わしは今年で七十八になる。
川崎の生田に住んで、もう五十年近い。
小田急線の生田駅を降りて、津久井道を東へ歩く。
五反田川を渡って北の坂を上がると、丘の上に生田浄水場があった。
その丘の一角のこんもりした森を、土地の年寄りは「入らずの森」と呼んでいた。
わしがその名を覚えたのは、昭和五十二年の冬だ。
二十九の年だった。
森のすぐ下にある小さな金属加工の工場で、守衛をやっていた。
工場といっても、昼の従業員は二十人ほど。
守衛は一人で、夕方五時から翌日の夕方五時まで守衛室に詰める。
昼は事務所に人がいるから、守衛の仕事は夜だけのようなものだ。
零時、二時、四時と、二時間おきに構内を回る決まりだった。
守衛室は正門の脇のプレハブで、畳三枚ぶんの広さしかない。
机の上に巡回日誌と判子、黒電話が一台。
壁には振り子の柱時計が掛かっていて、正時にこつんと鳴る。
石油ストーブの匂いが、冬のあいだずっと染みついていた。
わしと一日交代で入っていたのが、梶さんという人だ。
六十近い。
土淵の生まれで、工場の裏の丘のことは何でも知っていた。
夕方の五時に、守衛室で引き継ぎをする。
わしが入る日は、梶さんが自分の湯呑みで茶を一杯飲んでから帰る。
その一杯のあいだに、丘の話をひとつずつ教えてくれた。
教えるというより、口癖に近い。
引き継ぎのとき、梶さんはいつも同じことを言う。
「裏で振り返るな。森に懐中電灯を向けるな。それだけ守りゃいい」
わしは笑って聞いていた。
裏というのは、工場棟の北側のことだ。
資材置き場があって、その先が金網のフェンスになっている。
フェンスの向こうはすぐ斜面で、篠竹と雑木が丘の上まで続く。
斜面の右手、木の間に、土淵不動院の屋根がのぞいていた。
梶さんの話では、あの森は昔、第六天を祀っていた場所だそうだ。
誰も入らない。
木を切ってもいけない。
竹も切ってはいけない。
入った者には災いがある。
土地では、そう言い伝えていた。
森の真ん中はすり鉢のように窪んでいて、底に碑があるという。
梶さんも見たことはない。
「見たやつがいないから、碑だ」
そういう言い方をする人だった。
森の近くには、昔、神楽屋敷という畑があったらしい。
そこで第六天の祭りをやったと、梶さんの祖母が言っていたそうだ。
場所はもう分からない。
畑はとうに家になった。
祭りだけが、名前で残っている。
昔、丘に浄水場を造ったときも、ひと騒ぎあったらしい。
工事が進まない。
人夫が森を掘りたがらない。
新聞がえらく書き立てたそうだ。
「祟りだの何だのと、そりゃあもう」
梶さんはそこで湯呑みを置いて、鼻で笑った。
不動院のほうにも、話がある。
堂の中に、開けてはいけない不動さんがいる。
お姿を見たら火が出る。
家が焼ける。
「開かずの不動」と呼んで、土淵の者は誰も戸に手を掛けなかった。
昔、役所の人が一度だけ開けたという話もある。
中に何があったかは、梶さんも言わなかった。
「見るな、入るな。それだけだ」
梶さんは同じ言葉で締めた。
もう一つ、工場には決まりがあった。
守衛の鍵束に、鍵が九本ついている。
八本は正門、工場棟、事務所、倉庫、便所の類だ。
全部、工場長が太い油性の字で札に場所を書いてある。
残りの一本だけ、札に「裏」とあった。
「裏」の鍵は、どの錠にも合わない。
裏の資材置き場の端に、トタン屋根の物置が一つある。
戸には太い木の閂が渡してあって、南京錠が赤く錆びている。
鍵穴に差しても、回らない。
工場長に聞いたことがある。
「開けなくていい」
それだけだった。
「中は何も入ってない。鍵は束から外すな」
理由は言わない。
前の守衛も同じことを聞いたそうだ。
その人は一冬で辞めたと、梶さんから後で聞いた。
わしも深くは聞かなかった。
鍵束は腰のベルトに下げる。
九本ぶんの重さが、歩くたびに腿に当たる。
「裏」の鍵は真鍮で、ほかの八本より少し小さい。
握ると、ひとつだけ先に温まる。
それくらいのことしか、気に留めていなかった。
