父の鉢を直したのは、私だった。底にできた小さな裂け目を指で埋めただけだが、父は気に入らなかったらしい。帰りの車で、頼んでないのに、と言った。私は赤信号の前でブレーキを踏み、じゃあ今度から触らない、と答えた。父は膝の上で帽子を裏返した。
退職した父を陶芸教室へ誘ったのは、春のことだった。私も始めて三月しかたっていない。月に二度、古い製麺所を改装した工房へ行き、土をこねて帰る。作品が増えるほど上達するわけでもなく、私の作った物は家の棚の奥で重なっていた。それでも、父とテレビ以外の話ができればと思った。
父は植木鉢ばかり作った。最初の一つは底の穴を開け忘れ、二つ目は縁が傾いていた。私はそのたびに、味があるよ、と言った。三つ目の時に父から、ほかのこと言えないのか、と笑われた。笑ってくれたので、私はまた同じことを言ってしまった。
鉢のひびを埋めたのは、六月の終わりだった。父が手を洗いに行ったあと、私だけが作業台に残っていた。次に教室へ来た時にはもう素焼きが済んでいて、父は白い釉薬を掛けた。先生の岸さんが、底にはつけないでね、と注意した。父は鉢を持ち上げ、私に底を見せた。どうだ、と言うほどの顔でもなかったのに、私は、ちゃんとできてる、と答えた。
出来上がった鉢を受け取る日は、ほかの生徒の都合で夜になった。父は夕方から私の家で待っていた。車へ乗る前に、鉢の運搬用に持ってきた新聞紙をもう一度畳んだ。少し大きめに作ったのは、母の残した金のなる木を植え替えるためだった。そんなことは受け取りに行くその日に初めて聞いた。
「先に言ってよ。もっと深い方がよかったんじゃない」
「これでいいんだよ」
父は畳み直した新聞を袋へ入れた。私は玄関の鍵を探すふりをして、返事をしなかった。
工房には私たちより先に、一人の男性が来ていた。いつも大きな壺を作る人で、名前は知らない。岸さんと二人、窯の前の棚から作品を下ろしていた。石油ストーブは片づけられ、床の真ん中が広くなっていた。昼間の熱が残る工房で、扇風機だけが首を振っていた。
父の鉢は、白というより薄い灰色に焼き上がっていた。縁を爪で叩くと、澄んだ音がした。岸さんが、これはよく焼けた、と言った。私は父に同じことを言うのをやめ、新聞を作業台へ広げた。父は鉢を両手で持ち、光へかざしてから裏返した。
底には、黒い筋があった。穴から外へ延び、途中で二つに分かれていた。私が埋めた裂け目より長かった。父は親指で筋をなぞった。
「割れてるな」
「見せて」
私はつい、鉢へ手を出した。父は渡さなかった。岸さんが間に入り、黒い筋を覗いた。水は抜けるし鉢としては使えるよ、と言いかけて、言葉を止めた。
父の指が通った所から、黒い筋が盛り上がっていた。糸屑が貼りついているのかと思った。岸さんは老眼鏡を掛け直した。父が指を離すと、筋は鉢の白い底から浮いたままになった。細く、枝分かれした形を崩さず、糸よりも平たく見えた。
「それ、触らないで」
岸さんの声が少し高くなった。父は鉢を台へ置いた。底は下になったので、筋は見えなくなった。私は鉢の内側を見た。底の穴から、新聞の赤い広告が見えていた。黒い線はどこにもなかった。
壺の男性が何か落とした。そちらを見ると、彼は足元の床を見ていた。抱えていた大きな壺は無事だった。コンクリートの床に、細い線が走っていた。私たちの台から男性の靴まで、曲がりながら続いている。こんな所にひびがあったかしら、と岸さんが言った。
男性は靴を横へ動かした。床の線は、その靴を追って伸びたのではなかった。靴があった場所へ着くと、そこで一度、上へ立った。床から剥がれた黒い髪のように見えた。けれど扇風機の風にも揺れなかった。男性が壺を持ち直した時、肩の辺りで、ぴしり、と音がした。
音は壺からした。釉薬の茶色い表面に一本の亀裂ができた。男性は両手に力を入れ、岸さんを見た。岸さんがすぐ、下ろして、と言った。彼は壺を床に置き、膝を離した。亀裂は口まで届いていたが、水を入れていなかったので漏れるものはなかった。
父が自分の鉢をひっくり返した。黒い筋は消えていた。底はつるりとしていて、私が埋めた跡さえ分からない。父は指の腹を擦りつけ、それから岸さんへ見せた。
「こっちはなくなった」
岸さんは返事をせず、男性の壺の前にしゃがんだ。私は父に鉢を下ろしてもらった。父は今度はすぐに聞いてくれた。
男性は、焼き締まりですか、と訊いた。私はその言葉を知らなかった。岸さんが、もう冷めてるから、と答えたきりだった。壺の亀裂の端が持ち上がった。茶色の表面から黒い筋が少しずつ離れ、離れた所は切れ目のない艶に戻っていった。岸さんは膝を伸ばし、そのまま後ろへ下がった。
筋は壺の高さに立っていた。向こうにある棚の脚が、それを境に少しずれて見えた。私は片目をつぶり、また開いた。目がおかしいのかと思ったからだ。ずれはなくならなかった。黒い筋の右側と左側で、棚の脚の太さまで違っていた。
「外、出よう」
私は父の肘へ触れた。父は新聞をつかんだ。包もうとしているのが分かったので、鉢は置いていこう、と言った。父は新聞だけ持ち、私と入口へ向かった。男性も一緒だった。岸さんが一番後ろになり、電気を消そうと壁へ手を出しかけて、やめた。
私たちは工房の外の舗装へ出た。駐車してある車は二台とも見えた。道路をトラックが通り、私はその音にほっとした。父が新聞を脇へ挟み、ポケットを探り始めた。何を探しているのか訊くと、車の鍵だと言った。私の車で来たでしょう、と言ってから、父の手が震えているのに気づいた。
