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鶴見川橋梁下の地下道で、父を待った夜

小学三年の夏まで、父は口笛を吹く人だった。

節はいつも同じ。
浜辺の歌。
母があきれるくらい、どこへ行っても同じ節だった。

八月十六日の夜の話をする。
平成に入って二年か三年の頃だ。

父方の祖母は、横浜市鶴見区の佃野町に住んでいた。
鶴見川のすぐそば。
線路の向こう側の、古い平屋だ。
玄関の引き戸が重くて、妹は一人で開けられなかった。

毎年お盆には、家族四人で車で行った。
父と母、私と、五つになる妹。
家は川崎で、車なら三十分もかからない。

父は会社の営業車を使っていた。
白いセダン。
運転席と助手席のあいだに、自動車電話が付いていた。
黒い受話器に、くるくると巻いた線。
子どもの私には、それが自慢だった。
友だちの家の車には、そんなものは付いていない。

祖母の家のまわりは道が細い。
車は入れない。
父はいつも、鶴見川の土手下の道に車を置いた。
そこから祖母の家までは、線路の下をくぐる。

鶴見川橋梁下の地下道。
大人になってから、そういう名前で呼ばれていると知った。
子どもの頃は、ただのトンネルだった。

長い。
ゆるく曲がっていて、入口から出口が見えない。
入口には蔦が垂れていて、のれんみたいにくぐる。
天井の上を、京浜東北線や東海道線が走っている。
電車が通るたび、頭の上がごうごう鳴る。
壁に声が返ってくる。
一人で歩いても、二人で歩いているみたいな音になるのが面白かった。

蛍光灯が、ぽつぽつ付いている。
入口と出口は明るい。
真ん中だけ、いつ行っても切れていた。
祖母に聞いたら、役所が替えてもすぐ切れるのだと言った。

父はそこで遊びを作った。
真ん中の暗いところに入ったら、息を止めて走る。
出口の明かりまで息が続いたら勝ち。
妹は毎回、途中で笑って息を吐いた。
私は毎回、勝った。

地下道を出て、土手の道を少し行ったところに、小さな石の碑がある。
鶴見川水難者供養塔。
川で亡くなった人のための碑だと、祖母が教えてくれた。
昔はこの川に葦が茂っていて、流れてきた人が見つからないことも多かったらしい。
父は通るたび、道から軽く頭を下げた。
私たちも真似をする。
触っちゃだめよ、と祖母に言われていた。

その日は昼間に墓参りをした。
日なたの墓石が熱くて、手をつけなかった。
父は草をむしって、汗だくになった。
帰りの地下道は、自転車のおじさんや買い物帰りの人がすれ違う、ただの近道だ。
妹は蔦をくぐるのが好きで、入口で何度も出たり入ったりしていた。
夕方、祖母の家の縁側で、父は麦茶を二杯飲んで、うちわで首を扇いでいた。
母は台所で祖母と話していた。
妹と私は、庭で線香花火をした。

暗くなってから、祖母は妹に人形をくれた。
おかっぱの日本人形。
赤い着物で、顔は白い。
祖母が子どもの頃から持っていたものだ。
髪の毛が細くて長くて、妹はずっと指で梳いていた。

「この子はね、人見知りなの」
祖母は妹の頭をなでながら言った。
「知らない人がいると、そっぽを向くのよ」
妹は人形を抱きしめて、うんと言った。
私は、作り話だと思って聞いていた。
祖母はよくそういう話をした。

九時を回って、家を出た。
送り火の煙の匂いが、まだ路地に残っていた。
祖母は玄関の前で手を振った。
「気をつけてね。トンネル、走っちゃだめよ」
父は青いゴムサンダルをつっかけて、口笛を吹きながら歩き出した。

四人で地下道に入る。
父が前。
妹が人形を抱えて続く。
母がその横。
私はいちばん後ろ。

地下道の中は、昼間より涼しい。
コンクリートの壁が、冷たい息を吐いている。
壁のどれかの継ぎ目から水が落ちる音がして、靴の裏が少し湿った。
夜は蛍光灯の数が、昼間より少なく見える。
父の口笛が壁に跳ねている。
サンダルの、ぺた、ぺたという音も一緒だ。
電車が上を通って、節がいったん消える。
通り過ぎると、また聞こえてくる。

