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小坪トンネルの無線と、六〇八号室の客

夜八時から朝の六時まで、逗子の営業所で配車の無線を取っている。
駅から歩いて五分の、古いビルの二階だ。
私の夜勤は、火曜と木曜と土曜。
零時を回ると、事務所には私一人になる。

机の上には、卓上のマイクと電話が二台並んでいる。
横の画面には町の地図が出ていて、うちの車が小さな点で動く。
空車は青、客を乗せると赤。
耳にはヘッドセットをかけっぱなしで、十月でも耳当ての中が汗で湿ってくる。

私も四年、ハンドルを握っていた。
腰を痛めて配車に回り、今年で三年になる。
だから道のことは、だいたい音で分かる。
運転手が「入ります」と言えば、どのトンネルか、何秒で出てくるかも見当がつく。

鎌倉と逗子のあいだは、県道三一一号が山の下をくぐっている。
トンネルは全部で六本。
鎌倉から逗子へ向かう車は、名越、逗子、小坪の順に三本を抜ける。
逗子から鎌倉へ戻る車は、新小坪、新逗子、新名越の三本。
行きと帰りで、くぐる穴が違う。
新人の運転手は、新のつくほうとつかないほうを、たいてい一度は言いまちがえる。
まとめて小坪トンネルと呼ぶ人も多い。
横須賀線の線路も、県道と並んで走っている。

運転手だったころ、私も毎日のように通った。
一本目の名越だけは歩道がなくて、壁がすぐ横まで迫ってくる。
夏には、トンネルまで行ってくれという若い客がよく乗ってきた。
うちでは、トンネルの前で停めてくれという頼みは断る決まりだ。
停めて騒げば、近所の家の迷惑になる。

うちの無線は、トンネルに入ったとたん、砂をこぼすような雑音に変わってしまう。
声はとぎれとぎれになり、出口が近づくと戻ってくる。
運転手は入る前に、「入ります」と一声かけてくれる。
三本続けて、一分と少し。
そのあいだ私は、画面の点がトンネルの中を進むのを、目で追っている。
中では位置の電波も切れるので、点は入る前の速さのまま、機械が見込みで進めている。

最初は、十月の二週目、火曜の夜勤だった。
零時四十分、三号車の堀さんが鎌倉の駅前で客を乗せた。
行き先は、逗子の久木。
堀さんは六十を過ぎた古株で、無線の声がやたらに大きい。

「三号車、名越、入ります」
「了解です」

ざあっと雑音が来る。
その砂の音の奥で、何か聞こえた。
大勢の声だ。
遠くで、拍子をそろえて叫んでいる。

わっしょい、わっしょい。

祭りの神輿を担ぐ、あの掛け声に聞こえる。
雑音が強くなると沈み、弱まると、また浮いてくる。
私はヘッドセットを耳に押しつけた。
拍子のほかに言葉が混じっていないか、聞き分けようとした。

「三号車、小坪、抜けた」

堀さんの声が戻ると、掛け声はもう消えている。

「三号車さん、今、車の中で何か流してました?」
「何も、お客さん寝てるよ」
「祭りの声みたいなのが、入ってたんですけど」
「秋だからなあ、どっかの無線が混じったんだろ」

堀さんはそう言って、あくびを一つ無線に乗せてきた。

混信なら、前にもあった。
近くを走るトラックの違法な無線が、うちの声に割り込んでくる。
所長はそのたびに、日報へ一行書かせる。
私も「零時四十八分、名越から小坪にかけて混信」と書いて、ボールペンを置いた。

一時過ぎに、堀さんは久木で客を降ろして、逗子の駅へ戻ってきた。
無線の声は、いつもの大きさのままだ。
私もそれきり、掛け声のことは忘れていた。

二度目は、木曜の夜勤の一時五十分だ。
七号車の江口くんが、逗子から鎌倉へ回送で抜けるところだった。
鎌倉の駅で、客待ちをするつもりらしい。
江口くんは二十代で、無線だといつも早口になる。

