大洗の神磯は、朝日の場所だ。
日の出を撮りに来る人は多い。
元日には神職が海岸まで降りて、初日の出を拝む。
冬至の頃には、鳥居と朝日を一枚の写真に収められる。
夕方に来る人は、ほとんどいない。
そう教えてくれたのは、三脚を担いだ男の人だった。
十一月の終わり、午後三時すぎ。
私は鹿島臨海鉄道の大洗駅からバスに乗り、大洗神社前で降りた。
まず磯浜町の民宿に荷物を置いた。
一時間ほどして、民宿を出て歩いた。
大洗磯前神社の境内には上がらず、神磯の見える歩道へ向かう。
民宿から神社の方へ坂を上がると、道の途中に、海へ向いた大きな鳥居がある。
その下をくぐって、海側へ下りる道に折れた。
参拝の人はまばらで、土産物屋はもう戸を半分閉めている。
坂を下りきって道路を渡ると、風の音が変わった。
車の音が消えて、波だけになる。
四時を少し回っていた。
磯の岩の上に、石の鳥居が立っている。
鳥居の足元までは、黒い岩と波だけ。
岩と歩道の間には柵があって、柵の手前に札が立つ。
神様が降りてきた磯と伝わる場所で、足を踏み入れてはいけない、とある。
社伝では千年以上前のことだという。
入る気はない。
入れもしない。
柵のこちら側に立って、私は手帳を開いた。
心霊スポットと呼ばれる場所は、ずいぶん歩いてきた。
禁足地を書くのは、それとは別の話だ。
中に入れない場所は、外から見るしかない。
外から見える分だけを、書く。
今回はそう決めて来た。
ここに来たのは、一通の便りがきっかけだ。
サイトの読者からで、短い文だった。
夕方の神磯に、人が立つ。
朝には誰もいない。
それだけ。
便りの主は名乗っていない。
返事を出しても、戻ってこなかった。
確かめるには、自分が夕方に立つしかない。
朝の神磯は、誰もが撮っている。
夕方の神磯は、ほとんど誰も撮っていない。
それだけで、来る理由になった。
風が冷たい。
磯の匂いが、鼻の奥に貼りつく。
日はもう、背中側の町の方へ傾いている。
鳥居の向こうの海は、灰色から紺色に変わりかけていた。
岩の表面は、引き潮で黒く光っている。
三脚の男の人は、私より先に来ていた。
柵から三歩ほど離れた位置に、脚を据えている。
常連らしい。
私が手帳を持っているのを見て、向こうから声をかけてきた。
「朝じゃないの。珍しいね」
夕方の神磯の話を集めている、と答えた。
男の人は、しばらくファインダーを覗いたまま黙っていた。
それから、顔を上げずに話し始めた。
「三年前の冬だったかな」
夕方、この場所で、潮の引いた岩を撮っていたのだという。
朝は人が多い。
引き潮の岩は、朝には出ていないことが多い。
だから夕方に来る。
日没の少し前。
ファインダーの中、鳥居の右の柱のわきに、人が立っていた。
黒っぽい上着で、こちらを向いている。
「柵の中だよ。入れるわけがない」
顔を上げると、岩の上には誰もいない。
覗き直すと、いる。
それを三度くり返した。
四度目、男の人は柵から一歩さがった。
ファインダーの中の人影は、柱から離れて、岩の縁まで出てきていた。
こちら側へ、ちょうど一歩分。
「おかしいだろ。俺が引いたら、向こうが寄ってくる」
男の人は、そこで撮るのをやめた。
ヘッドランプを点けて、三脚をたたみ、歩道を上がった。
背中で、水を跳ねる音がした。
バシャ、バシャ、と岩の上を歩く足音に聞こえたという。
振り返らずに、車まで歩いた。
「次の朝、戻ったらさ。三脚を置いてた場所まで、波の跡があった。夜に時化たんだ」
助かった、とは言わなかった。
私もそうは書かない。
男の人はそれ以来、夕方に来る時は、ヘッドランプを先に首へかけるようになったそうだ。
今も首にかかっている。
点いてはいない。
「写真は残ってないの」
聞くと、男の人は首を振った。
その日の分は、全部消したという。
理由は言わなかった。
代わりに、潮の話をした。
今日は四時半ごろが一番引く。
岩が一番広く出る時刻だ。
あの時も、同じくらいの潮だったらしい。
二つ目の話は、その一時間前に聞いた。
磯浜町の民宿に荷物を置いた時、女将さんに行き先を言った。
神磯を夕方に撮る、と。
女将さんは、玄関の上がり口に膝をついたまま、少し眉を寄せた。
