四時半を少し過ぎたころ、千尋が玄関の呼び鈴を押した。
高校を出てから、顔を合わせるのは十五年ぶりになる。
四街道の実家を片付けに来たついでだと、電話では言っていた。
片付けは昼で終わったらしい。
手が空いたから寄る、と短い連絡が来たのが三時だった。
「トモ、変わんないね」
千尋は肩から鞄を下げて、紙袋を胸の前に抱えていた。
灰色のカーディガンに、黒いズボン。
靴も黒い。
袋の中身は梨で、重さで底が少し伸びている。
「道の駅で買った。千葉の梨、久しぶりで」
「ありがと。上がって」
実家は売るのだという。
母親は去年から施設に入っていて、もう戻らない。
荷物は三日かけて業者に出したと、千尋は言った。
爪の間に、まだ埃が残っている。
私の家は、千葉市若葉区若松町の端にある。
南の窓から、畑を二枚はさんで、烏の森の縁が見える。
昔は若竹慰霊の森と呼ばれていたと、小学生のころに聞いた。
処刑場だったとか、何を慰霊しているのか誰も知らないとか、噂はいろいろある。
今は鳥獣保護区で、昼間は散策路を歩く人もいる。
私は、入ったことがない。
夕方になると、烏が四街道の方から戻ってくる。
森の上で輪を描いて、順に枝へ降りる。
鳴き声は、窓を閉めていても届く。
聞こえない日の方が、落ち着かない。
十月の日は短い。
五時半には、森の縁が空から離れなくなる。
両親が八街の方へ移ってから、この家には私ひとりで住んでいる。
古い木造の二階建てだ。
夕方に冷えると、柱のあちこちが鳴る。
慣れてしまえば、時計の音と変わらない。
玄関の下駄箱の上には、回覧の紙が二枚、読まずに重ねてあった。
千尋はそれを見て、何も言わなかった。
私も、見なかったことにした。
「電柱の紙、見たよ。トモの字でしょ」
靴を脱ぎながら、千尋が言った。
二週間前、門の前から原付が消えた。
高三の冬に中古で買って、ずっと乗っていた灰色の原付だ。
鎖は切られて、砂利の上に落ちていた。
交番には届けた。
見つかることは、まずないと言われた。
張り紙を勧めたのは、隣の村田さんだった。
民生委員を長くやっていた人で、この辺の事情に詳しい。
警察より紙の方が効く、と言った。
私は門柱と、森沿いの道の入口の電柱に、一枚ずつ貼った。
十五年前に亡くなった友人の形見です。
命日の十五日までに、返してください。
嘘だった。
死んだ友人なんていない。
返してほしい一心で、祟りを匂わせただけだ。
十五年という数字も、十五日という日付も、その場で決めた。
「誰が死んだの」
「誰も。嘘」
「ふうん」
千尋はそれだけ言って、居間へ上がった。
居間に入ると、千尋はまっすぐ南の窓へ行った。
「森、まだあるんだ」
「あるよ。減ってもいないし、増えてもいない」
「柵、あんなのあったっけ」
「私が高校のときにはもうあった。あんたも見てるはず」
緑の金網が、森の縁に沿って伸びている。
ところどころ、網が内側へたわんで見えた。
入口の看板は、窓からでも読める。
ひとりで入らないでください。
子どもだけで行かないでください。
白い板に黒い字で、二枚並んでいる。
台所で梨を剥いた。
包丁を入れると、皮がひと続きになって落ちていく。
甘い汁の匂いが、指先からあがってきた。
千尋は窓辺に立ったまま、こちらを見ない。
「ねえ、最近さ」
「うん」
「五時のチャイム、頭の中で鳴るんだよね」
手が止まった。
梨の皮が途中で切れて、まな板に落ちた。
「夕焼け小焼けのやつ。うちの方、あれ流れないのに」
「鳴るって、どういう」
「頭の中っていうか、耳の奥。夕方になると、決まって」
千尋は笑った。
笑い方が、高校のときと同じだ。
私も笑って、梨を皿に並べた。
皿の上で、切り口が白く光っている。
その話は、それで終わりにした。
こたつはまだ出していない。
座卓をはさんで、向かい合って座った。
千尋は窓を背にしている。
千尋の肩越しに、森の黒い縁が見える。
烏が、何羽も枝の上を移っていた。
話は昔のことばかりになった。
部活の顧問。
駅前のたい焼き屋。
体育館の裏で燃やした手紙。
千尋は梨をひと切れ、手でつまんで笑う。
汁が指を伝って、手首まで落ちた。
私は湯呑みを両手で包んで、聞いていた。