「七号車、新小坪、入ります」
「了解です」

雑音が来た。
その奥に、またあの掛け声があった。

わっしょい、わっしょい。

今度は近い。
火曜より、ずっとはっきり聞こえる。
掛け声の合間に、もう一つ、別の音が混じっていた。

ばさっ、ばさっ。

大きな鳥が羽を打つような、重たい音だった。
そのとき、一番の外線が鳴った。
ヘッドセットを片耳だけずらして、受話器を取る。

「お電話ありがとうございます、配車係です」
「いつもお世話になっております」

女の人の声だ。
落ち着いていて、よく通る。

「六〇八号室の者ですけど」
「はい」
「いま、お宅の車が一台、トンネルに入りましたでしょう」

私は画面を見た。
七号車の青い点は、一本目の新小坪の中を進んでいる。
江口くんの「入ります」から、まだ三十秒と経っていない。

「出たら、こちらにも一台、寄ってちょうだい」
「恐れ入ります、ご住所とお名前を」

受話器の向こうで、ざあっと砂の音がした。
その奥で、わっしょい、わっしょい、と鳴っている。
ヘッドセットからも、受話器からも、同じ拍子で聞こえた。
電話は、それで切れた。
表示は非通知。

「七号車、新名越、抜けました」

江口くんの声は、いつもの早口に戻っている。

「七号車さん、今の聞こえた?」
「何がです?」
「掛け声と、ばさばさって音」
「窓開けてたんで、風じゃないすか、あ、トビかも」

トビなら、昼間は浜のほうで何度も見た。
私は、昼の鳥だと思っていた。
夜中の二時前に、トンネルの中を飛ぶものなのか。
受話器を握っていた手のひらが、じっとり濡れている。

パソコンで客の台帳を開いて、部屋番号の欄に六〇八と打ってみた。
画面は、白いまま止まっている。
常連のお客さんの声なら、たいてい名乗る前に分かる。
あの声は、初めて聞く声だった。
それなのに、いつもお世話に、と言った。

三時を過ぎて手が空くと、無線の録音を呼び出す。
うちの機械は、一週間ぶんの交信を取っておける。
火曜の零時四十八分から聞き直していく。

掛け声は、ちゃんと入っていた。
空耳の線は、これで消えた。
数えると、わっしょいは八回。
八回目のすぐあとに、ぴっ、と短い音が鳴る。
うちの無線機が、送信を終えるときに出す音だ。
誰かが、ボタンから指を放した音。

木曜の録音も、同じだった。
八回の掛け声と、羽の音と、最後に、ぴっ。
羽の音は、火曜のほうにも小さく入っていた。
あの晩は、雑音だと思って聞き流したらしい。

誰かが、うちと同じ機械で、うちの電波に乗っている。
そう考えると、電話の人の話もつながってくる。
無線を聞いていれば、どの車がいつトンネルに入ったか、分かって当たり前だ。
いたずらにしては、手が込んでいる。
けれど、いたずらなら、相手は生きた人間だ。
私はそこで考えるのをやめて、日報に二行足した。

土曜の夜八時、引き継ぎのときに、堀さんと江口くんに録音を聞かせた。
事務所のスピーカーで、木曜の一時五十分を流す。

わっしょい、わっしょい。
ばさっ、ばさっ。
ぴっ。

江口くんは、口を半分あけたまま聞いていた。
堀さんは腕を組んで、最後まで黙っている。

「祭りの掛け声だな、こりゃ」
「どっかの祭りの無線ですかね」
「夜中の二時に、神輿かつぐ祭りがあるか」

堀さんが首を横に振る。

「山だし、天狗とか」

江口くんが笑いまじりに言うと、堀さんは「名前をつけると寄ってくるぞ」と返した。
冗談を言う目には見えなかった。

「トンネルの上は、名越の切通しだ」
「古い道でな、国の史跡になってる」
「夜中にあんな所を歩くやつは、いねえよ」

堀さんはそう言ってから、少し声を落とした。

「ネットじゃ、あのトンネルはいろいろ書かれてるんだろ」
「女の人が乗ってくる、とかですか」
「近くに斎場があるのを、面白がってくっつけるやつもいる」
「けどな、あそこは鎌倉も逗子も葉山も、みんな世話になってる所だ」
「一緒にして話すもんじゃねえ」

私も、そう思う。
運転手だったころ、喪服のお客さんを何度もあそこまで乗せた。
皆さん、黙って窓の外の山を見ていた。

私は、木曜の電話のことも二人に話す。
江口くんが新小坪に入って、すぐに鳴った外線だ。
相手は女の人で、六〇八号室の者です、と名乗った。
受話器の奥でも、あの拍子が鳴っていた。

