高木から電話が来たのは、九月の終わりだった。
小学五年まで、千草台の団地で隣の棟に住んでいた男だ。
二十年以上、声も聞いていない。
同級生の連絡網に、俺の番号が載っていたらしい。
「お前、まだ稲毛だろ」
開口一番がそれだ。
電話の声は、団地の頃より低い。
笑い方だけが、変わっていない。
「白幡神社ってあるじゃん。萩台町の。近いだろ」
近い。
歩いて五分の借家に、俺は三年前から住んでいる。
築五十年の二階建てで、大家は三軒先のじいさんだ。
三十七で独り身だと、こういう家が気楽でいい。
通勤で、毎朝あの鳥居の前を通る。
朝でも、鳥居の奥は薄暗い。
大家のじいさんは、あそこは昔からこの辺の氏神だよ、と言う。
俺は一度も中に入ったことがない。
理由は特にない。
朝は急いでいるし、帰りは暗い。
そんなところだ。
高木は市川で中古車屋をやっているという。
去年離婚して、夜に眠れなくなった。
眠れない夜は、心霊スポットの動画を流しっぱなしにする。
白幡大神は、千葉では有名な部類らしい。
女が出る。
林から足音がする。
追いかけられる。
動画の説明文を、そのまま読み上げてきた。
「夜に行こうぜ。泊めてくれよ」
断った。
あそこは住宅地のど真ん中にある、普通の鎮守だ。
夜に騒げば、近所から通報が来る。
それに、夜のあの参道を歩いている自分が、想像できない。
昼なら案内する。
鳥居の外からだけだ。
そう言うと、高木は笑って承知した。
土曜の午後四時。
動物公園駅の改札で、高木と落ち合った。
背が縮んだのか、俺が伸びたのか、目線が同じ高さにある。
顔の輪郭だけが、小学生の頃のままだ。
駅から鳥居までは、歩いて六分ほどだ。
スポーツセンターの陸上競技場の脇を抜けて、住宅地の中の道を歩く。
金木犀の匂いが、垣根の向こうから流れてくる。
高木はスマホを構えたまま、ずっとしゃべっていた。
中古車の値段の話と、元嫁の話と、動画の話。
順番がぐちゃぐちゃで、小学生の頃と同じだ。
鳥居の前で立ち止まった。
向かいの集合住宅の駐車場に、夜間の駐車お断りの張り紙が出ている。
街灯は、鳥居の手前に一本だけだ。
額には「白幡大神」とある。
「白幡神社じゃないのか」
高木がスマホの地図を見せてくる。
地図のほうは白幡神社。
鳥居のほうは白幡大神。
どっちが正しいのかは、俺も知らない。
「載せてるところによって違うんだよ」
それだけ言った。
「殺人があったって書いてあるぞ」
「それはよその神社の噂と混ざってる。ここは裏が取れてない」
高木は、ふうん、と鼻を鳴らした。
鳥居の先は両側が林で、参道が奥へ折れている。
社殿は見えない。
竹が多くて、風が通るたびに上のほうで擦れる音がする。
高木は一歩踏み込みかけて、やめた。
俺が動かなかったからだ。
「足音の噂、ここだろ」
「犬の散歩の人だよ」
ちょうどそのとき、奥から柴犬を連れた老人が出てきた。
老人は俺たちを見て、夜は来るなよ、暗くて転ぶから、と言って通り過ぎた。
柴犬は、俺たちの足元を嗅いで、すぐに興味をなくした。
高木は拍子抜けした顔で、鳥居だけ撮って引き返した。
帰りは遠回りして、千草台の団地を抜けた。
俺たちが住んでいた二つの棟は、外壁を塗り替えたくらいで、形は変わっていない。
高木が三階のベランダを指さした。
「あそこから呼んでたんだよな、俺」
高木の棟は三階、隣の棟の俺の部屋は二階。
斜めに声が飛ぶ距離だ。
呼ぶのは決まって夜で、親に見つかると二人とも叱られた。
夕方の団地には、子供の声が一つもなかった。
自転車置き場の屋根で、鳩が鳴いているだけだ。
高木は、自分の棟の三階を、しばらく見上げていた。
夜は、うちで飲んだ。
一階の台所で、缶ビールを六本。
高木のスマホは、充電ケーブルに繋いだまま食卓の端に置いてあった。
缶を開けるたびに、高木は鳥居の写真を見返していた。
高木の祖母の話になった。
団地にいた頃、高木の部屋に泊まると、ばあさんが必ず言った。