「森、入ったよね。高二の秋」
千尋が、梨をかじりながら言った。
「入ってない。私は看板のところで待ってた」
「え、二人で入ったじゃん」
「入ったのは千尋ひとり。昼間だったけど、私は入口の看板の外」
「そうだっけ」
千尋は首を傾げて、それ以上は言わなかった。
私も、それ以上は言わない。
あの日、私は看板の前で三十分待った。
散策路から出てきた千尋は、何も言わずに歩き出した。
帰り道も、ひとことも喋らなかった。
そのことは今も、お互いに触れない。
五時になった。
森の向こうから、チャイムが流れてきた。
夕焼け小焼け。
市の防災無線だ。
スピーカーは森の反対側、小学校の近くに立っている。
音は木に吸われて、いつもくぐもって届く。
千尋が目を閉じた。
「これこれ。これが鳴るの」
チャイムが終わった。
いつもならそこで切れる。
今日は、女の人の声が続いた。
「亡くなった、友人の」
そこから先が、聞き取れない。
声が森にぶつかって、音の端だけがこちらに返ってくる。
千尋が目を開けた。
「今、形見って言った?」
「言ってない。迷い人か何かのお知らせでしょ」
迷い人の放送なら、月に一度は流れる。
風向きで聞き取れないのも、いつものことだ。
自分の張り紙の文句が頭にあるから、そう聞こえただけだ。
私はそう決めて、湯呑みに茶を足した。
「見つかるといいね、原付」
「見つかるよ。この辺、隠せる場所が限られてるから」
森の方は見ないで、そう言った。
六時には千尋が帰る。
小倉台駅まで歩くと言うので、森沿いの道は通るなと言った。
遠回りでも、表の通りを行けばいい。
「大丈夫だよ。駅まで表の通りで行く」
「暗いよ、この時期」
窓の外は、橙から灰色に変わりかけている。
烏が森の上で群れを組み直していた。
鳴き声が、窓硝子まで届く。
そのときだった。
階段が鳴った。
一段。
間を置いて、もう一段。
木の板が沈んで、戻る音。
千尋が肩をすぼめて、天井を見た。
「二階、誰かいる?」
「いない。家が鳴るの」
「今の、歩いてたよ」
「古い家だから。夕方、冷えると鳴る」
嘘ではない。
この家は、ほんとうに夕方に鳴る。
私は梨の芯を集めて、台所へ立った。
背中で千尋が小さく息を吐いたのが分かった。
流しの前で、水を出した。
手を洗いながら、階段の方へ耳を向ける。
何も鳴らない。
鳴らないと分かると、肩の力が抜けた。
指先の梨の汁が、水に溶けて流れていく。
居間へ戻ると、千尋が窓を開けていた。
冷たい空気が、畳の上を這ってくる。
湿った土の匂い。
落ち葉の、少し甘い匂い。
森の匂いが、家の中に入ってきていた。
「閉めて」
「ごめん。烏、見たくて」
千尋は窓を閉めた。
閉めても、匂いはしばらく残った。
私は座卓の上の皿を、意味もなく寄せた。
五時半を回ったころ、また声が流れた。
今度はチャイムがない。
いきなり声から始まった。
さっきより、少しだけ近い。
「命日までに、返してください」
千尋が私を見た。
私も千尋を見た。
私の張り紙の、二行目だ。
一字も違わない。
声はそこで、また森に飲まれた。
その先は、音の破片だけになった。
「トモの紙、読んでるよ」
「うん」
「誰が」
「分かんない」
千尋はカーディガンの袖を、指先で引っ張っていた。
袖を見てはいない。
ただ引っ張っているだけだ。
私は湯呑みの縁を、親指でなぞっていた。
理屈は、ひとつだけ思いついた。
誰かが、電柱の紙を読んで、面白がっている。
スピーカーの近くで、放送に声を混ぜている。
原付を持っていった本人かもしれない。
だとしたら、交番に持っていける。
私は携帯を出して、録音の画面を開いた。
「次、流れたら録る。交番に持ってく」
「録れるかな、こんなくぐもった声」
「録らないよりまし」
千尋は頷いただけだった。
それから、私の携帯を見て、言った。
「録るときさ、窓、開けた方がよくない?」
「開けない」
千尋は、黙って梨の皿を引き寄せた。
交番のため、と自分に言い聞かせた。
本当は、三回目があるかどうかを確かめたかった。
二回あったものは、三回ある。
理由はないけれど、そう決めてかかっていた。
六時前。
外はもう、森と空の境が分からない。