真ん中の暗がりに入った。
父が「せえの」と言った。
息を止めて、走る。
足音が四つ、壁で八つになる。
出口の明かりが近づく。
私は最後まで息を止めた。
父が「兄ちゃんの勝ち」と肩を叩いた。
妹は途中で噴き出して、母に手を引かれていた。

地下道を出ると、川の匂いがした。
泥と、夏の草と、少し生ぐさい匂い。
供養塔の方へ頭を下げる。
土手下の道に、白いセダンが一台だけ。
街灯が一本、黄色く光っていた。

父が運転席。
母が助手席。
私と妹が後ろ。
妹は人形を膝に置いた。
顔はまっすぐ前を向いていた。

父がエンジンをかけた。
母が「あ」と言った。
「バッグ、置いてきた」
玄関の上がりかまちに置いたまま、らしい。
中に家の鍵が入っている。
母は免許を持っていない。
私たちは、父がいないと帰れない。

「取ってくる」
父はエンジンをかけたまま、ドアを開けた。
「五分で戻る。窓、少し開けとけ」
母が「走らないでね」と言った。
父は返事の代わりに、口笛を吹いている。
その背中が、蔦をくぐって消えた。

車の中が静かになる。
母がラジオをつけた。
野球の中継。
窓を指二本ぶん開けると、川の匂いと、土手の草のこすれる音が入ってきた。
川そのものは、音を立てない。
黒くて、ただ広い。

私は後ろの窓から、地下道の入口を見ていた。
車から、五十メートルくらい。
蔦の奥に、蛍光灯の白い光。
人は出てこない。
すぐ横の橋梁を、電車が一本通った。
車が少し揺れる。
母が「終電まではまだあるね」と、誰にともなく言った。

父がこの道に車を置くのは、祖母の家に近いからだけではない。
土手下は人が少なくて、営業車に傷を付けられないから、と前に言っていた。
私はその話を、暗い車の中で思い出していた。

ダッシュボードの時計は、九時三十一分。

それが一回目。
口笛が聞こえた。

浜辺の歌。
父の節だ。
地下道の口から、こっちへ流れてくる。
私は体を起こした。
入口を見る。
誰も出てこない。

「お父さん、もう戻ったの」
母が振り返った。
口笛はもう止んでいた。
「反響でしょ。中で吹いてるのが、こっちまで来るのよ」
私は頷いた。
それで済む。

ラジオで誰かがホームランを打った。
妹が人形の髪をなでている。
母はバッグのことを、まだぶつぶつ言っていた。

九時三十三分に、仕事帰りらしいおばさんが地下道から出てきた。
こっちを見もせずに、土手の方へ歩いていく。
ただの道なんだ、と思った。
近所の人が、毎日通る道。
肩から力が抜けた。

九時三十五分。
受話器が鳴った。

座席のあいだで、黒い受話器がびりびり震える。
母が取った。
「はい。あ、お義母さん」
祖母だ。
母は受話器を耳に当てたまま、小さく笑った。
「はい。はい、ありがとうございます」
受話器を戻す。
「お父さん、今バッグ持って出たって」

出たばかりなら、あと二分だ。
歩いても三分。
私は時計を見た。
九時三十六分。

三十七分。
三十八分。
三十九分。
入口の蔦は動かない。
電車がもう一本、すぐ横の橋梁を通った。

二回目。
地下道の口から、足音が聞こえてきた。

ぺた、ぺた、と平たい音。
父のゴムサンダルの音だ。
夏の父は、どこへ行くにもあの青いサンダルを履いていた。
音は奥から、少しずつ大きくなる。
妹が顔を上げた。
「お父さんだ」
私も入口を見た。
蛍光灯の白い光の中に、まだ誰もいない。

足音は、入口のすぐ手前で止まった。
出てこない。
蔦も動かない。
母は窓の外を見た。
「向こう側から誰か入ったのよ。音だけ先に来るの」
私は頷くしかなかった。
さっきの口笛と同じだ。

それにしても、止まったきりだ。
入口で、誰かが立っている音。
立ち止まった足が、砂を踏むような、小さな音。
耳の後ろが、ちりちりした。
膝の上で、手の汗を拭く。
母がラジオの音を上げた。
「反響」
それで終わりにした。
私も、それでいいと思った。
音でいい。

九時四十一分。
蔦が揺れた。
父が出てきた。

バッグを脇に抱えている。
走っていない。
歩いている。
街灯の下で、白いポロシャツが黄色く見えた。
手を振っている。
母も振り返した。
私は息を吐いた。
いつの間にか、止めていたらしい。

