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気多大社の鵜祭、明け方の入らずの森で腕を広げていたもの

十二月十五日の夜、金沢から羽咋へ車を走らせた。
後ろの席で、娘の美緒が窓に額をつけている。
小学五年で、どこへ行くにもスケッチブックを抱えていく子だ。
リングで綴じた、表紙の角が丸くなったやつ。
夫は仕事の都合で来られなかった。

鵜祭を見るのは、私も初めてになる。
子どものころは、未明の神事なんて、寝ているうちに終わっていた。
夜中に起きるのは、正直に言えば気が重い。
それでも、祖母の頼みを断る理由は見つからなかった。

母の実家は、羽咋の町の外れにある古い家だ。
何年か前に母がそこへ戻って、今は祖母と二人で暮らしている。
祖母は今年、九十になった。
毎年、鵜祭の未明には気多大社へ出かけていた人だ。
それが秋に膝を悪くして、玄関の段も一人では下りられない。
だから今年は、代わりに私たちが行く。

「鵜様を拝まんと、新年は迎えられんぞ」
着いてすぐ、祖母は炬燵の中からそう言った。
寝るまでに、同じことを三回言った。
祖母の家は、冬になると土間から冷える。
炬燵のある茶の間だけが、別の家みたいに暖かかった。

鵜祭のことは、小さいころから聞かされている。
七尾の鵜浦で、鵜捕部の人が鵜を一羽、生け捕りにする。
捕まえたその時から、その鵜は鵜様だ。

鵜捕部の三人が籠を背負い、二泊三日、四十キロほどを歩いて運んでくる。
十四日の夕方に神社へ着くと、そこからは餌をもらえない。
十六日の午前三時すぎ、明かりを落とした神前に放されて、その進み方で次の年を占う。
終わると、神社の前の浜から暗い空へ返す。

祖母は娘のころ、鵜様の一行が通る道まで出て、手を合わせたことがあるという。
「ウトリベー、ウトリベーって、呼ばりながら来るがや」
祖母はその声をまねて、喉の奥で笑った。

寝る前に、祖母が母と私を炬燵のそばへ呼んだ。
「鵜様を見た朝は、日が出るまで、うちの敷居はまたがれんぞ」
母は黙ってうなずく。
私は笑って、なんで、と聞いた。
「なんででも」
祖母はそれきり、テレビのほうを向いた。

台所で、母に小声で聞いてみる。
母も、理由は知らないという。
「この家だけの決まりや、よそでは聞いたことない」
三時に神事が始まって、日の出は七時前だ。
終わってから三時間あまり、車の中で待つしかない。

祖母は、もう一つ頼みごとをした。
「明るなったら、帰る前に、森にいっぺん頭下げてこい」
気多大社の裏には、入らずの森がある。
人が入ってはいけない森だ。
神主さんでも、年に一度、奥宮へ行く時に目隠しをして通るだけだと、祖母は言った。
近くへ寄れとは言われていない。
拝殿の前から頭を下げれば、それでいい。

午前一時半に起きた。
外は雨が上がったばかりで、道路が黒く光っている。
母が助手席、美緒が後ろ。
美緒はダウンの上から毛布をかぶり、スケッチブックを膝に乗せた。
祖母は杖をついて、玄関の灯りの下まで見送りに出てきた。
上がり框から先へは、一歩も出ない。

町を抜けると、街灯がまばらになる。
対向車は一台も来ない。
母は膝の上で、手袋をはめたり外したりしていた。
「おばあちゃん、毎年この道を通っとったんやね」
「若いころは、おじいちゃんと二人で行っとったって」
母は前を見たまま言う。

二時すぎに、気多大社の駐車場へ入った。
停まっている車は、十台もない。
ハンドルを切った時、ライトの先に猫がいた。
五匹いる。
駐車場の隅に、輪になって座っている。
ライトが当たっても、一匹も逃げない。
五匹とも、同じほうへ顔を向けていた。
社殿の裏の、森のほうだ。

「猫会議や」
美緒が後ろで言って、くすくす笑った。
母もつられて笑う。
私はエンジンをかけたまま、ヒーターを一段強くした。
笑いながら、五匹の耳が一つも動かないのが気になっていた。

神事までは、まだ一時間近くある。
美緒が室内灯をつけて、鉛筆を動かし始めた。
のぞくと、黒く塗りつぶした形が一つ、紙の真ん中に立っている。
両腕を、横へまっすぐ広げている。
頭だけが、横を向いていた。
後ろには、縦の線が何本も引いてある。
木だ、と美緒は言う。

「鵜様、羽を乾かしとるとこ」
図鑑で見たのだそうだ。
鵜は水に潜るから、岩や枝の上で羽を広げて乾かすらしい。
それにしては、人の形に近すぎる。
羽のはずのところが、私には腕にしか見えなかった。
「人みたいやね」
「鵜様は、神様やもん」
美緒は、黒いところをさらに塗り重ねた。
鉛筆の芯が紙をこする音が、狭い車の中にこもる。

