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翁島ペンション、夕方の囲いの隙間

翁島駅で降りたのは、沢井ひとりだった。
郡山で新幹線から、磐越西線の普通列車に乗りかえてきた。
無人の駅だ。
向かいのホームへは、構内の踏切を歩いて渡る。
小さなコンクリートの駅舎を出ると、四時を少しすぎていた。

十月の連休に、金曜の休みを一日足した。
測量の会社に勤めて、二十年になる。
平日は、杭と図面ばかり見て暮らしている。
休みくらいは、山と湖を見ていたかった。

宿は湖のほうにある。
駅から県道を歩いて、二十五分ほどだという。
予約の電話で、おかみさんは車で迎えに行くと言ってくれた。
沢井は、歩きますと答えた。
知らない土地に来ると、自分の足で距離を測りたくなる。
職業病だな、と自分でも思う。

県道は、たまに軽トラックが通るくらいだ。
刈り取りのすんだ田んぼに、切り株の列が並んでいる。
振りかえると、磐梯山が大きく裾を広げていた。
空気が冷たくて、鼻の奥が少し痛む。

十分ほど歩いたところで、沢井は足をゆるめた。
県道の脇から、細い道が林の中へ入っていく。
その入口を、背の高い囲いがふさいでいた。
白い鉄板を並べた仮囲いで、沢井の背丈より頭ひとつ高い。
真ん中の二枚だけが、門のように左右へ開く作りだ。
その合わせ目に、太い鎖が巻いてある。
南京錠がひとつ、下がっていた。
立入禁止の札が、針金で留めてある。

ここが何なのかは、列車の中で知っていた。
宿までの道のりを調べていて、行き当たったのだ。
翁島ペンション。
林の奥に建つ、古い廃ペンションだという。
心霊スポットとして、よく名前が出てくる。

まわりに宿をいくつも建てる計画があって、建ったのはこの一棟だけだったらしい。
そのあと使われたのかどうかも、はっきりしないまま放っておかれた。
画面に出てきた写真は、三角屋根が二つ並んだ白い建物だった。

鎖がたるんでいて、門の合わせ目には手のひらひとつ分の隙間がある。
沢井は県道の路肩に立ったまま、その隙間をのぞいた。

隙間の幅だけ、奥が見える。
割れた舗装の上に、赤や黄色の落ち葉が積もっている。
細い道は、雑木林の中をまっすぐのびていた。

その先に、人が立っていた。
五十メートルはある、と沢井は目で測る。
白っぽい服の人が、道の真ん中で、こちらを向いているように見える。
顔のあたりは暗くて、丸い影になっていた。

工事の人だろう、と沢井は思う。
囲いの中に重機が入ったという書きこみも、列車の中で読んでいた。
片づけか、見回りか。
声をかけるほどのことでもなく、沢井はそのまま歩きだした。

隙間の前を離れるとき、湿った落ち葉の匂いが鼻をかすめる。
少し甘くて、重たい匂いだった。
林の匂いだと思って、沢井は宿へ急ぐ。
しばらく行って振りかえると、囲いの白さだけが、暗くなりかけた林の前に浮いていた。

宿は、県道から一本入った林のきわに建っている。
白い壁に、三角屋根が二つ。
さっき画面で見た写真と形が似ていて、沢井は玄関の前で少し笑った。
昔はこのあたりに、こういう宿がたくさん建ったのだろう。
玄関には、宿の名前が白く入った茶色のスリッパが並んでいた。

おかみさんは七十すぎの、よくしゃべる人だった。
主人のほうは、ずっと厨房にいる。
泊まり客は、沢井のほかにもう一人。
三浦という、六十代の終わりくらいの男だ。
毎年この時期に一人で来て、磐梯山の写真を撮っているという。

夕飯のあと、居間で三人になった。
黒い薪ストーブが、ぱちぱちと鳴っている。
「来る途中に、囲いがありましたね」
沢井が言うと、おかみさんはお茶を置きながらうなずいた。
「あのペンションね」
「勝手に入る人が、前から多くてね」
「もう、壊したんですか」

「囲いができて、重機が入ったって話は聞いたけど」
「壊したって言う人もいるし、まだ建ってるって言う人もいるの」
「囲いがあるから、道からじゃ奥は見えないしね」

三浦は写真の雑誌から目を上げずに言う。
「ああいうところは、見に行かないのがいちばんだよ」
「行きませんよ」
「道から見えただけです」
沢井は笑って、それから付け足した。
「工事の人が、まだ残ってましたね」
おかみさんが、湯飲みを持ったまま首をかしげる。
三浦は眼鏡の上から、沢井の顔をちらりと見た。
話はそれで終わった。

部屋は二階の、県道側にある。
布団に入る前に、沢井は居間のストーブの匂いを思い出していた。
薪の煙と、乾きかけの毛糸の靴下の匂い。
小学生のころ、父に連れられて泊まった八ヶ岳の山小屋の匂いだ。
小屋の真ん中に黒いストーブがあって、はしごで屋根裏に上がって寝た。
父はストーブの前にしゃがんで、濡れた登山靴に新聞紙を詰めていた。
その父が亡くなって、もう何年かになる。