年の内は、何もなかった。
巡回は、正門から工場棟を抜けて裏へ出る。
資材置き場を回って、閂を手で押さえて確かめる。
フェンスには寄らない。
そのまま守衛室に戻る。
一回りで十五分。
日誌に時刻を書いて、判子を押す。
それだけの夜が続いた。
裏に出ると、機械油の匂いが切れて、湿った土の匂いに変わる。
篠竹が風で擦れて、さらさら鳴る。
夜の森は黒い壁だ。
懐中電灯は足元に向けておく。
梶さんの言いつけというより、向けたところで何も見えないからだ。
変わったのは、年が明けてからだ。
一月の終わりの晩だった。
二時の巡回から戻って、日誌を開いた。
「二時 構内 異常なし」
もう書いてある。
わしの字だ。
判子も押してある。
手が止まった。
零時の分は覚えている。
二時の分を書いた覚えがない。
寝ぼけたか、と思った。
守衛室はストーブで暖かい。
椅子でうとうとして、先に書いてから回ったのだろう。
わしは自分にそう言って、やかんを火にかけた。
二度目は、その一週間ほど後だ。
椅子でうとうとして、四時の巡回に出るのが遅れた。
柱時計を見た。
三時五十五分。
腕時計は、四時十五分を指している。
二十分も違う。
柱時計は古い。
遅れることもある。
わしは腕時計を信じて、巡回に出た。
戻ってきて、もう一度柱時計を見た。
四時三十分。
腕時計と、ぴたりと揃っていた。
遅れていた時計が、十五分の間に二十分を取り戻している。
振り子を見た。
普通に揺れている。
わしは針を触っていない。
これも、見間違いで片付けた。
寝起きの目で、短針と長針を読み違えた。
そう思えば思える。
日誌を開いたのは、そのあとだ。
四時の分を書こうとして、ページの下を見た。
「三時 裏 異常なし」
三時に巡回はない。
わしの字で、そう書いてあった。
「裏」の字の、一番上の点がない。
わしは昔から、あの点を打ち忘れる癖がある。
自分の癖まで同じだ。
自分が書いた、と思うしかない。
覚えていないだけで。
足の裏が冷たくなった。
ストーブの前にいるのに、指先の感覚が薄い。
その週から、巡回に出る前に腕時計の時刻を日誌に書くようにした。
「一時五十八分 出る」
自分の手で、自分を縛るためだ。
三時の書き込みは、それきり出なかった。
三度目は、二月の半ばだ。
二時の巡回を済ませて、椅子に座っていた。
黒電話が鳴った。
柱時計は三時十二分。
腕時計も、三時十二分。
外線だ。
守衛室の外線が深夜に鳴ることは、まずない。
受話器を取った。
「梶だ」
声は梶さんだった。
くぐもって、受話器の向こうで風が鳴っている。
「閂、今夜は触るなよ」
「はい」
「開いてるから」
それで切れた。
わしは受話器を置いたまま、しばらく動けなかった。
梶さんは家で寝ている時間だ。
家は土淵の、不動院の下のほうにある。
受話器の向こうで鳴っていた風は、屋内の音ではない。
篠竹の擦れる音に、よく似ていた。
掛け直そうにも、番号を知らない。
守衛室に、梶さんの家の控えはなかった。
柱時計が、こつんと鳴った。
四時だ。
三時十二分から、四時まで。
受話器を置いてから鳴るまでの間が、わしの中では五分ほどしかない。
腕時計を見た。
四時を回っている。
掌の汗を、ズボンで拭いた。
四時の巡回で、裏へ行った。
物置の閂は、渡したままだった。
南京錠も錆びたまま、手で押して動かない。
開いてなどいない。
フェンスの向こうで、篠竹が鳴った。
風だ。
わしは振り返らずに、資材置き場を抜けた。
梶さんの言いつけを、あの晩は素直に守る気になった。
翌日の夕方、梶さんが引き継ぎに来た。
わしは電話の話を切り出した。
梶さんの顔が、途中で止まった。
「お前、何言ってんだ」
「ゆうべ、お前から電話があったんだぞ。三時ごろ」
「うちの電話が鳴って、お前が言ったんだ。閂が開いてるって」
「俺はそれで、触るなって言ったんだ」
わしは掛けていない。
梶さんの家の番号を、わしはそのとき知らなかった。
梶さんは日誌を開いた。