二時四十五分に、車を降りた。
息が白い。
耳の先が、すぐに痛くなる。
猫たちは、まだ同じ形で座っていた。
暗い参道を、前を行く人の背中だけを見て歩く。

集まっていたのは、三十人ほどだ。
地元の年配の人が多い。
私たちは、いちばん後ろの列の、右の端に並んだ。
左から母、美緒、私の順になる。
美緒が、私のコートの裾をつかむ。
底冷えがする。
誰かが、咳を一つ飲みこんだ。

三時を少し過ぎて、祭典が始まった。
祝詞の声が、低く長く続く。
お供えが下げられる。
それから、明かりが一つずつ消えていった。

残ったのは、奥の灯りだけだ。
ろうそくが二本、台の上で並んで燃えている。
その周りだけが、橙色に浮かんでいた。
ほかは全部、黒い。
母の顔も、もう見えない。
靴の中で、足の指が縮こまっていく。

鵜捕部の人が、籠を前へ運んでいくのが、足音で分かった。
神職と、短い言葉のやりとりがある。
何と言っているのか、後ろまでは届かない。
古い言葉なのだろう、と思った。

籠の口が開く音がした。
床を爪で掻くような、乾いた音が続く。
鵜様が鳴いた。
甲高くて、短い声だ。
生臭い匂いが、一気に流れてきた。
冬の岩場の、海藻の匂いに近い。
美緒が、私の腕に顔を押しつけた。

鵜様は、すぐには進まなかった。
灯りの手前で止まり、首を一度、横へ振る。
その時、私の右のほうからも、同じ匂いがした。
鵜様は前にいる。
前にいるはずだ。
私の右には、誰も立っていない。
暗闇の中で、濡れた布を振るような音が二度した。
ばさ、ばさ、と。

振り向けない。
神事の最中に、物音を立てたくなかった。
それに、右を向いて何かが見えたら、きっと声が出る。
美緒の手袋を、上から強く握った。
匂いは、しばらくそこにあって、動かない。

やがて鵜様が、灯りのほうへ上がっていった。
台の上で、黒い影が止まる。
神職の手が、それを包むのが見えた。
台のろうそくが消されて、あたりが真っ暗になる。
前のほうで、誰かがほうっと息をついた。

明かりが戻る。
右の匂いは、もうしない。
鵜様が、外へ運ばれていく。
これから神社の前の浜で、暗い空へ放されるのだ。
私たちは、浜までは行かなかった。
美緒が、しきりにまぶたをこすっていた。

車に戻ったのは、四時すぎ。
猫は、もういなかった。
車の表示では、外は零下一度。
駐車場の出口のあたりで、路面が白く光っている。
ラジオをつけると、路面の凍結への注意を繰り返していた。
暗いうちに凍った道を走る気には、なれない。
祖母の決まりもある。
日が出るまで、ここで待つ。

母は助手席を少し倒して、毛布を首まで引き上げた。
「おばあちゃんもな、鵜祭の朝は、家の前まで帰ってきても、すぐには入らんかったんや」
母が子どものころの話だ。
玄関の戸の向こうに祖母の気配がするのを、布団の中で待っていたという。
「戸は開いとるのに、外で立っとるんよ、明るなるまで」
「寒いのに」
「寒いのにな」
母は小さく笑って、それきり寝息を立て始めた。

美緒も後ろで横になる。
スケッチブックを胸に乗せたまま、口を少し開けて眠っている。
ヒーターの音だけが、低く続いた。

目を閉じても、さっきの匂いが鼻の奥から抜けない。
鵜様の匂いが、籠や鵜捕部の人の服にしみていたのだと思う。
暗い中では、匂いの向きなんて当てにならない。
ばさばさいう音も、誰かがコートの裾を払っただけだ。
そう決めて、腕を組み直した。

六時を回ったころ、美緒の胸からスケッチブックが滑り落ちた。
拾い上げて、開いたままのページを室内灯にかざす。
黒い形が、腕を広げて立っている。
頭は、横を向いたままだ。
描いた時と、何も変わっていない。
それなのに、閉じる指が少しもたついた。
そのまま、美緒のリュックの奥へ押しこむ。

六時半を過ぎると、東の空の低いところが白み始めた。
社殿の屋根の形が、黒く浮き上がってくる。
その向こうに、もっと黒くて大きな塊があった。
入らずの森だ。

母も美緒も、よく眠っている。
起こさないように、ドアをそっと閉めた。
祖母に頼まれたことを、済ませておきたい。
明るい森を一度見ておけば、夜中の匂いのことも、ただの思い過ごしにできる。

参道を一人で歩く。
足の裏から、冷えが上がってくる。
鳥の声は、まだ一つもしない。
夜中にあれだけいた人たちは、とうに帰っていた。
湿った木の葉の匂いが濃い。
その中に、潮の匂いが細く混じっている。