「夕方はねえ。暗くなる前に戻りなよ」
理由を聞くと、庭の話になった。
民宿の裏庭は海に向いていて、晴れた日の夕方には落ち葉を焼いていた。
十年ほど前の、やはり十一月のこと。
白い煙が、海の方へ低く流れていった。
「煙の中にね、顔があったの」
風は弱く、煙は上がらずに庭の高さを這っていた。
女将さんは熊手を持ったまま、その煙を見ていたという。
目を離さなかったのは、火の粉が隣の家へ行かないか見ていたからだ。
最初は、横で火の番をしていた旦那さんの顔だった。
旦那さんはすぐ横にいる。
煙の顔は、旦那さんがあくびをすると、同じ形にあくびをした。
次は女将さん自身の顔。
鏡で見るのとは左右が逆だった。
右の頬の黒子が左にあって、それで自分だと分かった。
三つ目は、知らない男の顔だった。
細長くて、額の右に瘤のような影が一つ。
煙の顔は女将さんの方を向いて、それからほどけた。
ほどけた煙は、神磯の方へ、鳥居の左手の岩の方角へ流れていったという。
「旦那は、煙しか見てないって言うの」
女将さんは、落ち葉を夕方に焼くのをやめた。
今は朝に焼く。
それだけの話だよ、と言って、女将さんは立ち上がった。
廊下の奥で、旦那さんらしい咳が一つ聞こえた。
二つの話は、別々の人から、別々の場所で聞いた。
二人に、互いの話はしていない。
男の人は、人影は鳥居の右の柱のわきだったと言う。
女将さんの煙は、左の岩へ流れた。
重なるのは、夕方だという一点だけ。
三つ目は、私だ。
四時二十分、潮が一番引くのを待たずに、男の人は三脚をたたんだ。
「暗くなる前に帰る。あんたも早くね」
ヘッドランプの光が、歩道の上の方へ消えていった。
残ったのは私一人。
空の端が、橙から赤へ変わる。
赤は、海ではなく町の側にある。
鳥居は逆光にならず、石の灰色のまま暗くなっていく。
日の出の写真で見る神磯とは、光の向きが逆だ。
同じ鳥居なのに、知らない場所に見えた。
潮は引いていて、鳥居の足元の岩が、着いた時より広く出ている。
波の音が、さっきより近い。
岩のくぼみに溜まった水が、空の色を映して白い。
沖の方に、漁船の灯りが二つ。
町の方からは、夕飯の匂いも、人の声も届かない。
ここは町のすぐ下なのに、音は海のものしかない。
左手の離れた岩に、海鵜が三羽、羽を広げて止まっていた。
黒い体が、岩と同じ色になりかけている。
四時半を回る前に、三羽とも沖へ飛んだ。
鳥居のある岩には、一羽も残らない。
確かめて、手帳に書いた。
鵜なし。
あとで自分を疑わないように。
来てから撮った分は、手帳に枚数を控えている。
手帳に、十六時三十分、と書いた。
その時、岩の方で水の音がした。
バシャ、と一つ。
波が岩の窪みに入った音だと思った。
波は、少し遅れてもう一度鳴った。
最初の音の方が、乾いていた。
気のせいにした。
磯の音は、いくらでも種類がある。
便りの主も、こういう音から始まったのだろうか。
人が立つ、とだけ書いた人の目に、何がどう入ったのか。
聞ける相手がいない。
鳥居の根元で、小さな波が割れた。
それとは違う音だった。
カメラを構え直した。
背面の画面に、鳥居が入る。
石の柱が二本。
右の柱の根元に、柱より黒い影が一つ、張りついている。
画面から目を上げた。
岩の上には、鳥居だけ。
柱の影が岩に落ちたのだろう、と思った。
日はもう、町の向こうに沈んでいる。
影が落ちるとしても海側で、手前には落ちない。
ここで考えるのをやめた。
画面を見ずに、二枚撮った。
指先が冷えて、シャッターの感触が鈍い。
手袋をかばんに入れたまま、取り出せずにいる。
かばんを開けるには、カメラから手を離すことになる。
かばんは諦めて、一度だけ画面を見た。
影はまだ、根元にいる。
三度目に画面を見た時、影は根元にいなかった。
柱から離れて、岩の縁に立っていた。
人の背丈。
肩があり、頭がある。
頭の右上に、細いものが一本、突き出ていた。
角、と手帳に書いた。
書いてから、自分の字を見た。
手が揺れて、角の字が崩れている。
海鵜だと思おうとした。
鵜は岩で羽を干す。
首を伸ばせば、頭の上に出た棒にも見える。
