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伊勢崎・龍神宮の川しずめで渡された白い箱

十月の第二日曜。
昼の十二時を少し回ったところだった。

沙織は娘の美結の手を引いて、竜宮橋を渡った。
広瀬川の水は、橋の上から見ると茶色く濁っている。
先週の雨が、まだ川に残っているらしい。

車は川向こうのコインパーキングに置いてきた。
龍神宮には駐車場がない、とプリントに書いてあったからだ。
橋まで歩いて十分。
美結はその間ずっと、お祭りの歌を自分で作って歌っていた。
土手の道には自転車が何台か通るだけで、歩いているのは二人きりだ。
オートレース場の大きな壁が、川向こうに見えていた。

来る気になったのは、陸くんの母親に誘われたからだ。
毎年行ってる、小さいけど子どもは喜ぶよ、と園の玄関で言われた。
プリントには三年に一度と書いてあった気がするが、聞き返さなかった。
どっちでもいい。
美結が喜べばそれでよかった。

橋を渡り切ると、土手の上にサイクリングロードが通っている。
そこから河川敷へ、コンクリートの階段が下りていた。
階段の下に木立があって、その中に赤い鳥居が見える。

龍神宮。
保育園のプリントで知った名前だ。
川しずめの小さなお祭りがある、子どもにお菓子が出る年もある、と書いてあった。

美結は六歳になったばかりで、お祭りという言葉に弱い。
朝から浴衣を着たがって、十月だからと止めるのに三十分かかった。
沙織が折れて、上着姿に赤い巾着だけ持たせている。

階段を下りる。
手すりは錆びていて、美結には握らせなかった。
一段ごとに、焼きまんじゅうの味噌だれの匂いが濃くなった。
川の音も近くなる。
木立の中に入ると、日差しが急に細くなった。
上着の袖から出た手の甲が、ひやりとする。
美結はそれでも、階段の残りを跳ねるように下りていった。

お祭りと言っても、ささやかなものだ。
法被を着た氏子が十人ほど。
屋台は二つ。
焼きまんじゅうと綿あめ。
子どもは美結を入れて五、六人しかいない。
保育園で一緒の陸くんが、母親と綿あめの列に並んでいた。
美結が手を振ると、陸くんも振り返した。

鳥居の前で、沙織は足を止めた。
一礼して、くぐる。
胸の真ん中を、誰かの手のひらで軽く押されたような感じがした。
息を吸い直す。
木陰に入って体が冷えたせいだ、と思うことにした。

鳥居の奥に短い参道があって、小さな祠がある。
その横に、亀に乗った男の石像。
浦島太郎だと、プリントの隅に書いてあったのを思い出した。
石碑もあった。
文字が細かくて、読めたのは所々だけだ。
川底、という字と、三年、という字。
あとは箱、という字らしきものが一つ。
美結が引っ張るので、途中でやめた。
浦島太郎の話なら、家に絵本がある。
石碑まで読まなくても筋は知っている。
そう思って、沙織は石像の亀の顔だけ見て通り過ぎた。

祠の前で、美結と並んだ。
二礼、二拍手、一礼。
手を打つと、乾いた音が木立に跳ね返った。

一拍遅れて、もう一回鳴った。
背後から。

沙織は振り返った。
参道には誰もいない。
参道の脇で、氏子がテントの脚を直している。
屋台の方で誰かが手を叩いたんだろう。
美結が「やまびこだ」と笑ったので、沙織もそれに乗った。
木立の中なら、音の出所なんて分からない。
川の音も重なっている。
それで済ませた。
ただ、首の後ろの汗だけが、冷えて乾かなかった。

川べりに、急ごしらえの棚が組んであった。
角材に板を渡しただけの棚で、白い布が掛けてある。
その上に米の山と、柿と栗。
柿は枝ごとだ。
水に一番近いところに、徳利が一本置いてある。

棚の手前に、法被の女の人が立っていた。
氏子の中で、女の人はその人だけだ。
年は沙織と同じくらいに見える。
法被の裾が膝まで濡れていた。
棚を組むのに川へ入ったんだろう、と沙織は思った。
十月の川は冷たいだろうに。
足元の砂利に、裾から落ちた水が小さく溜まっている。
女の人は、それを気にする素振りもなかった。