拝殿の前で、足を止めた。
奥に、本殿の屋根が見える。
その屋根の向こうから、木の壁が覆いかぶさるようにせり出している。
縁のほうはタブの木が多いと、来る前に調べておいた。
幹が太く、葉は黒く見えるほど茂っている。
森と境内のあいだには、柵がある。
その内側へは、誰も入らない。

手を合わせて、頭を下げた。
三つ数えて、顔を上げる。
目が、自然と森の縁へ行った。

本殿の屋根が切れるあたり。
いちばん手前のタブの、幹と幹のあいだに、黒いものが立っていた。
背丈は、人と同じくらい。
両腕を、横へまっすぐ広げている。
頭だけが、横を向いていた。
輪郭だけが、濡れたように鈍く光っている。

美緒の絵と、同じ形だ。
美緒があれを描いた時、私たちはまだ、境内に足を踏み入れてもいなかった。

鵜だ、と思った。
浜で放された鵜様が戻ってきて、枝の上で羽を乾かしているのだ。
そう考えれば、形は合う。
でも、あれは枝の上ではない。
足もとは、根元の暗がりに沈んでいる。
地面に立っているとしか、思えなかった。

もう少し寄れば、はっきりする。
携帯のライトを向ければ、とも考えた。
神域に光を向ける気には、どうしてもなれない。
拝殿の前から、一歩だけ横へ出た。
二歩目は、出なかった。
膝の裏が固まって、足が持ち上がらない。
柵の手前まで行けたとしても、その先へは行かない。
それだけは、体のほうが分かっていた。

横を向いていた頭が、ゆっくりこちらへ回った。
顔は見えない。
そこだけ、明け方の光が届いていない。
こちらを見ているのか、私の後ろを見ているのか、分からなかった。
私の後ろには、参道と駐車場がある。
車の中で、美緒が眠っている。

もう一度だけ、頭を下げた。
顔を上げずに向きを変えて、来た道を戻る。
走りたかったが、走らなかった。
境内で走るなと、子どものころから祖母に言われてきた。
背中のほうで、ばさ、と一度だけ音がする。
振り向かなかった。

駐車場に戻ると、猫がいた。
五匹。
今度は、私の車をぐるりと囲んで座っている。
五匹とも、後ろの席の窓を見上げていた。
美緒が寝ている側の窓だ。
窓ガラスの下半分が、内側から白く曇っている。

エンジンをかけたままの車は、温かい。
猫が寄ってくるのは、当たり前だ。
そう思いながら近づくと、五匹は一度に立ち上がって、駐車場の端の暗がりへ散っていった。
後ろのドアを開けると、美緒はまだ眠っていた。
毛布からはみ出した片腕が、背もたれに沿って、横へまっすぐ伸びている。

運転席に座ると、母が目を開けた。
「どこ行っとったん」
「森に、頭下げてきた」
母はふうんと言って、また目を閉じる。
見たものの話は、しなかった。
七時少し前、山のほうから日が差した。

帰り道の氷は、日の当たる端から溶けていく。
祖母の家に着いたのは、七時半だ。
三人そろって、玄関の敷居をまたぐ。
敷居は、黒く光るほどすり減っている。
祖母は、炬燵に入ったまま待っていた。
「鵜様、どうやった」
「ちょっと迷うて、それから、まっすぐ上がった」
「ほうか」
祖母は小さくうなずく。
「ほんなら、ええ年や」

それから祖母は、美緒の顔をしばらく見ていた。
美緒が手を洗いに立つと、その背中も目で追う。
何も言わなかった。

美緒のスケッチブックは、リュックにしまわれたまま出てこない。
私も、森のことは言わなかった。
母が何か見たのかどうかは、今も聞いていない。

その日の午後、美緒と金沢へ帰った。
次の日から、いつもの毎日が戻ってくる。
私は朝八時に家を出て、印刷会社の事務の机に座る。
美緒は学校から帰ると、宿題より先に絵を描く。
冬休みが来て、年が明けた。
元日に電話をかけると、祖母は膝の具合がいいと言って笑った。

変わったことは、一つだけある。
美緒が、手を洗ったあとにタオルを使わなくなった。
洗面所の鏡の前で、両腕を横へまっすぐ広げる。
頭だけを、横へ向ける。
そのまま、手が乾くまで動かない。
冬の洗面所は、足もとから冷える。
指先が赤くなっても、腕は下りない。

初めて見たのは、鵜祭から三日目の夜だった。
「何しとるの」
「え、何が」
美緒はきょとんとして、腕を下ろした。
自分では、気づいていないらしい。
次の日も、その次の日も、同じ形で立っていた。

水を止める音がして、それから、何の音もしなくなる。
それで、洗面所で何をしているのか分かる。
やめなさい、とはまだ言えていない。
言ったら、あの横を向いた頭が、こちらへ回る気がする。
洗面所のタオルは、今朝も乾いたまま掛かっている。

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