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中沢池公園の紙コップ

夫は、医者に歩けと言われている。

去年の健康診断で、血糖値が引っかかった。
それから毎晩、三十分は歩く決まりになった。
一人だと続かない人だ。
三日で飽きて、言い訳を探し始める。
だから私が付き合う。

私たちは今年の春、多摩市の唐木田に越してきた。
小田急多摩線の終点だ。
家賃のわりに部屋が広くて、ベランダから丘の緑が見える。
その緑の向こうがゴルフ場だと知ったのは、越してきてからだ。

私の会社は新宿にある。
帰りは、たいてい十時を回る。
夫は在宅の仕事で、夕方には手が空く。
駅まで迎えに来て、そこから二人で遠回りをして帰る。
それが夫の三十分になる。

駅から家まで、まっすぐ帰れば十分もかからない。
公園を回ると、二十五分。
私の足だと、もう少しかかる。
夫は私の歩幅に合わせて、少し前を歩く。
懐中電灯の輪が、いつも私の爪先の少し先にある。

遠回りの先が、中沢池公園だった。

駅から坂を下りると、住宅の明かりが少しずつ減っていく。
ゴルフ場の脇を抜けると、谷のいちばん低いところに池がある。
寛文のころに掘られた溜池だと、公園の案内板に書いてあった。
昼間は釣りの人がいて、六月には花菖蒲が咲くらしい。
夜は、ほとんど真っ暗だ。

街灯は入口のあたりに一本だけ。
夫はそれを知っていて、小さい懐中電灯を持ち歩く。

「夜に行く公園じゃないよ」

会社の原さんにそう言われた。
原さんは多摩市の生まれで、唐木田の駅ができる前の景色を知っている。
昼休みに中沢池の名前を出したら、箸を止めた。

「あそこ、写真撮ると人が増えるんだよ」

笑いながら言った。
私も笑った。
写真なんか撮らない。
歩いて帰るだけだ。

その晩、布団の中で公園の名前を検索した。
池の向こう岸に誰かが立っている、という書き込みがいくつかあった。
原さんの話とは違う。
増えるのではなく、立っているらしい。
画面を消して、目を閉じた。
噂なんて、場所ごとに形が変わる。

十月の最初の月曜だった。

十時二十分の電車で唐木田に着いた。
改札の外で夫が手を振っている。
坂を下りる途中で、金木犀の匂いが降りてきた。
どの家の木なのかは分からない。
毎年この匂いがすると、年末が見えてくる。

公園の入口で、夫が懐中電灯をつけた。
池の東側に遊歩道がある。
木道を渡って、水車小屋の前を通り、池沿いに戻ってくる。
それで一周だ。

水車は夜も回っている。
水の落ちる音だけが、ずっと後ろからついてくる。

池のそばに、四阿とベンチがある。
ベンチは、池に背を向けた置き方だ。
座ると、目の前が斜面の雑木林で、背中が水になる。
夫の懐中電灯が、その座面を照らした。

上着が置いてあった。

モスグリーンのジャンパー。
きれいに畳んである。
袖を内側に折って、襟を上にして。
店で売っている時の畳み方だった。

「忘れ物だな」

夫が言った。
ベンチの足元に、紙コップが一つ落ちていた。
白い、どこにでもある紙コップ。
口を下にして、伏せてある。

「釣りの人かな」
「十月に、こんな時間まで?」
「昼間に忘れたんだろ」

夫はベンチの端に腰を下ろして、靴紐を結び直した。
背もたれに肘を掛けて、池のほうは見ない。
私はその後ろで立っていた。
ジャンパーには触らなかった。
触る理由がない。

愛護会の人が朝に片付けるだろう。
それで終わりだと思っていた。

ベンチを離れると、遊歩道は公園の外の道路へ緩く上る。
木の間から、道路の明かりが見えてくる。
そこまで来ると、夫は懐中電灯を消す。
池の匂いが、坂の途中で急に薄くなる。
谷の底に溜まっている匂いなのだと、その時に分かった。

