリアで停まって、結衣の両手を上着で包んだ。
短い爪が、上着の袖から覗いていた。

家に着いて、夜になって、父に写真を送ろうとした。
昼間の池。
鯉。
看板の前の結衣。

その間に、一枚だけ違う写真があった。
撮った時刻は午前一時五十二分。
夜の池だった。
外灯の光が水を通って、底まで届いている。
鯉が白く浮いている。

写真の下の端に、石の縁が写っていた。
縁の上に、白い小さな三日月が、並べて置いてあった。
一つずつ、間を空けて。

佐和子は数えた。

十で、指が止まった。

舞台になった場所

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