鵜なら、肩はない。
流木が立っているなら、動かない。
釣り人なら、竿が見える。
画面の中の影は、動いていない。
ただ、さっきより大きい。
一歩さがった。
男の人の声が、頭の中で鳴る。
引いたら、寄ってくる。
さがった足を、元の位置に戻した。
後ろは道路と、参道の石段だ。
上がれば境内の灯りがある。
岩に背中を向けて上がることになる。
それが嫌で、私は柵の前から動けずにいた。
バスの時刻は、まだ見ていない。
民宿までは歩ける。
歩ける距離なのに、足が決めてくれない。
水の音が、また一つ。
今度は、二つ続けて。
バシャ、バシャ。
音は岩の縁からではなく、鳥居の根元の辺りから来た。
影は縁にいる。
音は根元から来る。
影は一つで、音は二つ。
場所も数も合わない。
磯の匂いが、急に薄くなった。
代わりに、焦げた葉の匂いが風に混じった。
民宿の裏庭は、ここから五百メートルは離れている。
煙は見えない。
風は海から吹いている。
陸の匂いが、海から来るはずがない。
見るな、と頭の中で言った。
見ないと、どこにいるか分からない。
画面を見た。
影は、岩の縁で、右手を上げていた。
手は、頭の横の細いものに触れた。
私はカメラを下ろした。
カメラを首から下げたまま、歩道を離れて道路を渡った。
渡る間だけ、岩に背を向けた。
参道の石段は、後ろ向きに上がった。
一段ごとに、岩の方を見る。
鳥居だけが見える。
影は、肉眼では一度も見えなかった。
石段の途中で、水の音を聞いた。
バシャ。
一つだけ。
さっきより、近い。
岩から石段までは、柵と歩道と、道路一本がある。
水は、ない。
境内の灯りの下まで上がって、振り返るのをやめた。
手すりが冷たくて、手のひらの汗が張りついた。
息が白い。
さっきまで、白くなかった。
拝殿の前を通る時、お参りはしなかった。
手を合わせる余裕がなかった、というのが正しい。
社務所の灯りはもう落ちていて、駐車場に車は一台もない。
男の人の姿も、もうなかった。
駐車場から坂を下りて、海に向いた大きな鳥居の下を、来た時と逆向きにくぐる。
くぐる時に、首の後ろが引かれた気がして、歩く速さが上がった。
引かれたのは、カメラの紐だった。
そう思うことにした。
民宿に戻ったのは五時前。
女将さんは何も聞かなかった。
裏庭の方から、焦げた葉の匂いがした。
朝に焼いた分の、燃え残りだという。
夕方には火を入れていない、と女将さんは言った。
聞いてもいないのに、そう言った。
その夜、部屋で写真を確かめた。
部屋は二階で、窓は海に向いている。
雨戸を閉めても、波の音は畳まで届いた。
蛍光灯の下に手帳を広げ、隣にカメラを置く。
カメラの枚数表示は三十八枚。
手帳に書いたシャッターの数を足すと、三十七枚になる。
三十六枚には、鳥居と岩と海しかない。
海鵜の三羽も、離れた岩の上に小さく写っている。
飛んだあとの一枚では、岩だけになっている。
順番どおりだ。
一枚だけ、違う。
鳥居の右の柱の根元に、柱より黒いものが写っている。
拡大すると、肩と頭の輪郭がある。
頭の右上から、細い棒が一本、上に伸びている。
岩の縁ではない。
根元だ。
写真の記録時刻は、十六時三十八分。
手帳には、十六時三十八分、画面見ず二枚、とある。
その時、私はカメラを構えていた。
画面を見ていなかっただけだ。
もう一枚、記録がある。
三十八枚目。
真っ黒で、何も写っていない。
記録時刻は十六時四十二分。
手帳のその時刻には、カメラ下ろす、とだけ書いた。
下ろしたカメラは、首から下がっていた。
レンズは、足元を向いていたはずだ。
足元は歩道で、灰色のコンクリートだ。
真っ黒の写真の下の端に、濡れた岩の黒が、ほんの少しだけ入っている。
男の人に見せようかと思った。
連絡先を聞いていない。
便りの主に送ろうかとも思った。
宛先がない。
女将さんには、見せていない。
翌朝、裏庭の灰を見ただけで、民宿を出た。
灰は、冷えていた。
二枚とも、消していない。
手帳も、角の字が崩れたままにしてある。
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