岸さんは入口を開けたまま、携帯で夫を呼んだ。割れたんだけど、そうじゃなくて、と何度も言った。男性は道路の端で、自分の靴の裏を見ていた。私は父と並んで立っていた。工房の台の上に、父の鉢が見えた。さっきまで半分しか見えていなかったのに、今は底まで見えていた。
台が傾いているのではなかった。鉢の下から、縦に黒い線が延びていた。台の脚と床を通り、入口の敷居へ向かっている。線の右に見える新聞の広告と、左に見える広告の位置が合わなかった。父の脇にある新聞とは別の、台へ敷いた一枚だった。
岸さんが戸を閉めた。引き戸の下に黒い線が残った。扉を横断する傷のように見えたが、線は戸に沿っていなかった。舗装の上まで出て、私たちの間へまっすぐ立っていた。近づいてくる速さは歩くより遅かった。私は父を連れて駐車場の奥へ下がった。父は新聞を落とし、拾わなかった。
線に触れた新聞は、破れなかった。右半分と左半分が、別々の高さで地面へ落ちた。重なった紙の隙間に、工房の明かりが見えた。そこだけ舗装がないようだった。私は父の腕をつかんでいたが、握っている自分の手を見続けるのが怖くなった。
父が私の手を外した。私は声を上げた。
「離れないで」
「引っ張るな。足がついてない」
父は片足で立っていた。もう片方の靴が、舗装に届かず宙を踏んでいた。私からは平らな地面に見えた。父が立つ方の縁石を見ると、私の膝より高い所にあった。つないでいた手だけを頼りに父を引けば、その高さから倒してしまう。
私は手を下げ、靴を置ける所があるか訊いた。父は左を見て、首を振った。後ろには車がある。その車の屋根が、父の腰より低く見えた。私は後ろもだめだと言った。父は、分かってる、と強く返した。片足を浮かせたまま息をついていた。
車の陰へ続く舗装の端だけは、父の靴底と同じ高さに見えた。私はそこを指した。父は急いで踏み出さず、爪先をそっと下ろした。体重を移してからもう一歩進むと、私の方が低い所にいる形になった。追いつこうと足を出しかけた時、父が止まれと言った。私の前には、地面の色をした面がまっすぐ立っていた。
「右。車に近づくな。もう少し右だ」
父の声で足を引き、私は壁に沿って横へ進んだ。父は動かずに待っていた。私が柱の前へ出ると、ようやく父の肩がいつもの高さになった。間に線は見えなかったが、互いに手を伸ばすのはやめた。父は私が通った場所を戻り、二人で建物の角へ寄った。
男性が消防へ電話をしていた。地面が割れている、と言っていた。壺の話はしなかった。岸さんは夫に、車で近づかないで、と繰り返した。父は自分の掌を見ていた。私は両足の膝を曲げ、地面がすぐ下にあるのを確かめた。父が、俺が触ったからかな、と言った。
私は首を振った。私がひびを埋めたからかもしれない、と言うと、父は困った顔をした。あの時に責めたのを、まだ気にしていると思ったのかもしれない。父は何か言いかけ、工房へ顔を戻した。私も黙った。土が柔らかかった日の喧嘩を話しても、目の前の地面が元へ戻るわけではなかった。
工房の戸が、音を立てて落ちた。岸さんは道路へ出る私たちを止め、反対側へ手を振った。戸は割れていなかった。一枚のまま横になっていた。その向こうに、作業台の上が見えた。父の白い鉢は、まだ同じ所にあった。床と台の脚がひどくずれているのに、鉢だけは傾かずに載っていた。
救急車より先に消防の車が来た。私たちは敷地の外に出るよう言われた。道路側の舗装には線がなかった。父が縁石をまたぐ時、私は手を差し出したが、父は先に向こうへ降りた。それから私に手を出した。私はその手をつかんだ。ひどく汗ばんでいた。
道を挟んで見ているうちに、工房の明かりが消えた。停電したのではなかった。黒い線が建物の真ん中を通り、右側の明かりが左側の壁に隠れた。少なくとも、私にはそう見えた。屋根は元の高さにあった。岸さんが名前を呼び、来たばかりの夫が返事をした。誰も中には残っていなかった。
その夜、父は私の家に泊まった。廊下を歩くたびに電気をつけ、私も消さずにおいた。父の寝る部屋の扉は開いたままだった。金のなる木は元の鉢に入ったまま、父の家にあった。どう植え替えるかという話は、それきりしなかった。
工房へ戻ったのは、一週間後だった。岸さんに呼ばれ、父と二人で行った。建物は立っていたが、使えないと聞いた。原因を説明できる人はいないらしかった。入口には柵が置かれ、私たちは道路から中を見ただけだった。床の端から端まで、何本も線が走っていた。今度はただのひびに見えた。
父の鉢は割れずに残っていたという。岸さんが段ボール箱から出そうとすると、父は持ち上げなくていいと言った。箱の中の白い底を、私たちは覗き込んだ。穴から二つに分かれた黒い筋が延びていた。最初に見たのと同じ形だった。岸さんは、今朝はなかった、と言った。
父は鉢を引き取らなかった。岸さんも勧めなかった。箱は柵の内側へ置かれた。帰ろうとして振り返った時、底の黒い筋が少し浮いているのが見えた。鉢は欠けてもいないし、破片も落ちていなかった。それでも、そこからずっと遠く、道路の反対側にいる私たちの足元まで、陶器の割れる音だけが続いていた。
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