店主の写真を撮ったことがないと気づいたのは、閉店の挨拶状を作っている時だった。広瀬は店の外観を使えばいいと提案したが、吉岡は首を振った。看板なら皆知っている。自分の顔を覚えて帰ってほしいのだと言った。
十七年前、この写真館で広瀬は二年間だけ働いた。いまは印刷会社で商品を撮っている。閉店するから、と電話が来て、機材の引取り先を探す約束をした。自分が辞めたあとに入った人は一人も続かなかったらしく、吉岡は妻を亡くしてからずっと一人で店を開けていた。そう聞くと、挨拶状ぐらい無償で作らせてほしいと思った。ところが吉岡は代金の入った封筒を出してきて、いつものように仕事を始めてしまった。
「せっかくだから、後ろは白くするか」
「顔だけでいいんですよね」
「胸から上。足まで撮ったってしょうがない」
広瀬が笑うと、吉岡も笑った。昔はこんなふうに話せなかった。撮影の途中で口を挟むだけで叱られた。今でも照明の位置を変える時には、まず吉岡の顔を見てしまう。
天井近くに掛かった白い背景紙を下ろした。幅が二メートル以上ある巻紙で、裾を床へ延ばすと壁との境目が消える。先端には靴跡がついていた。広瀬は傷んだ分を鋏で切り、新しい部分を引き出した。切った紙は細く巻き、入口近くへ立てかけた。こんなに余ってしまったな、と吉岡が上を見た。閉店は明日だった。
吉岡は紺の上着に着替え、赤茶のネクタイを締めて戻った。妻に買ってもらったものだと言いかけ、広瀬は前にも聞いたと気づいた。成人式の撮影が終わった夜に、二人で蕎麦を食べた。吉岡はその時も同じ話をしていた。「それ、いい色ですよね」と言うと、吉岡は結び目を指で挟み、少し緩めた。
背景紙の端に黄色い染みがあった。床へ曲がり始める所に、掌ほどの大きさで広がっている。照明を消しても変わらなかった。広瀬が屈むと、中央に灰色の線が浮かび、すぐに滲んだ。何かを描いているようには見えなかった。水で絵の具を溶いた時の色に似ていた。触ると、乾いた紙だった。
「染みてますね」
「新しいとこまで?」
「もう少し出します」
広瀬は巻紙を引いた。染みは床へ下りてきた。きれいな部分を長く延ばし、黄色い所を切り捨てた。大きな紙を畳む場所がなく、入口の脇へ重ねた。二度も切らせてしまって、と吉岡が言った。自分の店なのに、他人へ借りた物を汚したような言い方だった。
切った場所へ戻ると、広瀬は鋏を探した。すぐ足元にあった。いつも使っていた、黄色い握りの鋏だったはずだ。広瀬が拾ったものは白かった。刃の金属だけが鈍く光っていた。握りには汚れもあったが、汚れまで白く、指でなぞると盛り上がりだけが分かった。
「鋏、替えましたか」
吉岡は、ずっとそれだよ、と答えた。広瀬は入口へ目をやった。切り捨てた紙の黄色は、鋏の握りと同じ色に見えた。灰色の線はもうなく、黄色だけが薄く大きく広がっていた。長年使った道具を自分が覚え違えていたのかもしれない。そう思うには、ついさっき握った手の感触が残りすぎていた。
吉岡が撮影位置へ立った。広瀬はカメラを構えかけ、下ろした。ネクタイの先が白くなっていた。折り返して裏地が出たのかと思い、声をかけた。吉岡が先をつまんだ。表も裏も白かった。上へたどると胸のあたりにはまだ赤茶色があり、その境目に細かな繊維が浮いて見えた。
「何か飛びました?」
「何も」
吉岡はそう言って、広瀬の後ろを見た。紙にまた色が出ていた。今度は赤茶色の細い筋だった。それが空気の中で溶けるように横へ広がるにつれ、ネクタイの白い所も長くなった。吉岡が結び目をほどいた。手間取り、広瀬が手を貸した。首から抜いた時には、糸の光り方だけを残した、真っ白な布になっていた。