ドアが開いて、父が乗り込む。
バッグが母の膝に落ちた。
「遅かったね」
「おばあちゃんがさ。お茶飲んでけって聞かなくて」
母は「電話くれたよ」と言った。
「今出たばっかりって」
「ああ」
父はシートベルトを締めた。

ここが、三回目だ。

妹が身を乗り出した。
「お父さん、息止めた?」
父はミラーを直していた。
「何を」
「真ん中」
一拍あった。
「ああ。止めた止めた」

妹は満足して、人形を抱え直した。
それから「あれ」と言った。
人形を持ち上げて、父の方へ向ける。
「横向いちゃった」

人形の顔は、窓の方を向いていた。
さっきまで、まっすぐ前を向いていたのに。
妹が膝の上で回してしまったんだろう。
五つの子だ。
そういうことはある。

父はそれには何も言わず、車を出した。

土手下の道から、旧東海道へ上がる。
鶴見川橋を渡る。
橋の上から、川が黒く見えた。
川沿いに、さっきの地下道の口が小さく光っている。
蔦が揺れたように見えた気がした。
橋を渡りきると、見えなくなった。

私は父の後ろ頭を見ていた。
刈り上げの、少し白くなった襟足。
汗の匂い。
昼間、墓掃除で汗だくになった父の匂いだ。
同じだ。
何も違わない。

ハンドルを握る手が、両方とも上にあった。
父は右手一本で回す癖があって、母によく怒られていた。
その夜は、教習所の人みたいに、きちんと両手で握っていた。
会社で注意されたのかもしれない。
そう思うことにした。

疲れているんだ。
そう決めた。
炎天下で草をむしって、夜は祖母の家で遅くまでいたのだから。

国道に出た。
父は口笛を吹かなかった。
ラジオだけが鳴っていた。
母は膝の上のバッグを開けて、鍵があるのを確かめた。
「あった」
父は何も言わない。

受話器が、また鳴った。

父が左手で取った。
「はい」
短い間。
車の中は静かで、受話器から漏れる声が、後ろの席まで届いた。
男の声。
「もしもし」
一言だけ。

父はすぐ受話器を戻した。
「間違いだ」
母が「おばあちゃん?」と聞いた。
「違う」

妹が、私の袖を引いた。
声を小さくして言った。
「今の、お父さんの声」

私は何も言わなかった。
妹の手を、袖ごと握った。
小さくて、少し湿っていて、ちゃんと妹の手だった。
窓の外の、工場の明かりを数えた。
一つ、二つ、三つ。
数えているあいだは、何も考えなくて済んだ。
妹は人形を胸に抱いて、窓の方を向かせたままにしていた。

家に着いたのは十時過ぎだった。
車庫に入れるとき、父はいつもの一回切り返しをせずに、まっすぐ入れた。
母がバッグから鍵を出して、玄関を開ける。
父は玄関に入ると、ただいまも言わずに風呂に入った。
父は風呂のあと、ビールを一本飲んで寝た。

次の朝も、いつもどおりだった。
父は新聞を読んで、味噌汁を飲んで、会社に行った。
玄関で靴べらを使って、鞄を持って、ドアを閉めた。
母は洗濯物を干していた。
父が出たあと、妹は人形を和室の棚に置いた。
顔は、こっちを向いていた。
妹はそれを見て、人見知りが直った、と喜んだ。

祖母には、夏休みの終わりに電話した。
母が替わってくれて、私も少し話した。
祖母は「この前はトンネル、走らなかった?」と聞いた。
走ったよ、と答える。
祖母は笑った。
「お父さんが戻ってきたとき、お茶もなにも出す暇なかったわ。玄関で渡して、すぐ帰したもの」
私は、そう、とだけ言った。
受話器を母に返した。
母は祖母と、人形の着物の洗い方の話をしていた。
私は台所の椅子に座って、膝の上の手を見ていた。

それから三十年あまり経つ。
父は元気だ。
定年のあと、庭いじりばかりしている。
去年、妹の子が学校で浜辺の歌を習ってきて、縁側で歌った。
父は湯呑みを持ったまま、黙って聞いていた。
節を合わせて口を動かすことも、なかった。
歌い終わると、上手だな、とだけ言って庭に下りた。

あの夜から、父は口笛を吹いていない。
一度も。

鶴見川橋梁下の地下道は、今もある。
真ん中の蛍光灯は、去年通ったときも切れていた。
私は息を止めずに、歩いて抜けた。

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