夜に名前を呼ばれても、三回目まで返事をするな。
人は面倒くさがって二回で諦める。
三回呼ぶのは、本当に用のある者だけだ。
「あれ、俺いまだに守ってんだよ」
高木が笑った。
俺も笑った。
小学生の俺たちは、あの決まりで遊んだ。
ベランダ越しに、相手の名前を二回だけ呼んで黙る。
つい返事をしたほうが負け。
呼んで、黙って、こっちが「なに」と言うまで待てる子が勝つ。
勝ったほうは、翌日の給食のプリンをもらえる。
俺はよく負けた。
高木は、一度も負けなかった。
「ばあさん、あの決まりの後に、もう一つ言ってたんだよ」
高木が缶を揺らしながら言った。
「なんだっけ」
「思い出せない。返事をしなかった後の話だった気がする」
俺も覚えていない。
ばあさんは、小五の夏に亡くなった。
高木が引っ越したのは、その半年後だ。
缶ビールの最後の一本を、二人で分けた。
高木は、動画の書き込みの話をした。
林の中から、名前を呼ばれた、と書いた人がいるらしい。
俺の名前を呼ぶ人間は、この町に大家と隣の奥さんしかいない。
「知らないやつに名前を呼ばれるか」
俺が言うと、高木は答えずに、缶の底を見ていた。
十一時過ぎに、高木を一階の和室に寝かせた。
高木はスマホと充電器を抱えて、襖の奥に入っていった。
六畳で、畳の匂いがきつい部屋だ。
俺は二階の寝室へ上がった。
階段はまっすぐで、途中に踊り場がない。
十三段ある。
引っ越しの日に、荷物を運びながら数えた。
寝室の戸は引き戸で、鍵はない。
この家に来て三年、鍵が欲しいと思った夜はなかった。
窓は、玄関の真上にある。
上がる前に、玄関の鍵を回して、チェーンもかけた。
勝手口は、引っ越してきた日から釘で止めてある。
出入りできるのは玄関だけの家だ。
布団に入ると、下の和室から高木のいびきが上がってきた。
酒が入ると、昔からいびきがうるさい。
それを聞きながら、俺も眠った。
一時を少し回った頃だ。
階段の下から、声がした。
「佐伯、起きてる」
高木の声だ。
「腹減った。なんかない」
声は、階段の一番下から動かない。
俺は布団の中から答えた。
「台所の棚。カップ麺あるから。湯は自分で沸かせ」
「ん」
短い返事の後、廊下の板が鳴った。
それきり、足音が台所へ向かう。
蛇口の音。
電気ケトルが立ち上がる、低い唸り。
湯が沸き切る音は、聞かなかった。
俺は天井を見ながら思った。
いま、一回で返事をした。
ばあさんの決まりを、あっさり破った。
声は低くなったのに、呼んでから黙るまでの間だけは、ベランダの頃のままだ。
馬鹿らしくなって、目を閉じた。
二時。
階段を、誰かが上がってくる。
ゆっくりだ。
一段ずつ、板がしなる。
俺は数えた。
十一段目で止まった。
上がり切る二段手前だ。
しばらく、何もない。
息づかいも、衣擦れもない。
それから同じ速さで、下りていった。
礼でも言いに来て、気が変わったんだろう。
酔って、便所の場所でも間違えたか。
俺はそう決めて、寝返りを打った。
背中が、少し冷えている。
下の和室から、いびきは聞こえてこない。
起きているなら、それでいい。
俺は毛布を肩まで引き上げた。
古い家は、夜中に板が鳴る。
三年住んで、慣れたつもりでいた。
三時を過ぎた。
目が覚めたのは、戸のすぐ外で声がしたからだ。
「佐伯」
高木の声だ。
間があって、もう一度。
「佐伯」
息を吸う音が、ない。
「開けて」
俺は戸を見た。
廊下の常夜灯は消してある。
戸の隙間から入ってくる光は、ない。
引き戸だ。
鍵はない。
引けば開く。
「開いてるよ。入れよ」
「開けて」
同じ高さ、同じ長さ。
最初の一回と、寸分も違わない。
俺は布団から出て、引き手に指をかけた。
木が冷たい。
そこで、指が止まった。
二回だ。
名前は二回しか呼ばれていない。
三回目が来ない。
ばあさんの声が、頭の後ろで言う。
人は二回で諦める。
三回呼ぶのは用のある者だけだ。
