俺は相模原でタクシーを転がしている。
四十を過ぎてから、夜勤が主になった。
橋本駅の客待ちで夜を潰し、朝の五時に会社へ戻る。
歩合の仕事だから、上がり際の一本が月の数字を左右する。
その日も、あと一本で上がりの時間だった。
十月の半ば。
三時半を回ったところで、無線が鳴った。
配車係の女の人の声だ。
「三十二号、三ケ木のバスターミナル。男性一名、風呂敷持ったおじさん」
三ケ木は津久井の奥にある。
橋本から車で三十分近い。
行き先を聞くと、宮ヶ瀬だという。
虹の大橋の手前まで、と。
胃の底が、少し重くなった。
あの橋の名前は、この仕事をしていれば嫌でも耳に入る。
夜中に乗せろと言う客は、たいてい肝試しの若い連中だ。
俺は断るほうだ。
先輩の運転手に、橋の上で車が片側へ寄る話を聞かされたこともある。
本人は、風のせいだと笑っていた。
でも明け方に風呂敷を抱えたおじさんなら、話は別だと思った。
料金も大きい。
上がりの前に、いい稼ぎになる。
俺は了解と返した。
宮ヶ瀬は、帰りの客がまず拾えない。
空車で三十分、山を戻ることになる。
それでも行きの料金で元は取れる。
月末の数字を、頭の中で足した。
足している間は、橋のことを考えずに済んだ。
三ケ木のバスターミナルは、暗かった。
待合室の明かりだけが、白く灯っている。
その前に、男が一人立っていた。
六十くらい。
灰色の作業着で、両腕で風呂敷包みを抱えている。
紺の風呂敷だ。
大きさは、弁当箱を二つ重ねたくらい。
結び目に、荷札が一枚ぶら下がっている。
男が待合室の戸を閉めた。
カラ、と軽い音がした。
後ろのドアを開ける。
男は左側に座り、包みを膝に置いた。
「鳥居原ふれあいの館の駐車場まで。橋の手前です」
低い声で、はっきりしていた。
室内灯の下で、荷札の字が見えた。
筆で、くら、と書いてある。
平仮名で二文字。
持ち主の名字だろうと思った。
倉田か、倉本か、そのあたりだ。
俺は頷いて車を出した。
国道から県道六十四号へ入る。
伊勢原津久井線。
鳥屋の集落を抜けて、宮ヶ瀬湖へ下る道だ。
この先、湖まで引き返せる場所はほとんどない。
乗せた以上、橋まで行くしかない。
車内が、少しずつ冷えてきた。
暖房は入れている。
それでも、足元から冷気が上がってくる。
窓の外は真っ暗だ。
街灯が途切れると、ヘッドライトの先しか見えない。
馬術場の看板が、一瞬だけ白く流れた。
バックミラーに男の顔は映っていない。
下を向いて、包みを見ているらしい。
膝に置いた手が、布の上で動かない。
鳥屋の集落の手前で、男が口を開いた。
「運転手さん、この橋、よく通りますか」
「昼間は、たまに」
「夜は」
「夜は乗せないようにしてます」
男は小さく息を吐いた。
笑ったのかもしれない。
「私はね、十六年前に、ここで預かったんです」
「何をですか」
「これを」
膝の上の包みを、男が軽く持ち上げる。
荷札が、小さく揺れた。
「明け方でした。橋の袂で、知らない人に渡されました。しばらく持っていてくれと」
俺は何も言わなかった。
話の続きを待つ形になった。
「返す場所は決まっています。袂に、小さい引き戸があるでしょう」
「引き戸」
「膝くらいの高さの」
俺はあの橋の袂を思い浮かべた。
鳥屋側には、番号を書いた看板と、フェンスの端がある。
コンクリートの壁。
それだけだ。
戸なんて見た覚えがない。
でも客に言う話でもない。
俺は、はあ、とだけ返した。
「十六年、持ちました。もう十分でしょう」
男がそう言って、布の上の手を少し動かした。
「捨てなかったんですか」
「捨てるものじゃない。渡すか、戻すかです」
「誰かに渡せば」
「それをしたら、私が預けた側になる」
男の声は、淡々としていた。
「荷札の、くらさんというのは」
聞くつもりはなかったのに、口が動いていた。
「私です。現場で、そう呼ばれていました」
「お名前ですか」
「名前じゃない。呼び名です」
男は荷札を指で弾いた。
「書いてあるのは、持ち主の名じゃない。持ち主が、呼ばれている名です」
「土地が変わると、呼び名も変わる。宮ヶ瀬の人は、私をくらとは呼ばなかった」