江口くんが、えっ、と小さく声を出す。
あの晩、私が無線で尋ねたのは、掛け声と羽の音のことだけだ。

「六〇八号室ってのは、どこの客だ」
「番号だけです、建物の名前も、なにも」
「名前も場所も言わねえ客は、客じゃねえ」
「次にかかってきたら、切っちまえ」

堀さんは帽子をかぶって、駅のほうへ出ていく。
江口くんも、車の鍵を指で回しながら、その後を追った。

土曜の夜は、一時半まで電話が鳴りっぱなしだった。
鎌倉で飲んだ客に、逗子の海の近くで飲んだ客。
二時を過ぎて、ようやく画面の点が落ち着いてきた。
三号車の堀さんは、逗子の駅で客待ちをしている。
七号車の江口くんは、鎌倉から回送で戻ってくるところだ。

私はぬるくなったお茶を飲んで、足元の電気ストーブを一段弱くした。
ストーブの網から、焦げたほこりの匂いが上がってくる。

「七号車さん、今夜は窓を閉めて走ってね」
「了解っす、閉めときます」

江口くんの返事は、いつもより半拍遅れて届いた。

二時十四分。

「七号車、名越、入ります」
「了解です」

雑音が来る。
私はヘッドセットを、両手で耳に押さえつけた。

わっしょい、わっしょい。

すぐそこで叫んでいる。
ばさっ、と羽の音が一つ、耳の真横を打った。
首が勝手にすくむ。
掛け声がやんで、人の声がした。

「配車さん、三号車」

堀さんの声だ。
大きくて、少しかすれた、いつもの声。

「小坪で、お客さん一人、六〇八号室のお客さん、乗せます、どうぞ」

私は画面を見た。
三号車の点は、逗子の駅前にじっと止まったままだ。
七号車の点は、まだ一本目の名越の中にいる。
小坪は、その二本先だ。

なんで、堀さんの声なの。
なんで、七号車がまだ着いてもいない小坪の話をしてるの。

そこへ、本物の堀さんが割り込んできた。

「おい、今の誰だ、俺は駅だぞ」
「三号車さん、駅ですよね」
「駅だよ、今の、俺の声じゃねえか」

堀さんの声が、上ずっている。
画面の上で、七号車の点が二本目の逗子トンネルを抜け、小坪へ入っていく。

「七号車、小坪、抜けました」

江口くんの声が、一語ずつ区切ったように遅い。

「配車さん、今の声」
「聞こえた?」
「聞こえました、でも、無線からじゃないです」
「後ろの席のほうから、聞こえました」

江口くんは、一人で回送している。
窓も閉めてある。
後ろの席は、空だ。
空のはずの席から、堀さんの声がした。

雑音が、もう一度来た。
画面を見ると、うちの車の点は、どれも六本のトンネルの外にある。
それでも砂の音がして、その奥で、わっしょい、わっしょい、と拍子が続く。
今度は、女の人の声がした。
木曜の夜、受話器の向こうで聞いた、あの落ち着いた声。

「どうぞ」

それきり、掛け声もやんだ。
待っているのだ、と分かった。

無線では、「どうぞ」と言われたら、こちらが返す番だ。
運転手が客を乗せると言えば、私が「了解」と答える。
それで、その客はうちの客になる。
配車に回ってから、夜勤のたびにそう返してきた。
気づくと、右手の親指が、送信ボタンのゴムの上に乗っている。
押せば、口が勝手に「了解」と言いそうだった。

誰かのいたずらだ、と思おうとした。
うちと同じ機械を持った誰かが、録った声をつないで流している。
堀さんの声なら、毎晩の無線からいくらでも録れる。
そう考えれば、筋だけは通りそうだった。
けれど、堀さんが六〇八と口にしたのは、今夜の引き継ぎで、この事務所にいたときだけだ。
それに江口くんは、後ろの席から聞こえたと言った。

一番の外線が、鳴りはじめる。
非通知の表示が、赤く点いている。
事務所にいるのは、私一人だ。
無線を切れば、堀さんにも江口くんにも、何かあったときに届く声がなくなってしまう。

私はヘッドセットをかけ直して、マイクに口を寄せた。
鳴りつづける電話は、そのままにしておく。
客から電話で頼まれて、出せる車がないときに使う決まり文句がある。
運転手の無線には一度も使ったことのない、受付の言葉だ。
送信ボタンを、親指で深く押し込む。
いつもの声の高さで、私は言う。

「六〇八号室のお客様」
「本日は、お迎えに上がれる車がございません」
「申し訳ございません、失礼いたします」

言い終えて、親指をボタンから離した。
ぴっ、と短い音が鳴る。

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