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神様池、清掃の日の手形は四つ

十月の日曜、朝の九時前に神様池へ歩いていった。
母の代わりだ。
膝を悪くしてから、保存会の草刈りに出られなくなったという。
「一軒から一人は出んとかんでね」
電話でそう言われて、土曜の夜に名古屋から帰ってきた。

宮内町の実家から池までは、歩いて五分もかからない。
角を二つ曲がると、木の頭が見えてくる。
子どもの頃は、緑の金網でぐるりと囲われた池だった。
水は濁り、まわりの林にはゴミが溜まっていた。
今は、水の上に板張りのデッキが張り出している。
池のふちは護岸で固められて、水が日を跳ね返している。

道の端に、軽トラが二台停まっていた。
荷台から、草刈機の刃がのぞいている。
集まっているのは、ほとんど母と同じくらいの年の人たちだ。
長机の上に、軍手とゴミ袋と、お茶の箱が並ぶ。
「タク? タクだろ」

振り向くと、首にタオルを巻いた男が手を挙げていた。
ケンタだった。
小学校から中学まで、一番長くつるんでいた相手だ。
会うのは、成人式の日以来になる。
腹が少し丸くなって、顔が父親に似てきていた。
「おばさんの代わりか。えらいな」
「膝がね。ケンタは保存会に入っとるの」
「親父の後釜だわ。若いのが俺しかおらんで、こき使われとる」

長机で母の名前を言うと、年配の女の人たちが、大きなったねえと口々に笑う。
その向こうに、ケンタの母親もいた。
紙コップを並べながら、僕に気づいて頭を下げる。
昔と同じ、細い目で笑う人だ。
僕も帽子を取って、頭を下げた。

九時になると、保存会の会長が短い挨拶をした。
今日は、池をまわる道の草刈りとゴミ拾い。
刈った草は袋に詰めて、軽トラの横に集めておく。
デッキと池のふちには近づかないこと。
十一時半に終わって、お茶にする。

僕はケンタと組まされた。
ケンタが草刈機で道の脇を刈り、僕が熊手で寄せて袋に詰める。
エンジンの音が、耳の奥まで響いてくる。
青い草の汁の匂いが、すぐに軍手まで染みてきた。

池をまわる道の片側には、ずっと木が続いている。
道と木のあいだに、細い草地が帯になって延びていた。
そこを刈り進むと、木の下の暗がりがときどき目に入る。
子どもの頃、僕らはここを樹海と呼んでいた。
奥行きなんて、十メートルもない。
それでも一歩入ると、道を走る車の音が急に遠くなったのだ。

保存会ができたのは、ちょうど僕が小学四年の頃だ。
濁った池をなんとかしようと、近所の大人たちが集まったと聞いている。
それから何年か工事が続いて、気づいたら今の形になっていた。

「なあ」
エンジンが止まったところで、声をかけた。
「四年の夏休みに、ここのゴミ拾い来たよな」
「来た来た。保存会ができたばっかの頃だろ」
ケンタは草刈機を肩から下ろして、タオルで顔を拭いた。
「お前と俺とユウジ。三人で、坂野のじいさんの班だったがや」

三人。
熊手を持つ手が止まった。
「もう一人、おったろ」
「誰」
「女の子。おかっぱの」
ケンタは少し考えて、首を横に振った。
「おらんて。三組から行ったの、俺らだけだもん」
「そうだったかな」
「女子が来とったら、俺、絶対覚えとるわ」
ケンタは笑って、また草刈機のひもを引いた。

エンジンが唸る横で、僕は熊手を動かした。
四人だった、と思う。
少なくとも僕の中では、あの日の班には四人いる。
大人になってからも、混んだ地下鉄で背中に手が当たると、あの日を思い出す。

夏休みに入って、最初の日曜だった。
ケンタとは、池の前で待ち合わせる約束だ。
ユウジと二人で着くと、いつも遅れてくるケンタが、もう金網に寄りかかっていた。
朝の九時に、子ども会の子が十人くらい、金網の前に集まった。
保存会の大人たちは、みんな首にタオルを巻いている。
蝉がうるさくて、大人の話がよく聞こえなかった。

三組の三人を受け持ったのが、坂野のおじさんだ。
日に焼けた腕に、白い軍手が目立っていた。
おじさんは、金網の向こうを指さして言った。
「ここは昔から、神池って呼ばれとった池だでな」
「かみいけ」
「神様の池だ。農家の大事な水がめだで、柵の中には絶対に入ったらかんぞ」

