十二時の鐘が鳴ると、多田は倉庫の裏口から外に出る。
伊勢崎市の流通団地にある倉庫に勤めて、三年目になる。
仕事は検品と伝票の打ち込み。
昼休みは四十五分しかない。
社員食堂はなく、休憩室は喫煙組の男の声でいつも騒がしい。
女子更衣室で上着だけ替えて、裏口へ向かう。
三十四歳、独り暮らし。
昼だけは、ひとりで静けさを買いに行く。
白い軽で五分走ると、伊与久沼公園に着く。
日乃出町の交差点を曲がって、工場の塀に沿って南へ下る道だ。
境いよく野球場の脇に車を停める。
駐車場の南は、フェンス一枚で田んぼに接している。
駐車場の端に公衆トイレがあって、その横に水飲み場。
多目的トイレの扉は、ボタンを押すと横に開く。
ここで弁当を食べて、沼を一周して戻る。
四月から続けている習慣だ。
十月に入って、蓮の葉が茶色く縮れてきた。
水の上に、枯れた葉の匂いが薄く漂っている。
県道をトラックが通るたび、車体が小さく揺れる。
工業団地の方からは、フォークリフトの後退音が流れてくる。
ピー、ピー、と間延びした音。
それが昼の伊与久沼の音だ。
風のある日は、野球場のネットが鳴る。
沼のまわりには遊歩道がある。
一周して十五分ほど。
護岸は固めてあって、低い柵が水際に続いている。
柵の内側に降りる人はいない。
向こう岸に雷電神社の森が見える。
道の真ん中には弥八の柳が一本、立ったままだ。
車はそれを避けて通っていく。
多田はその柳の下で、いつも一度足を止める。
水面を見て、息を吐いて、また歩き出す。
それだけの昼だ。
東屋には、たいてい先客がいる。
青い作業着の男で、五十くらい。
胸の刺繍を見る限り、別の会社の人らしい。
缶コーヒーを持って、ベンチの端に座っている。
目が合えば会釈をする。
名前は知らない。
向こうも知らないはずだ。
話したことは一度もない。
その動画を見たのは、水曜の夜だった。
風呂上がりに、短い動画のアプリを開く。
おすすめの一番上に、見慣れた景色が出てきた。
「伊与久沼公園 昼 何も起きません」
投稿者の名前は、ただのひる。
再生回数は十万を超えていた。
五十秒の動画だった。
昼の光の中を、遊歩道を歩く速さで景色が流れていく。
枯れた蓮、柳、野球場のフェンス、駐車場。
撮っている人の足音と、トラックの音。
それだけで終わる。
何も起きないのに、なぜ十万回なのか。
コメント欄を開いた。
「三十二秒」
「音だけ聞いて」
「ピンポーンって鳴ってる」
「これ、昼間だよね」
「群馬の人、場所分かる?」
イヤホンを差して、三十二秒まで戻した。
柳の下で画面が止まり、水面が映る。
その瞬間、ピンポーン、と鳴った。
知っている音だ。
駐車場脇の公衆トイレ。
あそこの多目的トイレは、扉が開くときにこの音が出る。
多田も何度か使った。
柳とトイレは、沼を挟んで反対側になる。
それでもマイクは拾う。
小さな公園だし、水の上は音がよく通る。
そう考えれば、何でもない。
少し笑った。
自分の昼休みの場所が、十万回も見られている。
それだけのことだ。
アプリは、多田が毎日あそこにいるのを知っているのかもしれない。
位置情報は切ったつもりでいる。
設定の画面を開く前に、眠気が勝った。
アプリを閉じて、布団に潜る。
木曜の昼。
弁当を食べ終えて、いつもの一周に出た。
今日は耳を立てて歩いた。
自分の足音、砂利の音、トラック。
東屋の男が、こちらを見て会釈した。
多田も頭を下げた。
缶コーヒーの銘柄まで、今日は目に入る。
神社の森から、鳥が二羽飛び立った。
雷電神社の鳥居は、道からでも見える。
多田は一度も境内に入ったことがない。
入る用事がないからだ。
柳の下で足を止める。
水面に、枯れた蓮の茎が突き立っている。
風はほとんどない。
日差しが首の後ろに当たって、じわりと熱い。
ピンポーン。
水の向こうで鳴った。
首だけ回して、駐車場の方を見る。
公衆トイレの前から、青い作業着が歩き出すところだった。
男が使っただけ。
肩から力が抜けた。
届くんだ、と思う。
あの動画も、こうして拾っただけ。