美結が棚の柿に手を伸ばしかけた。
沙織はその手首をつかんだ。
「お供えだから、触らないよ」
美結は口を尖らせたが、手を引いた。
女の人がその様子を見て、初めて少し笑った。

女の人がしゃがんで、美結に何かを差し出した。
手のひらに乗る大きさの箱だった。
白い紙の箱で、赤い水引が掛かっている。

「お家に帰ってから開けてね」
「三つ数えてからよ」

美結は両手で受け取って、巾着にしまった。
沙織が礼を言うと、女の人は目を細めただけだった。
声は、美結にしか向いていない。

それから竹筒の水を、紙コップに注いで美結に渡した。
龍神様の水、と言っていた。
美結は一息に飲んだ。
沙織にも差し出されたが、断った。
沸かしていない水を飲む気になれない。
紙コップの底に、砂が少し残っていた。
美結は気にしていない。
口の端を手の甲で拭いて、もう棚の柿を数えている。

焼きまんじゅうを一本買って、河川敷の石に腰かけた。
美結が食べる横で、沙織は川を見ていた。
水面は濁っている。
川の先に竜宮浄水場の建物が白く見える。
日差しは暖かいのに、川から来る風だけが冷たい。
泥の匂いと味噌だれの匂いが、交互に鼻に来た。

「ママ、箱の中、何だと思う」
「お菓子じゃないの」
「振ってみていい」
「だめ。帰ってからって言われたでしょ」
美結は巾着を膝に乗せて、上から撫でた。
さっきの女の人は、まだ棚の前にいる。
川を背にして、こっちを向いて立っているだけだ。
他の氏子は誰も、その人に話しかけない。
沙織は目を逸らして、美結の口元の味噌だれを拭いた。

陸くんの母親が、綿あめの袋を持って近づいてきた。
「もう帰るね。陸が眠くなっちゃって」
「早いね」
「ここ、長くいると疲れるんだよ」
笑いながら言ったが、目は笑っていない。
陸くんは母親の肩に顔を埋めて、もう目を閉じていた。
「毎年そうなの」
「毎年って、三年に一度じゃなかった」
「え」
陸くんの母親は、一瞬だけ沙織の顔を見た。
それから、まあいいや、と言って笑った。
二人が階段を上がっていくのを、美結は手を振って見送った。
階段の上で、陸くんの母親はこっちを振り返らなかった。

川べりで、神主の声が始まった。
祝詞だ。
白い装束の神主が棚の前に立ち、氏子が一列に並んで、川に向かっている。
棚の前にいた女の人も、列の端に移っていた。
太鼓も笛もない。
神主の声と、川の音だけだ。
声は低くて、何を言っているのか沙織には聞き取れない。
美結はまんじゅうを口に入れたまま、動きを止めて聞いていた。
沙織は数えた。
十人。
祝詞が切れたところで、氏子が揃って手を打った。
二回。

揃っていた。
それなのに、その後ろで、一回だけ遅れて鳴った。

美結が顔を上げた。
「いま、誰か叩いた」
「氏子さんたちだよ」
「ううん、その後」

沙織にも聞こえていた。
ただ、列の一番後ろにいた誰かが、手を打つのが遅れただけだろう。
十人もいれば、一人くらいずれる。
そう考えて、口にも出した。
美結は納得しなかったが、まんじゅうの残りに戻った。
沙織の方は、太ももの上で指を組んで、自分の手を見ていた。
さっき祠の前で打った時の感触が、まだ手のひらに残っている。
誰の手でもない音が、それに重なって聞こえた気がした。

列を、沙織はもう一度数えた。
九人。
途中で誰か屋台に戻ったんだろう。
屋台を見た。
焼きまんじゅうの前にも、綿あめの前にも、法被はいない。

祝詞が終わる頃、川の音が急に大きくなった。
風が出たわけじゃない。
木の葉は動いていない。
棚の前の水面だけが、細かく波打っていた。
神主が一歩下がった。
氏子の誰も、水面を見ていない。
徳利が、板の上で小さく揺れている。