金網の向こうの水は、茶色く濁っていた。
ペットボトルが一本、岸の近くでゆっくり回っている。
「林のゴミは拾ってええ。柵から向こうは、かんでな」

配られたのは、軍手と火ばさみと、大きなゴミ袋だった。
袋は二人で一枚。
僕はケンタと組んで、袋の口を片方ずつ持った。
ケンタが左で、僕が右。
ユウジは一人で持つと言い張って、自分の袋を引きずっていった。
黄色い帽子が、先に林の中へ入っていく。

樹海の中は、外より暗くて、むっとしていた。
腐った葉っぱと、池の泥の匂いが混ざっている。
顔に蜘蛛の糸がかかるたびに、ケンタが変な声を出した。
車の音が聞こえない。
聞こえるのは、蝉と、落ち葉を踏む自分たちの足音だけ。
空き缶、菓子の袋、片方だけのサンダル。
拾うたびに、袋が左右に揺れて重くなった。

低い木の根元に、段ボール箱が一つ押し込まれていた。
雨を吸って、角がふやけたみかん箱だ。
「なんか入っとる」
ユウジが火ばさみで、ふたの端を持ち上げた。

濡れて膨らんだ雑誌の上に、人形が仰向けに寝ている。
おかっぱの日本人形だった。
赤かったはずの着物は、色が抜けて桃色に近い。
黒い髪の先に、泥が固まってこびりついていた。
顔は、見たかどうか覚えていない。

その時、背中をぽんと叩かれた。
小さい手だった。
平たい手のひらで、軽く一回。
僕だけじゃない。
ケンタも、ユウジも、同時に肩をびくっとさせた。
三人いっぺんに、後ろを振り向く。

後ろには、金網しかなかった。
網の目の向こうに、茶色い水が広がっている。
ペットボトルが、まだ回っていた。
誰も、何も言わない。
蝉の声だけが、耳の中で鳴っていた。

前に向き直ると、袋の左の持ち手を、女の子が握っていた。
おかっぱの、知らない子だ。
軍手が大きすぎて、指の先がぺらぺら余っている。
「ケンタは?」
「ケンタくんなら、先に出たよ」
女の子は、道のほうへ顎をしゃくった。
どこの組の子だろう、と思ったのを覚えている。
でも、聞けなかった。

坂野のおじさんを呼んだのは、ユウジだ。
おじさんは林に入ってきて、人形を両手で持ち上げた。
そのまま、別の袋に入れる。
「人形は、別にしとこな」
それだけ言って、軽トラのほうへ戻っていった。

女の子と二人で袋を提げて、林から出る。
外は眩しくて、車の音がいきなり耳に戻ってきた。
「重いね」
女の子が言って、僕は「うん」とだけ返した。
前のほうに、ユウジの黄色い帽子が見える。
ケンタも、その辺にいたんだと思う。

十二時近くに、道の脇の長机に模造紙が広げられた。
班ごとに一枚ずつだ。
真ん中に、マジックで「神様池をきれいにしよう」と書いてある。
紙皿には、赤いポスターカラーが溶いてあった。
「記念に、手形押してこか」
坂野のおじさんが、僕らの手首をつかんで紙皿に押しつける。
冷たくて、ぬるっとしていた。

右手を、模造紙にべたっと押す。
その下に、マジックで名前を書いた。
僕のすぐ右に、女の子が手を押した。
小さな手形が、僕の手形にくっつくように並ぶ。
女の子も、何か名前を書いていた。
僕は、それを見ていない。
左の端にも、誰かが押していた。
ケンタだったと思う。
手が下りるところは見たのに、顔は覚えていない。

保存会のポリタンクの水で、手を洗った。
爪の間には、赤いのが残ったままだ。
洗う列で、あの子が僕のすぐ後ろに並んでいたのは覚えている。
家に帰ると、玄関で母に怒られた。
「あんた、背中に何つけとるの」
脱いでみると、白いシャツの背中に、赤い手形が一つ押してあった。
小さい手だった。
平たく、ぺたんと一回。
誰にやられたのか、僕は答えられなかった。

草刈りは、十時半に一度休憩になった。
道の脇の日陰で、配られたお茶を飲む。
ケンタが携帯を出して、何か打ち始めた。
「ユウジに聞いたるわ。あいつ、今東京だで」
「返事来るか」
「日曜は暇しとるで、すぐ来る」

返事は、五分もしないうちに来た。
ケンタが画面をこっちに向ける。
上に、ケンタが送った文が見えた。
「四年の夏の神様池のゴミ拾い、何人だった? 女の子おった?」
その下に、ユウジの返事がある。
「三人。タクとケンタと俺。女子はおらんかったよ。神様池、なつかしいな」