千尋は帰る支度を始めていた。
紙袋をたたんで、鞄に入れる。
三回目は、六時ちょうどに来た。
私は携帯を窓に向けて、録音を押した。
赤い印が点いて、秒の数字が動き始める。
声が流れた。
「返しに来ました」
今までで、いちばんはっきり聞こえた。
木に吸われていない。
反響もない。
声の出どころが、森の向こうではなかった。
上だ。
二階から、階段を伝って、降りてきている。
千尋が立ち上がった。
私は携帯を持ったまま、動けずにいた。
喉の奥が、乾いて貼りつく。
声は続いた。
「形見を、返しに来ました」
名前が読まれた。
千尋が、私の腕を掴んだ。
指が冷たい。
「今、私の名前言った」
私には、そう聞こえなかった。
私に聞こえた名前は、口にしなかった。
できなかった。
声は、そこで切れた。
階段は鳴らない。
降りてくる音も、上がっていく音もない。
烏の声だけが、屋根の上を渡っていった。
どれだけそうしていたか、分からない。
私は録音を止めた。
四十秒。
画面の数字が、そこで止まっている。
「上、見てくる」
「やめなよ」
「二階の窓、開いてるのかも。だから上から聞こえた」
それしか思いつかなかった。
千尋を居間に残して、階段を上がった。
一段目で、板が沈む。
さっき聞いた音と、同じ音がした。
二階の部屋は、私が高校まで使っていた部屋だ。
今は布団と段ボールしか置いていない。
机の跡が、畳に四角く残っている。
段ボールの一つに、高校の名前が書いてある。
千尋の字だ。
進学で家を出るとき、荷物をまとめるのを手伝ってもらった。
部屋は、冷えていた。
窓は閉まっている。
鍵もかかっている。
土と落ち葉の匂いが、部屋の真ん中に溜まっていた。
下で千尋が開けた窓の匂いが、階段を伝って上がってきたのだと思った。
そう思うことにした。
窓に手を当てた。
外の冷たさが、硝子越しに掌へ伝わってくる。
南の窓から、森が見える。
畑の向こうで、黒い塊になっている。
柵の金網だけが、街灯の明かりを拾って、うっすら光っていた。
烏が一斉に飛び立った。
鳴き声が、森の上で丸くなって、こちらへ流れてくる。
声は、しなかった。
降りると、千尋は玄関で靴を履いていた。
「帰る」
「送る。表の通りまで」
「いい。ひとりで平気」
千尋は灰色の袖を、また引っ張った。
それから、私の顔を見て、笑った。
「トモ、あのさ。高二のとき、私が森で何見たか、聞かなかったよね」
「聞かなかった」
「今も聞かない?」
「聞かない」
千尋は頷いて、玄関を出た。
下駄箱の上の回覧の紙が、戸の風で一枚ずれた。
門の外まで送った。
門柱の張り紙は、まだ剥がれずに残っている。
千尋はそれを見ないで、表の通りではなく、森沿いの道へ曲がった。
止める間はなかった。
街灯が、道の途中までしか届かない。
灰色の背中が、明かりの切れ目で見えなくなった。
足音は、それより先に消えていた。
その瞬間、烏が鳴き止んだ。
森全体が、音を落とした。
さっきまで屋根の上を渡っていた声が、ひとつもない。
耳の奥で、血の音だけがした。
「あら、トモちゃんにお客さん?」
生け垣の向こうから、村田さんが顔を出した。
取り込み忘れた洗濯物を、腕に抱えている。
「高校の友達です」
「珍しいわね。こんな時間に」
私は携帯を握り直した。
村田さんに、言うつもりだった。
チャイムの後に、私の張り紙を読む声が流れたこと。
三回目は、家の中から聞こえたこと。
録音も、ある。
「村田さん、さっきの放送」
「放送?」
「チャイムの後の。五時から三回、声が流れましたよね」
村田さんは、洗濯物を抱えたまま、首を振った。
「鳴ってないわよ。先週から」
「え」
「スピーカーの取り替え工事。市の紙に書いてあったでしょう。工事中はチャイムも流さないって」
私は、森の方を見た。
烏はまだ鳴かない。
千尋が曲がっていった道は、街灯の先が黒いままだ。
携帯の画面に、録音の一覧が出ている。
今日の日付。
四十秒。
親指を、再生の印の上に置いた。
押せない。
背中の方で、階段が、一段鳴った。
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