それで済んだ。
その日は、それで済んだ。
その夜、また同じ投稿者の動画が出てきた。
「伊与久沼公園 昼 二本目」
投稿は昨日。
昨日は水曜。
多田が一本目を見た日だ。
同じ道、同じ速さ。
枯れた蓮、柳、フェンス、駐車場。
説明の欄に一行だけ書いてある。
「朝七時に撮影。誰もいません」
コメントを読んだ。
「三十二秒、またピンポーン」
「駐車場の白い軽、一本目にもいた」
「東屋に人いるけど」
指が止まった。
画面を戻して、駐車場のところで止める。
白い軽が一台。
野球場のフェンス寄り。
多田がいつも停める場所だ。
白い軽なんて、この辺りにいくらでもある。
会社の駐車場にも五台はいる。
そう思いながら、画面を二本の指で広げた。
フロントガラスに銀色の日よけ。
多田の車にも、銀色の日よけが入っている。
あれも、近くの量販店で山積みにされている品だ。
東屋の方へ画面を送る。
小さく、青い作業着の背中が見えた。
朝七時に、あの人がいるのか。
早番なら、いるかもしれない。
そういうことにした。
柳の影が短い。
幹のすぐ下に、丸く落ちている。
朝七時の柳を、多田は見たことがない。
見たことのないものとは、比べようがない。
もう一つ、引っかかることがある。
一本目と二本目で、足音の間隔が同じだった。
同じ人が歩いているのだから、当たり前だ。
当たり前のことを、わざわざ確かめている自分がいる。
画面を消して、布団に入った。
目を閉じても、しばらく喉が鳴っていた。
金曜の昼。
弁当を車の中で食べながら、東屋の方を見ていた。
青い作業着は、いつもの端に座っている。
缶コーヒーを傾けて、沼の方を向いたまま動かない。
今日は風があって、沼の面が細かく波立っていた。
食べ終えて、車を降りる。
一周の前に、東屋の前を通った。
初めて、声をかけてみる。
「朝も、来てます?」
男は缶を膝に置いた。
「朝? 昼しか来ねえよ」
「そうですか」
「昼休みだもん。あんたも毎日いるね」
「はい」
それだけ言って、歩き出した。
朝七時に、あの人はいない。
動画の説明と、本人の言葉が合わない。
誰かが間違えているだけだ。
投稿者か、男か。
背中に汗が出ていた。
柳の下では、足を止めなかった。
水面も見ずに、残りの道をいつもより速く抜ける。
一周の終わり近く、駐車場の南のフェンス際で足が止まった。
フェンスの向こうは、すぐ田んぼだ。
周りの田はもう刈り終えていて、切り株が並んでいる。
一枚だけ、黄色い稲が残っていた。
刈るのが遅れているのか、わざと残しているのか。
今まで気に留めたことがなかった。
その稲が、筋になって倒れていた。
農道の側から、こちらへ向かって。
一本の線になって、公園のフェンスで止まっている。
幅は人ひとり分。
風で倒れたなら、もっと広く寝るはずだ。
農道には、軽トラも人も見えない。
穂先が、フェンスの金網に触れていた。
誰かが歩いただけだ。
農家の人が、様子を見に入っただけ。
そう思って、線の先を目で追った。
金網のすぐ向こう側。
線は、フェンスを挟んで、多田の白い軽の真後ろで終わっていた。
足が勝手に速くなって、車に戻る。
鍵を回す手が、二度すべった。
倉庫に戻ったのは、十二時五十分。
課長に遅刻を言われた。
謝りながらも、手の冷たさが戻らない。
金曜の夜、三本目が上がった。
「伊与久沼公園 昼 三本目」
投稿は、今日。
今度は、画面が動かない。
柳の下で止まったまま、水面を映している。
足音がない。
トラックの音と、フォークリフトの後退音だけ。
水面の波立ちが、昼に見たものと同じだった。
三十二秒。
ピンポーン。
今までより、はるかに近い。
マイクのすぐ横で鳴ったような音量だった。
すぐあとに、息を吸う音が入る。
「はい」
女の声だった。
低くも高くもない、ただの返事。
玄関の呼び鈴に出るときの、あの声。
そこで画面が切り替わる。
今度は田んぼの中だ。
農道の側から、倒れた稲の筋を撮っている。
線の先に、フェンスと、白い軽。
画面がゆっくり下がる。
足元の稲が、まだ揺れている。