「な」
ケンタは得意そうに言った。
僕は、画面の字を二回読んだ。
お茶のペットボトルが、手の中でぺこんと鳴る。
思ったより強く、握っていたらしい。

「人形ならおったけどな。おかっぱの」
ケンタが言った。
「覚えとるのか」
「覚えとるよ。箱に入っとって、三人いっぺんに後ろ向いたやつだろ。背中、ぽんってされた気がして」
「されたよな」
「風だわ、あんなの。あれと混ざっとるんだって、タクの女の子は」
ケンタは、あっさり言った。
そうかもしれない、と思う。
人形の髪と、あの子の髪は、同じ形に切りそろえてあった。

「袋の左、持っとったのはお前だよな」
「そりゃそうだわ。お前と俺で一枚だったもん」
ケンタは、迷わずに答えた。
袋の重みで、右手の指に持ち手が食いこんでいた感じを思い出す。
その左で、ぺらぺら余った軍手の先が揺れていた。

「坂野のじいさんは、元気なの」
「施設に入っとる。もう、話はできんわ」
ケンタはそう言って、草刈機を担ぎ直した。

休憩が終わって、反対側の岸に回った。
こっちは木が少なくて、家の屋根が近い。
デッキの上を、散歩の夫婦がゆっくり歩いていく。
刈った草を袋に押しこむたびに、細かい草くずが袖に入った。
暑くはないのに、首の後ろに汗が溜まる。
早く帰りたかった。
けれど母の代わりで来ている以上、途中で抜けるわけにもいかない。

僕は何度か、樹海のほうを振り返った。
木の間から、道の向こうを走る車が見えている。
下草が刈られて、昔よりずっと明るい。
あの段ボール箱があったあたりも、きれいに草が払われていた。
子どもの目には、あそこが森に見えていたのだ。

十一時半に、作業が終わった。
軽トラの荷台に、草の袋が山に積まれている。
道の脇の日向に、長机とパイプ椅子が出された。
ケンタの母親が、紙コップにお茶を注いで回る。
僕はケンタと並んで、端の椅子に座った。
ケンタが左で、僕が右だ。

「そういや、保存会の記録、俺が預かっとるんだわ」
ケンタが、ふいに言った。
「昔の写真もある。あの日の手形も、たしか載っとったはず」
「見たい」
自分の声が、少し早かった。
ケンタは腰を上げて、軽トラの助手席から青いファイルを持ってきた。

透明なポケットに、色の褪せた写真が一枚ずつ入っている。
最初のほうに、それがあった。
金網に、模造紙が針金で留めてある写真だ。
紙の隅に、マジックで坂野班と書いてある。
雨に打たれたのか、紙はよれて波打っていた。
「神様池をきれいにしよう」の字の下に、赤い手形が並んでいる。

四つあった。
声が出そうになって、紙コップを机に置いた。
四つだ。
やっぱり、四人いたのだ。
手形の下には、それぞれ平仮名で名前が書いてある。

左の端から、けんた、ゆうじ、たくや。
それから、右の端にもう一つ。
僕のすぐ右の、あの子が押したはずの場所だ。
その下にも、けんたと書いてあった。

「ほら、三人だがや」
ケンタが、写真を指で叩いた。
「手形は四つあるぞ」
「両手で押したんだわ、俺。端と端に」
言われて見ると、左の端の手形だけ、親指が右を向いている。
左手だ。
右の端は右手で、どちらも同じくらいの大きさだった。
「目立ちたがりだったでな、俺」
ケンタは笑いながら、僕の背中をぽんと叩いた。
肩が勝手に跳ねた。

「背中の手形も、あれ俺だわ」
「なんで知っとるの」
「お前、おばさんに怒られたって、次の日言っとったがや。あれ、俺がやったんだって」
ケンタは、紙コップのお茶を一息で空けた。

そうだったのか、と思う。
人形と、ケンタのいたずらと、両手の手形。
全部が、きれいに一つの話に収まっていく。
おかっぱの女の子なんて、最初からいなかったのだ。
十何年も、人形の髪に引っぱられていただけだ。
肩の力が抜けて、笑いが出た。

十二時を回った頃、ケンタの母親がやかんを提げて来た。
「おかわりは」
僕の紙コップに注ぎながら、開いたファイルに目を落とす。
「あら、懐かしい。これ、タクくんたちが行った年のだね」
「俺、両手で押したんだわ、これ」
ケンタが言うと、母親は写真の手形をしばらく見ていた。
それから、何でもないことのように言った。

「ケンタは、この日行っとらんよ。熱出して、私と家で寝とったもん」

ケンタが、「またそれか」と笑った。
母親は笑わなかった。
やかんを提げたまま、隣の机へ移っていく。

ケンタは、両手のひらをズボンの腿にこすりつけている。
右、左、右。
絵の具を拭き取るときの手つきだ、と思った。
僕は、ファイルを閉じられなかった。
あの日、袋の左を握っていたのが誰なのか。
隣に座るケンタには、まだ聞き直せていない。

舞台になった場所

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