携帯で、もう一度あのペンションを調べた。
外から撮った写真は、いくらでも出てくる。
中の写真もあるらしいが、沢井は開かずに画面を消した。
人の家をのぞくようで、気が引けた。
窓の外は、県道の向こうまで真っ暗だ。

土曜は、列車で会津若松まで足をのばす。
朝、駅へ歩く途中で、囲いの前を通った。
隙間の奥には、明るい落ち葉の道がのびているだけだった。
昼間の列車は、二時間に一本ほどだ。
鶴ヶ城を見て、駅の近くで蕎麦を食べた。
帰りは夕方の上りに乗り、翁島に着いたのは五時少し前だった。

駅を出ると、空はまだ明るいのに、林の中だけがもう暗い。
宿まで歩く道は、県道の一本きりだ。
囲いのことは考えないようにして、沢井は歩いた。
考えないようにしている時点で、もう考えている。

囲いの手前で、先に匂いが来た。
昨日と同じ、湿った落ち葉の匂いだ。
ただ、昨日よりずっと濃い。
甘さの奥に、肉の傷んだような重さがまじっている。
沢井は口で息をしながら、路肩に立った。

隙間の向こうに、また人がいた。
昨日の半分もない距離だ。
二十メートルを切っていると、目が勝手に測る。
白っぽい服で、道の真ん中に、まっすぐ立っている。
顔は、やはり暗い丸い影のままだ。
昨日と同じ向きで、じっとこちらを見ているように思えた。

工事の人なら、もう帰っている時刻だ。
土曜の、日の沈みかけた林の中で、何をしているのか。
林の奥で、カラスが一声だけ鳴いた。
沢井は携帯を出して、カメラを隙間に向けた。
画面を大きくして、一枚だけ撮る。
シャッターの音が、林の中に吸いこまれていった。

撮った写真を見て、沢井は息を止めた。
道の真ん中に、白い杭が一本立っている。
頭を赤く塗った、測量の杭だ。
沢井が毎日、現場で打っているのと同じものだった。
人の姿は、写真のどこにもない。

顔を上げると、隙間の向こうには白いものが立っている。
杭にしては、背が高すぎた。
杭の頭は、ふつう膝のあたりだ。
あれは沢井の肩くらいまである。

目の錯覚だ、と沢井は考えた。
夕方の林では、白いものほど浮いて見える。
近く、大きく見えるものだ。
日暮れどきの目測は当てにするなと、新人のころに教わった。
だから、写真のほうが正しい。
そう決めて、沢井は早足で宿へ戻った。

玄関でスリッパを履くと、おかみさんが鼻をひくつかせた。
「あら、何の匂いだろうね」
上着の袖に、あの甘い匂いがしみついている。
沢井は上着を部屋の窓の外に干して、風呂に入った。
湯の中で指を嗅ぐと、指先からも同じ匂いがする。
囲いにも鎖にも、指一本ふれずに来たはずだった。

居間では、三浦がカメラの小さな画面を見せてくれた。
毎年の十月の磐梯山が、何枚も並んでいる。
「いちばんいいのは、駅のほうの田んぼから見る夕方なんだ」
「明日、行かれるんですか」
「さあね」
「あの囲いができてから、夕方にあっちへ行くのはやめてるんだ」
三浦はそれだけ言って、カメラの電源を切った。

三浦が部屋へ上がってからも、沢井はストーブの前にいた。
父の小屋のことを、もう一度思い出そうとする。
黒いストーブがあって、はしごで屋根裏に上がった。
そのはずなのに、浮かんでくるのはストーブの両側からのびる二本の階段だ。
八ヶ岳の小屋は、はしご一本きりだった。
疲れているのだと思って、早めに布団に入った。

日曜は、昼のうちに湖まで歩く。
風が強くて、湖の面に白い波が立っていた。
沖のほうに、小さな島がひとつ浮かんでいる。
あれが翁島だと、朝食のときにおかみさんが教えてくれた。

昔、旅の坊さんに水を分けた翁がいて、その家のまわりだけが沈まずに残った。
そういう話だという。
村はみんな湖の底になって、翁の家だけが島になった。
「一軒だけ残るっていうのも、さびしいもんだよね」
おかみさんは、そう言って笑っていた。
林の奥に一棟だけ建ったという、あのペンションのことが頭をかすめる。

四時半をすぎたころ、三浦がカメラと三脚を提げて居間に下りてきた。
「駅のほうの田んぼへ行くよ」
「一人だと、どうもね」
沢井は一度断りかけて、やめた。
杭のことを、この目で確かめておきたい。
高さを一メートルも見誤ったことなど、二十年の仕事で覚えがない。
一人であの前に立つより、二人のほうがまだましだ。

三浦と並んで、県道を駅のほうへ歩いた。
空の低いところが、橙色に変わりはじめている。
囲いの前を通るとき、沢井は横目で隙間を見た。
道の真ん中には、誰もいない。
落ち葉の道が奥の暗がりへ続き、写真に写った杭の白さも消えている。
匂いも、今は薄い。