「脱いだ方がいいです。上着も」
広瀬は言った。吉岡はすぐに従った。肩から外した上着の裏を調べ、少し安心したように息を吐いた。紺色は残っていた。二人で受付まで行き、台へ置いた。ネクタイも並べると、吉岡は何度も細い方を裏返した。白いままだった。漂白剤の匂いもしなかった。
広瀬は水道で手を洗った。紙へ触れた指にも、ネクタイを外した指にも痛みはなかった。爪の横にいつつけたのか、青い染みが一つあった。普段なら石鹸で落とそうとしたはずだ。その日は、色がついているのを見て少しほっとした。蛇口を閉め、タオルで拭いた。
撮影室を覗くと、紙の中央に青が浮かんでいた。指を見た。爪の横は白くなっていた。洗い落としたのだと考えかけたが、今度は爪そのものの桃色が薄くなっていった。指を強く押さえた時のような白だった。手を下へ振っても、爪は白いままだった。
「もう、ここでは撮れません」
広瀬は吉岡に手を見せた。吉岡は眼鏡を掛け直し、指へ顔を近づけた。何か言おうとして口を閉じた。老眼鏡の下から覗いていた目の脇が、四角く白くなっていた。紙を貼ったのかと思った。その縁が頬の皺に沿って広がった。
広瀬は吉岡の腕を取り、顔を反対へ向けた。白い所はこめかみから耳の前まであった。手の甲で触れても皮膚は温かく、薄い産毛があった。吉岡は嫌がって顔を引いた。
「何だ。ついてるのか」
「色が、なくなってます」
広瀬は携帯を取り出そうとした。だが自分の携帯は鞄に入っていた。吉岡は受付に置いた上着を探り、胸の内ポケットから携帯を出した。
画面を自分へ向けた吉岡の手が止まった。「これ、照明のせいじゃないのか」。広瀬は店のガラス戸を開けた。夕方の光が受付の奥まで入った。その中へ吉岡を連れてきた。頬はやはり白かった。吉岡が画面を伏せた。顔の向きが変わっても白い部分は変わらず、耳の上へ少し伸びていた。
外へ出ましょうと言うと、吉岡はネクタイをつかんだ。広瀬はそれを置くように頼んだ。吉岡は少し考え、ネクタイの細い方を台へ戻した。太い方は握ったままだった。広瀬は手を重ねた。吉岡が驚いたように顔を上げたので、布を引っ張らず、掌を開いてほしいと言った。吉岡は開いた。
店の前へ出ると、向かいの花屋の女性が駆け寄ってきた。吉岡の顔を見て、火傷したのと訊いた。痛くないんです、と広瀬が答えると、本人に訊いてるの、と返された。吉岡は痛みはないと答え、頬に触れた。指の当たった部分だけ色が変わることもなかった。女性は二人を店の軒下へ入れて、すぐ医者へ行った方がいいと言った。
花屋に電話を借りている間、広瀬は吉岡の顔を見ていた。白くなった皮膚にも細い皺がある。それなのに、そこだけ他人の顔に見えた。眼鏡を外してもらった。耳に掛ける部分が白くなっていた。黒い眼鏡の先端が、古く摩耗したように白かった。プラスチックにも皮膚にも、同じことが起きていた。
「奥さんのこと、さっき話しましたよね」
広瀬が言うと、吉岡は何の話だという顔をした。顔だけ変わったのか、もっと何かが変わったのか、確かめずにいられなかった。
「ネクタイ。買ってもらったって」
「そうだよ。何で」
「前にも、聞いたんです。蕎麦屋で」
吉岡は目を伏せた。それから、あそこの蕎麦屋はもうない、と言った。広瀬は頷いた。何を確かめたいのかは言えなかった。