じゃあ、二回で止めて、戸を開けろと言うのは、何だ。
高木は、一度も負けなかった。
二回で止める側の人間だ。
そこまで考えて、首の後ろの毛が立った。
「高木」
俺は呼んだ。
戸の向こうは返事をしない。
代わりに、足音が走った。
下りの階段を、ドスン、ドスン、ドスン、と三つ。
板が割れるかと思う重さで、一気に落ちていく。
十三段を、四つ目の音で下りきった。
最後の一音で、消えた。
耳の奥で、自分の脈だけが鳴っている。
廊下の板は鳴らない。
台所の戸も鳴らない。
和室の襖も鳴らない。
俺は戸から離れて、枕元のスマホを掴んだ。
指が滑って、番号を二度押し直した。
高木の番号。
呼び出し音が、一回、二回。
床の下から、くぐもった着信音が上がってくる。
和室だ。
高木のスマホは、和室で鳴っている。
その音に被せるように、俺の戸の引き手が、かたかたと鳴った。
誰かが外から、戸を揺らしている。
音だけだ。
戸は動かない。
呼び出し音が、四回、五回。
「はい」
寝ぼけた高木の声が、耳の中に入ってきた。
その瞬間、引き手の音が止んだ。
「どうした」
「なんでもない。寝ろ」
俺は切った。
それから朝まで、戸の前に座っていた。
膝が震えて、立てなかった。
引き戸の木目を、ずっと見ていた。
木目の数を途中まで数えて、やめた。
電話に出た声と、戸を揺らした音が、同じ時刻に重なっていた。
背中に汗が張りついて、冷えていった。
新聞配達のバイクが通り、モノレールの始発が遠くで鳴った。
鳥の声が増えていく。
スマホの画面には、三時十二分の発信履歴が一件だけ残っている。
通話時間は、六秒。
戸の向こうは、何の音も立てない。
下の和室からも、いびき一つ上がってこない。
六時半。
窓の外が白くなって、やっと足が動いた。
戸を引く。
廊下には何もない。
階段を下りる。
十三段、全部数えた。
台所の棚のカップ麺は、俺が買った位置のまま、蓋も剥がれていない。
電気ケトルは、冷えていた。
流しの底も、乾いている。
玄関の鍵は、閉まったままだ。
チェーンも、かけたときの位置にある。
高木は和室で、布団の上に胡座をかいていた。
目が赤い。
俺の顔を見て、何か言いかけて、やめた。
「夜中に電話してきたろ。出たら、寝ろって切られた」
「お前、一時ごろ、腹減ったって言ったよな」
「言った。返事なかったから寝た」
俺は答えた。
棚だ、湯は自分で沸かせ、と。
高木は首を振った。
「聞こえてない。しばらく階段の下に立ってたけど、お前の部屋、真っ暗だったし」
それから、言いにくそうに付け足した。
「その後で、お前が二階を上がったり下りたりしてたろ。便所かと思って黙ってた」
俺は一度も、階段を下りていない。
そう言おうとして、やめた。
言っても、高木の赤い目が余計に赤くなるだけだ。
代わりに、コーヒーを二つ淹れた。
高木は、砂糖を三杯入れた。
小学生の頃は、牛乳に砂糖を三杯入れる子だった。
九時に、高木を駅まで送ることにした。
玄関で靴を履いていると、隣の奥さんが洗濯物を抱えて出てきた。
六十を過ぎた、口の軽い人だ。
奥さんの寝室は、うちの玄関と垣根一枚を挟んだ位置にある。
垣根越しに、こっちを見て笑った。
「ゆうべは遅くまで賑やかだったねえ」
「すみません。友達が来てて」
「いいのよ、それはいいの」
奥さんは洗濯ばさみを握ったまま、顎でうちの玄関を指した。
「三時ごろ、そこでずっとお宅の名前を呼んでた人、入れてあげたんでしょ」
「そこ、ですか」
「そこ。二回呼んでは黙って、また二回。夜中なのに気の毒でさ」
「ああ、こいつが」
俺は高木の背中を叩いた。
奥さんは高木を見て、洗濯ばさみを握った手を下ろした。
「あら。女の人の声だったけど」
高木が、靴ひもを結ぶ手を止めた。
俺は、二階の窓を見なかった。
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