「沈んだ村では、また別の名だったでしょう」
鳥屋の集落は、民家の明かりが一つも点いていない。
犬も鳴かない。
名字を書いただけだ。
俺はそう思うことにして、話の意味を深く考えないようにした。
道が下りに入った。
湖の匂いが、窓の隙間から入ってくる。
水と、土と、落ち葉の匂い。
その中に、別の匂いが混じった。
鉄だ。
十円玉を握った手の、あの匂い。
ミラーを見た。
男が、風呂敷の結び目をほどいていた。
「ちょっと、確かめるだけです」
布の角がめくれた。
中で何かが、ライトの照り返しを受けて鈍く光った。
金属の色。
小さな足のような形が、一瞬だけ見えた。
指が、動かない。
ハンドルを握ったまま、十本の指が固まっている。
肘も、肩も、重い。
押さえ込まれているのとは違う。
体の中から、鍵をかけられた感じだ。
車がゆっくり右へ寄っていく。
センターラインを、タイヤが踏んだ。
下りだから、速度が上がる。
対向車が来たら終わりだ。
そう思うのに、足もブレーキを踏めない。
声も出なかった。
喉の奥で、息だけが鳴っている。
「ああ、すみません」
男が布を戻した。
結び目を、きゅっと締める音。
指が、ほどけた。
俺はハンドルを左へ切った。
タイヤが白線を離れる。
背中に、汗が一本流れた。
「寒いですね」
男がそう言った。
俺は、寝不足だと思うことにした。
手が冷えて、かじかんだ。
それだけのことだ。
そう思わないと、運転が続かない。
先輩の話が、頭の隅で動いた。
風のせいだ。
今夜は、風が強い。
四時二十分、鳥居原ふれあいの館の駐車場に入った。
広い駐車場に、車は一台もない。
トイレの明かりだけが灯っている。
その向こうに、橋がある。
虹の大橋。
長さは三百三十メートル。
相模原市緑区と清川村の境だ。
アーチの影が、黒い空より少しだけ黒い。
橋の上の街灯が、等間隔に並んでいる。
「ここで待っていてください。十分で戻ります。メーターはそのままで」
男は包みを抱えて降りた。
駐車場を横切り、県道の歩道へ出る。
袂の看板の下を通った。
一つ目の街灯の下で、背中が白く浮く。
結び目の荷札が、揺れている。
こちらを向いた面は、白い。
何も書いていない。
裏返っただけだ。
二つ目の街灯の手前で、男は見えなくなった。
歩道は、フェンスの内側だ。
二重のフェンスで、上には有刺鉄線。
フェンスの板には虹の模様が描いてある。
昼間に見れば、きれいな橋だ。
かながわの橋百選に入っているらしい。
そんな橋を、明け方に一人で歩いていく客がいる。
エンジンはかけたままにした。
メーターの数字が、百円ずつ上がっていく。
湖から風が吹いてきた。
十月なのに、冬の風だ。
窓を閉めても、ガラス越しに冷たさが伝わる。
ガラスに、自分の息が白く残った。
湖面から、薄く霧が上がっている。
清川村の側は、もっと暗い。
宮ヶ瀬の集落まで、まだ先だ。
袂の看板が、ヘッドライトの端に入っている。
番号だけの看板だ。
その下に、何かを塗りつぶした跡がある。
昼間に通るたび、目に入る。
何が書いてあったのか、俺は知らない。
俺は腕を組んで、橋を見ていた。
男の姿はない。
街灯の下には、誰もいない。
車が一台、宮ヶ瀬の側から渡ってきた。
ライトが橋の上を流れて、鳥屋の方へ消えた。
歩道に人影は照らされなかった。
無線が鳴った。
「三十二号、どこ」
配車係だ。
俺はマイクを取った。
「三十二号、宮ヶ瀬。客待ちです」
「こんな時間に」
「すぐ戻ります」
「早く帰っておいで」
無線が切れた。
三十二号。
この車に乗って五年、俺はずっとそう呼ばれている。
名字で呼ばれることは、会社ではまずない。
荷札の話を、思い出しかけてやめた。
メーターを見た。
待ち時間、十二分。
男は戻らない。
橋の上に目を戻す。
街灯の下は、空のままだ。
フェンスの板に描かれた虹が、光を受けて、少しだけ色を見せている。
赤と、橙と、黄色。
その下の湖は、真っ黒だ。
この湖の底には、村が沈んでいる。
ダムができる前の話だ。
そんなことを、なぜか今、思い出していた。