そこで終わった。
コメントは千を超えていた。
「撮ってるの誰」
「はいって言ったの誰」
「稲、通った跡じゃん」
「これ今日?」
「投稿時間、十二時三十五分」
「白い軽の人、見てたら逃げて」
多田は、動画をもう一度最初から再生した。
「はい」のところで止める。
三回聞いて、四回目は音量を上げた。
自分の声かどうか、分からない。
録音した自分の声は、いつも他人の声に聞こえる。
会社の留守電の声も、自分では分からなかった。
そう思うことにして、アプリを閉じた。
通知を切って、イヤホンは引き出しの奥だ。
車の音楽は、月曜からラジオにしようと決める。
携帯とカーステレオの接続も、その場で切った。
土曜も日曜も、公園には行かなかった。
行く理由がない。
昼休みがないのだから。
洗濯をして、実家に電話をして、それで終わった。
母の声を聞いている間だけ、肩が下りている。
日曜の夜、アプリから通知が来ないのを何度も確かめた。
切ったのは自分なのに。
月曜の十二時。
倉庫の裏口から出て、白い軽に乗った。
別の場所で食べることも考えた。
流通団地の近くに、車を停められる場所は少ない。
コンビニの駐車場は、三十分で追い出される。
ハンドルは、伊与久沼公園に向いていた。
野球場の脇に停める。
いつもの場所ではなく、二つ隣に入れた。
携帯は鞄の底に入れたままにした。
接続は切ってある。
カーステレオの画面は、黒いままだ。
ラジオは点けなかった。
点けるには、ステレオに触ることになる。
弁当を開いた。
卵焼きを一つ食べたところで、時計を見た。
十二時三十二分。
スピーカーから、音が出た。
ピンポーン。
一度だけ。
車の中で、四方から鳴った。
ステレオの画面は黒いまま。
電源の灯りも点いていない。
鞄の底で、携帯は動いていない。
窓は閉めてある。
外の音が、こんなふうに車内で鳴るはずがない。
それでも窓を開けた。
枯れた蓮の匂いが、ひと息で入ってくる。
東屋のベンチに、青い作業着が見える。
トイレの前には、誰もいない。
多目的トイレの扉は、閉まっている。
箸を置く。
弁当に蓋をして、助手席に置いた。
膝の上で、指が勝手に組まれている。
降りた。
一周はしないつもりだ。
田んぼだけ、見ておこうと思った。
見ないと、午後の仕事が手につかない。
南側のフェンスに沿って歩く。
稲の筋は、まだそこにあった。
三日前より、黄色が褪せている。
線の先に、空いた駐車枠。
そこは、多田がいつも停めていた場所だ。
芝生の上に、目を落とした。
フェンスの下をくぐるように、芝が一筋、寝ている。
倒れた稲と同じ幅。
その筋は、駐車場の縁石まで伸びている。
縁石の先は、空いた枠。
今日は二つ隣に停めている。
筋は、空いた枠の縁石で途切れていた。
多田は東屋へ歩く。
一周は、やめにした。
男がいる端とは反対の端に、腰を下ろした。
木のベンチは、日なたで温かい。
男との間は、三メートルほど。
缶コーヒーの甘い匂いが、風に乗って届く。
男がこちらを見て、何か言いかけてやめた。
水の向こうに、駐車場とトイレが見える。
ここからだと、全部が見える。
今までは、歩きながら背を向けていた。
座って、正面から見るのは初めてだ。
ピンポーン。
「はい」
声が出てから、自分の口だと気づいた。
男が缶コーヒーを持ったまま、こちらを見ている。
多田は、口を手で押さえない。
押さえる気が起きなかった。
動画の声と比べようとして、やめた。
記憶をたどる。
さっき車の中でも、言った気がする。
木曜の柳の下でも、小さく言っていたかもしれない。
数えると、これで三回目になる。
金曜の動画の分は、数えないことにした。
トイレの扉は、閉まったままだ。
誰も出てこない。
男が立ち上がって、缶を潰した。
帰るらしい。
多田は、動かない。
十二時四十分。
戻る時間だ。
立たなかった。
もう一回鳴るまで、ここにいると決めていた。
いつ決めたのかは、分からない。
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