救急の相談を終えた花屋の女性が、車を出してくれることになった。吉岡は足を悪くしているわけではないのに、自分で歩こうとするたびに壁へ手をついた。広瀬も爪を確かめずにはいられなかった。痛みも痺れもない。指で鍵を回せるし、携帯の小さい文字も打てた。白い爪だけが、どうしても自分のものに見えなかった。
車が来るまでに店を閉めなければならなかった。広瀬は入口から腕を伸ばし、店内の照明を消した。吉岡は、奥はいい、と後ろから言った。奥も消した方がいいと思ったが、その声を聞くと手を引いた。ガラス戸を閉める時、店の中に白い顔があるのに気づいた。
道具台の上に、吉岡が脱いだ上着があったのだと思った。だが上着は受付にあり、紺色のままだった。奥で白く浮いていたのは、壁に掛かった見本写真だった。広瀬はガラス越しに目を凝らした。成人式の女の人の写真があった場所だった。顔も着物も真っ白で、背景だけに青い色が残っていた。
隣の子供の写真も、その隣の家族写真も同じだった。額縁や台紙の色は残っていた。撮られた人のところだけ白く抜けていた。奥の背景紙には、緑や赤や黒が溜まっていた。どの色も人の形にはならず、垂らした染料のように隣の色へ滲んでいた。
吉岡を呼びかけ、広瀬はやめた。店の写真は、仕事を見てもらうために何十年も掛けてきたものだった。もうすぐ外すのだとしても、今見せることはないと思った。ガラス戸に鍵を掛け、シャッターを下ろした。最後まで下げる直前に、紙の上で鮮やかな赤が広がった。あのネクタイよりずっと明るい赤だった。
病院では二人とも皮膚を診てもらった。広瀬は指に紙が触れたことを説明した。吉岡は使った薬品はないと繰り返した。医師は急に白くなったという範囲を写真に残し、その日は顔を擦ったり薬を塗ったりせず、翌朝また来るように言った。何が起きたかは分からなかった。写真館の見本まで白くなったことを、広瀬は診察室で話せなかった。
帰りの車で、吉岡は挨拶状のことを訊いた。顔写真はやめるから、文だけで作ってほしいと言った。広瀬は引き受けた。自分の指がいつ元へ戻るのかも分からないのに、明日には見本を持ってくると約束した。吉岡がこれ以上あの店へ行かなくて済むなら、何でも早く済ませたかった。
翌朝、広瀬は封筒を返しに吉岡の家へ寄った。店から持ち出せなかった代金と同じ額を、自分で入れてきた。吉岡は返せと頼んだわけではないと言ったが、広瀬が紙だけの挨拶状に代金はもらえませんと言うと、受け取った。頬の白は昨日のままだった。広瀬の爪も戻っていなかった。
吉岡は玄関で靴を履きかけた。病院へ付き添うつもりで広瀬が車の鍵を出すと、先に店へ行きたいと言った。広瀬は断った。何が必要なのか訊くと、吉岡はしばらく黙り、ネクタイ、と答えた。あれは置いてきたままだった。
白くなってもいいんだ、と吉岡が言った。広瀬は玄関の床を見た。真っ白なネクタイを取ってきて渡せるなら、そうしたかった。だが、そのために誰かを店へ入れることもできなかった。吉岡の手が靴べらから離れた。昨日は無事だった唇の右端が、今は白かった。
広瀬は吉岡に顔を触らないように言い、自分の携帯を出した。病院へ電話をかけるつもりだった。その画面に、知らない白い斑点が見えた。画面ではなかった。携帯を持つ親指の腹だった。爪から裏へ、色のない部分が回ってきていた。
吉岡の口が動いた。何と言ったのかは聞き取れた。今日は少し寒いな、と言った。開いた唇の奥で、舌の先までが白かった。広瀬は店の紙に広がった赤を思い出し、その口から目を離せなくなった。
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