家に帰ると、夫はすぐ風呂に入る。
私は紙コップのことを、気にも留めていなかった。

火曜の昼、原さんに聞かれた。

「行ったの、あそこ」
「通って帰ってる。毎晩じゃないけど」
「何かあった?」
「上着が落ちてた。誰かの忘れ物」

原さんは弁当の蓋を閉めた。

「触ってないよね」
「触らないよ」
「うちの親はね、あの池の物は拾うなって言ってた」

拾うな、の意味は聞いていない。
原さんも、それ以上は言わなかった。
午後の会議の話に変わって、そのまま流れた。

水曜も、同じ時間の電車だ。

昼に雨が降った日で、坂の落ち葉が靴の裏に張りつく。
夫は傘を持って迎えに来ていた。
もう雨は上がっていたのに。

「歩くの、今日はやめとく?」
「濡れてないから大丈夫」

夫がそう言うなら、歩く。
公園の中は、濡れた土の匂いで満ちていた。
池の水の匂いも、月曜より強い。
泥と、草の腐る手前の匂い。

木道の板が濡れていて、一枚ごとに音が違った。
夫が前、私が後ろ。
二人分の足音のあとに、もう一つ、遅れて板が鳴る。
夫が立ち止まると、それも止まる。

「板が沈んで、戻る音だ」

夫が言った。
古い木道はそういうものらしい。
私は頷いて、夫の背中との間を一歩詰める。
水車小屋の前を過ぎると、その音は消えた。

ベンチのところまで来て、夫が懐中電灯を止める。

ジャンパーがあった。

今度は、背もたれに掛けてある。
両方の袖が、座面のほうへだらりと垂れている。
誰かがそこに座って、立ち上がって、上着だけ残していった。
そういう形だ。

「月曜は畳んであったよね」

私が言うと、夫は首を傾げた。

「いや、背もたれに掛かってただろ」
「座面に畳んであった。襟を上にして」
「俺、座ったぞ。畳んであったら隣に座らないよ」

言われてみれば、そうかもしれない。
夫はベンチの端に座った。
畳んだ上着が隣にあれば、私なら気にする。
夫は気にしない人だ。

私の記憶違いだ、と思うことにした。
そう決めると、胸の奥の引っかかりが少し薄れた。

座面に、紙コップが二つ並んでいる。
今度は口を上にして、きちんと立っている。
一つではない。
二つだ。

「誰か、ここで飲んでるな」

夫が笑って、続けた。

「酒盛りか。ゴルフ場の人かな」
「紙コップで?」
「缶を注いで飲む人もいるよ」

私は数えるのが癖だ。
会社で経理をしているせいだと思う。
月曜は一つ。
水曜は二つ。
数えてどうなるものでもない。
分かっていて、数えてしまう。

夫は柵のところへ行って、両手を手すりに置いた。
池の向こう岸を、懐中電灯で撫でる。
光は途中で水に吸われて、向こうまで届かない。

「真っ暗だ」

夫が言った。
その時、線香の匂いがした。

煙が流れてきたのではない。
匂いだけが、すっと鼻の奥に入ってきた。
池のまわりに家はない。
ゴルフ場のクラブハウスは遠い。

「線香くさくない?」
「蚊取り線香じゃないか。管理の人が焚いたんだろ」
「十月だよ」
「まだ蚊はいる」

夫は手すりから手を離した。
手のひらを、ズボンで拭いた。

「濡れてるな、これ」

雨の後だ。
手すりが濡れていて当たり前だろう。
そう思えば済む話だ。
済む話なのに、手のひらの冷たさを想像して、指を握り込んでいた。

帰り道、水車の音が、来た時より大きく聞こえた。

家に着いてから、夫は洗面所で長いこと手を洗っていた。
水の音が止まらない。
覗くと、鼻を手のひらに近づけている。

「池のにおいがする」

そう言って、また石鹸を泡立てた。
手すりを触ったのだから、そんなものだろう。
私はタオルを渡して、台所に戻った。

木曜の帰りは八時。
夕食を済ませて、私が風呂に入ったのは十時過ぎ。
その間に、夫は一人で歩きに出た。
戻ってきたのは、十一時前。
髪が湿っていて、頬が冷えていた。
長かった、とは思った。
聞かなかった。

「どうだった」
「何もなかったよ。片付いてた」
「コップも?」
「コップ? ああ、なかった」

夫は靴下を脱ぎながら答えた。
声はいつもと変わらない。
私はそれで安心して、先に寝た。
夫が寝室に来たのが何時だったかは、覚えていない。

金曜は、本当は歩きたくなかった。

週の終わりで、足が重い。
電車の中で、タクシーで帰ろうと言うつもりだった。
改札を出たら、夫がもう歩く格好で立っていた。
懐中電灯をポケットに入れて、手袋までしている。