美結が、沙織の袖を引いた。
「帰ろう」
「まだ綿あめ買ってないよ」
「いい。箱が重い」

巾着を持ってみた。
確かに重い。
紙の箱ひとつの重さじゃなかった。
沙織は巾着の口を開けて、箱を取り出した。

冷たい。
底が湿っている。
水引の赤が、底の方だけ濃くなっていた。
持ち上げた拍子に、中で何かがひとつ、こつりと動いた。

あの女の人に聞こうと、棚の方を見た。
いない。
テントにも、屋台にも、氏子の列にもいない。
裾が濡れていたから、すぐ分かるはずなのに。

テントの脇で、年配の氏子が缶コーヒーを飲んでいた。
沙織は箱を見せて、聞いた。
「これ、お子さんに配ってるものですよね」
氏子は箱を見て、首を横に振った。
「うちは今年、配り物はしてないよ」
「女の人が、さっき」
「女の人」
氏子は、沙織の後ろを見た。
沙織も振り返った。
棚と、川と、濁った水面があるだけだ。
氏子はそれから、何も言わずに缶コーヒーに口をつけた。
空になった缶を握る手に、力が入っているのが見えた。
「開けるなって、言われたかい」
「はい。家に帰ってから、三つ数えてって」
氏子は頷いた。
それ以上は、聞いても答えなかった。

他の子どもたちを見た。
誰も、白い箱を持っていない。
綿あめの袋だけだ。
陸くんはもう帰っている。
聞ける相手がいなかった。

帰ることにした。
美結が、参道の入口で動かなくなった。
「足が痛い」
「さっきまで跳ねてたでしょ」
「痛いの。おんぶ」

六歳の体は重い。
しかも巾着を離さない。
沙織は箱を自分の鞄に移し、美結を背負った。
巾着だけは美結の手首に残した。

参道を戻る途中、石像の横を通った。
亀の背が、濡れて見える。
誰かが水をかけたんだろう。
そう思って通り過ぎたが、石碑の足元の砂利にも、水が溜まっていた。
さっきの女の人の足元と同じ形で。

鳥居をくぐって出る時、また一礼した。
胸の圧が、くぐった途端に抜けた。
代わりに、鞄の重さだけが残っている。
背中の美結は、もう歌っていない。
耳元で、浅い息だけが続いていた。

階段は三十段ほどある。
一段上がるたびに、鞄が肩に食い込んだ。
箱ひとつで出る重さじゃない。

階段の真ん中あたりで、鳴った。

一回。
乾いた、手を打つ音。
鞄の中からだった。

沙織は足を止めた。
背中で美結が、何も言わない。
川の音が、階段の下からせり上がってくる。
上を見た。
サイクリングロードまで、あと十五段ほど。
自転車が一台、頭の上を横切っていった。
下を見た。
木立の中の赤は、ここからだと葉に隠れて見えない。
膝が、自分の意思と関係なく小さく震えていた。

土鈴だ、と思った。
中に土鈴が入っていて、歩く振動で鳴った。
そう考えれば、重さも、こつりと動いたのも説明がつく。
肩の鞄を揺すってみた。
鳴らない。
もう一度揺すった。
やはり鳴らない。
肩の鞄に手を入れて、箱を取り出した。

耳に当てた。
中で、水の音がしている。
とても小さい。
何かが浸かっている音だ。
乾いた音が出てくる中身じゃない。
水引をほどいて確かめたい。
指が掛かった。
三つ数えてから、という声が、耳の奥で勝手に再生された。
指を離す。

階段の下から、祝詞がまた始まった。
二度目があるとは聞いていない。
氏子の拍手が揃って鳴る。
そのすぐ後に、遅れて一回。
今度はそれが、鞄の中からじゃなく、手の中から聞こえた。

「ママ」
美結が、背中で小さく言った。
「数えてるよ」
「何を」
「箱の中。いち、に、って。さっきからずっと」

沙織は階段を上がりきった。
サイクリングロードの縁に立つと、木立の中に鳥居の赤が小さく見える。
棚の白い布も見えた。
その前に、誰かが立っている。
法被の裾の色まで分かる距離ではない。

美結を下ろした。
箱を胸の前で持った。
何をするつもりかは、自分でも分かっていない。

川に向かって、手を打った。
一回。
二回。
三回目は打たなかった。
手のひらを離したまま、待った。

箱の中で、一回だけ、鳴った。

美結の手が伸びてきた。
「三つ数えたから、開けていいんだよね」

沙織は蓋を押さえた。
手のひらの下で、蓋が、内側から一度だけ持ち上がった。

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