降りて探しに行く気は起きなかった。
歩道の先は暗く、フェンスは高い。
客を置いて帰ることもできない。
メーターが動いている。
俺は座っているしかなかった。
後ろで、布の擦れる音がした。
俺はミラーを見た。
左の席は、空いている。
右の席も、空いている。
誰もいない。
でも、何かがある。
俺は首を回した。
右の座面に、紺の風呂敷包みが置いてあった。
結び目は、きちんと締まっている。
男が抱えて降りた、あの包みだ。
ドアの開く音は、一度もしていない。
荷札が、こちらを向いていた。
筆の字で、三十二、と書いてある。
息を吸った。
吐けなかった。
鉄の匂いが、車の中に満ちている。
その時、外で音がした。
カラ、と軽い音。
戸が滑る音だ。
橋の方から聞こえた。
俺は橋を見た。
一つ目の街灯の下に、男が立っていた。
こっちへ歩いてくる。
両手は、空だ。
男は左のドアから乗った。
右の座席に目をやった。
俺はミラー越しに見ていた。
男の目が、荷札の上で止まる。
そのまま、何も言わない。
俺が先に言った。
「それ、お客さんの」
「戻しましたよ」
「でも、そこに」
「私のは、戻しました」
男は前を向いた。
「三ケ木まで、お願いします」
俺は、包みに手を伸ばそうとした。
肩から先が、動かない。
さっきと同じだ。
手を戻すと、肩が軽くなった。
男はそれを見ていたはずだ。
でも、何も言わなかった。
俺は車を出した。
メーターの待ち時間は、二十一分になっていた。
男は十分と言った。
時計は、四時五十二分を指している。
計算が合わない。
どの数字が違うのか、考えるのをやめた。
帰りの道は、何も起きなかった。
男は一度も口をきかない。
包みも、動かない。
ミラーを見るたび、右の座面にある。
荷札の字は、見ないようにした。
途中からは、ミラーも見ていない。
三ケ木に着くころ、空が灰色になりはじめた。
バスターミナルで、男は現金で払う。
小銭まできっちり。
「ありがとう」
それだけ言って、待合室の方へ歩いていった。
戸の開く音は、聞こえなかった。
俺はドアを閉め、後ろを振り返った。
右の座面に、包みはない。
紺の布の端も、荷札の紐も、何も。
座面に手を置いた。
冷たい。
金属を長く置いた後の、あの冷え方だ。
鉄の匂いだけが、まだ残っていた。
会社に戻ったのは、六時前だった。
日報を書きながら、配車係に聞いた。
「さっきの三ケ木の客、風呂敷って言いましたよね」
「言ってないよ」
「言いました。風呂敷持ったおじさんって」
「電話で受けたのに、何持ってるかなんて分かるわけないでしょ」
彼女は笑って、受話器を取った。
俺は日報に、三ケ木の客を一行だけ書く。
ペンを置くとき、指が少しだけ固い。
家に帰って、昼まで眠った。
目が覚めてからは、袂の引き戸のことばかりだ。
地図を開いた。
写真も探した。
鳥屋側の袂に写っているのは、看板と、壁と、フェンスの端。
戸はない。
膝の高さには、コンクリートの継ぎ目があるだけだ。
あるのは、男の話の中だけ。
そう決めて、画面を閉じた。
閉じたあと、しばらく手が動かなかった。
それから、二週間が経つ。
夜勤は変わらない。
橋本駅の客待ちも、三ケ木行きの配車も、前と同じだ。
宮ヶ瀬の客は、あれから来ていない。
洗車も、日報も、同じ順番でこなしている。
一つだけ、変わったことがある。
後ろの右の席に、誰も座らない。
一人客は、みんな左に座る。
二人連れでも、左に詰めて座る。
三人乗ったときは、一人が助手席へ回った。
酔った客でも、右には手をつかない。
誰も理由を言わないし、俺も聞かない。
洗車のとき、右の座面だけ、朝まで冷たい。
客待ちの列で、後ろを見ないようにしている。
見れば、何かが分かる気がする。
分かりたくない。
昨日の明け方、三ケ木の手前を空車で通った。
無線で、三十二号、と呼ばれる。
はい、と答えるまでに、少しだけ間が要った。
ミラーの角度を、少し下げてある。
右の後ろが映らないように。
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