「今日、冷えるぞ」

それで、言えなくなった。

坂の金木犀は、もう匂わなかった。
すぐ散るのだ、あの花は。
代わりに、落ち葉の湿った匂いが濃い。

公園の入口の街灯が、月曜より暗く見えた。
玉が古いのだろう。
脇の道路を、車は一台も通らない。
ゴルフ場の方角も、クラブハウスの明かりが落ちている。
今夜この谷にいるのは、たぶん私たちだけだ。

歩きながら、一つだけ決めていた。
コップが三つあったら、そこで引き返す。
夫が何と言っても、引き返す。
二つまでなら、まだ酒盛りの話で済む。

夫の懐中電灯の輪が、遊歩道の先に伸びる。
木道を渡る。
板が一枚、足の下で鳴った。
水車の音。
池の匂い。
もう順番を覚えてしまっている。

ベンチが見えてきた。

上着が、なかった。

座面に、ジャンパーはない。
背もたれにも、掛かっていない。

「片付けられたね」

声が、思ったより明るく出た。
夫の言った通りだ。
肩から力が抜けていくのが分かった。
愛護会の人が持っていったのだ。
それでいい。

夫の懐中電灯が、座面を横に流れた。

紙コップが三つ、並んでいた。

等間隔だ。
人が三人、並んで座った時の間隔。
片側に寄せてあって、月曜に夫が座った端だけが空いている。
どのコップにも、水が入っていた。
光が中で揺れる。
雨は、水曜の昼から降っていない。

「三つ」

数えてしまった。
口に出してから、しまったと思った。

引き返す、と決めていたはずだ。
夫はもうベンチの前に立っている。
懐中電灯も夫の手にある。
一人で戻る木道のほうが、ここより暗い。

「いたずらだよ」

夫が言った。
声が少し低くなっていた。
夫はいたずらだと言う時、いつも声が低くなる。

「ホームレスの人かもしれない。市に言っておく」
「言わなくていいから、帰ろう」
「あの上着、どこ行ったんだ」

夫が懐中電灯を上げた。
光が柵のほうへ動いた。

ジャンパーは、柵に掛かっていた。

手すりの上に、襟が乗っている。
両方の袖が、柵の隙間から池のほうへ突き出ていた。
人が手すりに両手を置いて、池を見ている。
その形で、上着だけがそこにあった。

水曜に、夫が立っていた場所だ。

首の後ろの皮膚が、きゅっと縮んだ。
息を吸ったのに、胸まで入ってこない。

夫が一歩、柵に近づいた。

「持って帰る。交番に出す」
「やめて」
「誰かが毎晩いじってるんだ。放っとけないだろ」

夫はこういう時に、正しいことをしたがる。
悪い人ではない。
でも今は、正しさが動いてほしくなかった。

あの池の物は拾うな。
原さんの声が、耳の奥で鳴った。
意味は聞いていない。
聞いていないから、止める言葉がない。

柵のそばは、空気が一段冷たい。
頬の片側だけが、池の側から冷えていく。
風はない。
それなのに、冷たさには向きがある。

私は夫の後ろに回った。
夫の懐中電灯の光が、ジャンパーの袖を照らす。
手首の位置に、袖口がある。
袖口の内側から、水が落ちていた。

一滴ずつ。
池のほうへ。

夫の手が、袖に届く前で止まった。
私が、その手首を掴んでいたからだ。
手袋の上から、夫の脈が速いのが分かった。

「帰ろう」

小さい声しか出なかった。
夫は何も言わない。
懐中電灯の光が、しばらく袖口に当たったまま動かない。
一滴。
また一滴。

それから夫は、ゆっくり腕を引いた。
引いた手を、光の中で裏返す。
手袋の指先が、黒く濡れていた。
袖には、届いていなかったはずだ。

夫はその手を、何も言わずにポケットに入れた。

来た道を戻るのは、遠い。
木道のほうは、街灯が一本もなく、真っ暗だ。
道路の明かりまで行くほうが、ずっと近い。
ベンチの前を通れば、すぐそこだ。

私は夫の手首を掴んだまま、歩き出した。
ベンチの前を通る。
見ないつもりだった。
見てしまうのが、私だ。

紙コップが、四つになっていた。

四つ目は、ベンチの端。
月曜に夫が座った場所。

数えるのをやめた。
懐中電灯は夫が持っている。
強く引いた。

後ろで、紙コップが倒れる音がした。
軽い音だ。
転がって、止まる。

振り返らなかった。
夫の手首を引いたまま、池に背を向けて歩いた。

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