三時の欄は、ない。
二時の欄に「構内 異常なし」。
四時の欄に「裏 閂 異常なし」。
わしが書いた通りだ。
「開いてる、って言ったろう」
「わしは異常なしと書いた」
どっちも、引かなかった。
梶さんはそれ以上、言わなかった。
湯呑みを置いて、森のほうに顎をしゃくった。
「裏で、振り返ってないな」
「振り返ってません」
「ならいい」
「見るな、入るな。それだけだ」
梶さんはその日から、湯呑みを持ち帰らなくなった。
守衛室の棚に、置きっぱなしにしていった。
理由は聞いていない。
理屈は、いくらでも付く。
わしは椅子で眠って、寝ぼけて電話を掛けた。
梶さんは寝ぼけて、電話を受けた。
二人の寝ぼけが、たまたま噛み合った。
日誌の三時の書き込みも、同じことだ。
眠ったまま書いて、眠ったまま回った。
そう思えば、全部つながる。
番号のことだけは、つながらない。
つながらないまま、わしは夜を続けた。
守衛は一人だ。
持ち場を離れるわけにはいかない。
辞めるまでは、裏に出るしかない。
一度だけ、明るいうちに裏へ行ってみた。
昼の二時ごろ、事務所に人がいる時間だ。
物置の閂には、蜘蛛の巣が張っていた。
南京錠の錆が、手に赤くついた。
長いこと、誰も開けていない。
フェンスの向こうは、昼に見ればただの雑木の斜面だ。
篠竹が風に揺れて、土の匂いだけが夜と同じだった。
斜面の右手、木の間に、不動院の瓦屋根が見える。
堂の戸は閉まっていた。
それだけだ。
昼に見ると、何もない。
三月の末で、わしは工場を辞めた。
辞めた理由は、別にある。
昼の仕事が決まった。
最後の勤めの晩も、いつも通り回った。
四時の巡回で、裏へ出た。
三月に入ってから、風が変わっていた。
篠竹の葉が、フェンスの内側まで吹き溜まっている。
湿った土の匂いが、いつもより濃い。
閂を手で押さえた。
動かない。
そのとき、斜面の上で、木が鳴った。
ぎ、と一度。
重い戸を、内から押したときの音だ。
物置ではない。
音は、丘の上から降りてきた。
わしは振り返らなかった。
懐中電灯を、足元に向けたままにした。
資材置き場を抜けるまで、足の裏が地面に貼りついて剥がれない。
口の中が乾いて、唾が飲めなかった。
守衛室に戻って、日誌に四時の分を書いた。
判子を押した。
その日の夕方、鍵束を工場長に返した。
工場長は、札を一枚ずつめくって数えた。
「九本。はい」
それで終わりだ。
「裏」の札も、工場長の太い油性の字で、確かにあった。
わしはそれを、目で見ている。
梶さんの湯呑みは、棚に残したままにした。
次からは、梶さんが続けて入ることになっていた。
工場は、平成に入る前に移転した。
今は跡地に、マンションが建っている。
浄水場も、もう動いていない。
丘の斜面の木は、今も残っている。
不動院の堂は、今も閉まっている。
梶さんとは、工場を辞めてから会っていない。
土淵に火事が少ないのは、お不動さんのおかげだ。
梶さんは、よくそう言っていた。
見れば火が出る不動さんが、火を防ぐ不動さんになっている。
どこで入れ替わったのか、梶さんも知らなかった。
古い手押しの消防ポンプと纏が、不動院の脇に飾ってある。
あれは、今もある。
去年の秋、家の片付けをした。
嫁に行った娘が、手伝いに来た。
古い茶箪笥の引き出しから、娘が小さい物を摘まみ上げた。
「お父さん、これ何」
真鍮の鍵が一本。
親指ほどの、小さい鍵だ。
紙の札が、針金で結わえてある。
札に、鉛筆で一文字。
「裏」
わしは返した。
九本、工場長が数えた。
あの日の夕方、確かに数えた。
茶箪笥は、生田に越してきたときに買ったものだ。
引き出しは、嫁ぐまで娘が使っていた。
鍵を見たことはないと、娘は言う。
鍵は、掌の中でなかなか温まらなかった。
娘は、札の字をのぞき込んだ。
「お父さんの字だね」
わしは札を目に近づけた。
一番上の点が、ない。
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