田んぼに面した県道の路肩で、三浦は三脚を立てた。
磐梯山の上のほうだけが、赤く光っている。
今年は色がいい、と三浦がつぶやく。
シャッターの音が続くあいだ、沢井は来た道を振りかえっていた。
林はもう、黒いひとかたまりだ。
光が山から消えるまで、十五分ほどだった。
「帰ろうか」
三浦が三脚をたたむ。

戻りはじめると、すぐに足元が暗くなった。
三浦がポケットから懐中電灯を出す。
明かりの輪が、揺れながら路面を進む。
囲いの手前で、匂いが来る。
今までで一番濃い。
三浦が顔をしかめた。
「なんだ、この匂い」
「獣でも死んでるのか」
沢井は答えずに、隙間の前で足を止めていた。
三浦は二歩うしろの県道の真ん中で、三脚を抱えて立っている。

人が、門のすぐ向こうにいる。
鎖から、腕一本ほどの距離だ。
隙間の幅だけ、白っぽい服が見える。
襟と、その上の髪。
背中だった。

昨日も一昨日も、顔だと思っていた丸い影が、目の前にある。
近くで見れば、それは後ろ頭だった。
濡れたような髪が、襟の上でひとつにまとまっている。
こちらを見ていたのは、思いこみだったのだ。
あれは最初から、林の奥を向いて立っていた。
その先に、あの建物があるはずだ。
まだ建っているのなら。

沢井の目も、白い背中の向こうへ引かれていった。
暗い道の先に、白い壁が見える気がする。
三角屋根が二つ。
二階に並んだ窓。

匂いが、ふっと変わった。
甘く傷んだものが消えて、かわりに薪の煙が鼻に来る。
乾きかけの毛糸の靴下と、ストーブの匂い。
父と泊まった小屋の匂いだ。
懐かしい、と思った。
胸の奥がゆるんで、目の裏が熱くなる。

帰ってきた、と思いかけて、沢井は自分の右手に気づいた。
手が、鎖のほうへ上がっている。
冷たい鉄に届く、指一本手前で止まっていた。

「沢井さん」
三浦の声で、沢井は手を下ろした。
一歩、二歩と下がり、県道の真ん中まで出る。
「何かいるのかい」
入れかわりに、三浦が隙間の前に立った。
懐中電灯を向けて、顔を寄せる。
「何にもいないよ」
「落ち葉ばっかりだ」

三浦が体を引いても、明かりは隙間の先を照らしたままだ。
その光の輪の中に、白い背中が立っている。
奥を向いたまま、動く気配はない。
沢井の目にだけ、それが見えていた。

宿までの道を、三浦は黙って歩く。
歩きながら、沢井は理屈を並べた。
囲いの中を見回る、管理の人がいたのだ。
三浦は、明かりの照り返しで目がくらんでいた。
匂いは、林で獣が死んでいるだけだろう。
三浦も、匂いには顔をしかめていた。
並べ終わっても、背中のことだけが胸に残る。
三日続けて、同じ白い服で、奥を向いて立つ見回りがいるだろうか。

沢井は何度も、後ろを振りかえりそうになる。
逃げたいのとは、少し違う。
もう一度、あの背中の向こうをのぞきたかった。

玄関でスリッパに足を入れたとき、沢井の動きが止まった。
茶色の地に、宿の名前が白く入っている。
これじゃない、と思う。
何とくらべてそう思ったのか、沢井にも分からないままだ。

夕飯のとき、三浦はいつもより離れた席に座った。
おかみさんが、黙って窓を細く開ける。
二人とも、ときどき鼻の下に指をやっていた。
沢井の鼻に届くのは、薪の煙の匂いだけだ。
袖を嗅いでも、指を嗅いでも、父の小屋の匂いがする。

「明日の朝は、駅まで車で送りましょうか」
皿を下げながら、おかみさんが言った。
歩けば、あの囲いの前を通る。
沢井は、歩きますと答えていた。

布団に入って、沢井は父の小屋を思い出そうとした。
黒いストーブと、はしご。
父の手と、新聞紙を詰めた登山靴。
順に並べようとするたびに、別のものが前に出てくる。
レンガを積んだ、アーチの形の暖炉。
その両側の階段。
玄関に並んだ、白い字の入ったスリッパ。

沢井は初めて、あの建物の中の写真を開いた。
何年か前の記事に載っていたものだ。
天井が抜けて、床には瓦礫が積もっている。
その真ん中に、レンガのアーチの暖炉が立っていた。
古い探索の記録には、翁島ペンションと刷られたスリッパが、床に散らばっていたと書いてある。

画面を消して、目をつぶる。
暖炉の前に、沢井は立っていた。
火が入っていて、薪がはぜている。
足元には、白い字の入ったスリッパ。
自分の名前でも、父の名前でもない。
その名前を、沢井は懐かしいと思った。

明日の朝、駅へ歩く道で、あの囲いの前をもう一度通る。
そのときを、沢井は待っている。

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