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七里殺人の森の裏で呼ばれた名前

十月の初めに、三日だけの検品の仕事に入った。
派遣の登録先から回ってきた案件で、場所はさいたま市見沼区の片柳。
日当が相場より二千円高くて、交通費も出る。
家賃の支払いが迫っていたから、中身も聞かずに受けた。

七里駅に朝九時集合で、そこから送迎のワゴンに乗る。
運転していたのは所長で、五十代の、言葉の少ない人だった。
駅前を離れると、すぐに畑になる。
街灯のほとんどない農道を十数分走って、雑木林の脇で車が止まった。
林の縁に、白いビニール袋が三つ、枝に引っかかっていた。
不法投棄だと思う。
風でひらひら揺れて、朝の光を跳ね返していた。

倉庫は二階建てのプレハブみたいな建物で、看板は小さい。
手前が駐車場、裏が荷受け口になっている。
荷受け口の向こうは、すぐ林だ。
雑木林と畑が混じっていて、山というより里山の端っこという感じがした。

働いているのは所長と、パートの女の人と、出入りのドライバー。
あとは俺みたいな短期の派遣が二人。
俺と、田中という二十代の男だ。
全員初対面で、名前もその場で覚えた。
三日で終わる仕事だ。

仕事は単純だった。
裏の荷受け口にトラックが着く。
段ボールを台車に積んで、中の検品台まで運ぶ。
伝票と中身を照らして、番号を書く。
それだけだ。

建物の中は一階が全部作業場で、奥に検品台が二つ並んでいる。
その横が事務所で、所長の机の窓から裏の荷受け口が見える。
窓は曇りガラスで、人の形だけが分かる程度だ。
二階は在庫置き場だと聞いたが、上がる用事はなかった。

荷受け口は建物の裏にあって、地面から一メートルほど高い。
トラックの荷台に高さを合わせてあるらしい。
縁に立つと、目の前が林になる。
距離にして十メートルもない。
土と枯れ葉の匂いが、常にこっちへ流れてくる。
風が吹くたび、木がこすれて低い音を出す。
唸りに近い音で、腹の底に響いた。

初日の昼前、ドライバーの男が煙草を吸いながら言った。
「あの林、名前知ってる?」
知らないと答えると、男は笑った。
「七里殺人の森。ネットでそう呼ばれてる」
物騒な名前だな、と俺は言った。
「中に稲荷があってさ。荒れ放題だよ。誰も手入れしてない」
男は四十くらいで、週に三回この倉庫に来るらしい。
煙草の灰を縁から落として、林の方へ顎をしゃくった。

昼休みに、パートの女の人が弁当を広げながら別のことを言った。
「あそこね、月に一度は誰かが掃いてるよ」
ドライバーの話と食い違う。
女の人は六十くらいで、片柳の生まれだと言った。
「うちの親は、みさきさまって呼んでた。殺人なんて名前、昔はなかった」
どっちが本当か、俺には分からない。
三日でいなくなる人間に、確かめる気も起きなかった。

午後、荷受け口の縁から林の奥を見てみた。
雑木の幹が重なって、二十メートルも先は見通せない。
赤いものが、枝の隙間にちらりと見えた。
鳥居の柱か、投棄された何かの色か、区別がつかない。
踏み分け道が一本、林の中に入っていく。
下りる気にはならなかった。
段差を下りて十メートルも歩けば、倉庫の敷地を出る。
その先は他人の土地だ。

倉庫には構内放送がある。
所長の机の横にマイクがあって、押すとチャイムが鳴る。
ぽん、と一つ。
それから名前を呼ぶ。
「田中さん、裏の荷受けまで」
呼ばれた人間が裏へ行って、トラックを受ける。
放送の声は、裏の壁に付いたスピーカーから出る。
錆びた灰色の箱で、網の部分に蜘蛛の巣が張っていた。
林に向かって、名前が飛んでいく。

一回目は初日の午後だった。
時間は二時過ぎ。
俺は荷受け口の縁に立って、台車の向きを変えていた。
背中は林に向いている。
右の肩に、手が置かれた。
軽く乗せるだけの、確かな重さ。
所長が来たのかと思って振り向いた。
誰もいない。
荷受け口には俺一人で、扉は閉まっている。

肩に手の形の感触が残っていた。
指が四本と、親指が一本。
俺は作業着の肩を払った。
何も付いていない。
風が吹いて、林が唸った。
風だな、と思った。
風が服を押しただけだ。
そう決めて、台車を押して中に入った。

その日の帰り、ワゴンの中で田中が肩を回していた。
「裏、肩凝りますね」
「中腰だからな」
それで会話は終わり。
七里駅で降りて、別々の電車に乗った。

二日目は、朝から焦げた匂いがした。
隣の畑で、農家の人が枝を燃やしている。
剪定した枝を山にして、火をつけて、煙が林の方へ流れていく。
白い灰が宙に舞って、荷受け口の床に薄く積もった。
支給の作業着は薄い灰色で、灰が乗っても目立たない。
俺は箒で払いながら、所長に聞いた。
「よく燃やすんですか」
「秋はね。苦情が来ない範囲で」
所長はそれだけ言って、事務所に戻った。

田中はその朝、検品台の方を希望した。
「裏、冷えるんで」
十月の昼で、冷える気温じゃない。
俺は裏を引き受けた。
伝票を睨み続けるより、体を動かす方が楽だと思ったからだ。

昼前、裏で段ボールを下ろしていたら、チャイムが鳴った。
ぽん。
反射的に壁のスピーカーを見た。
名前が続かない。
もう一度、ぽん。
音の向きが変だった。
スピーカーからじゃない。
林の中から聞こえた。

俺は縁に立って、林を見た。
雑木の枝の間を、灰色の鳥が飛んだ。
ヒヨドリだと思う。
ぴい、と鳴いて、枝に止まった。
ドライバーの男が、荷台から降りてきて言った。
「ヒヨドリは何でも真似するよ。前の職場じゃ、フォークリフトの音を真似してた」
なるほど、と俺は言った。
鳥なら鳥でいい。
それで片付けた。

午後、同じ荷受け口で、背中に重さが来た。
段ボールを持ち上げようとして、腰を曲げた時だ。
肩甲骨の間に、何かが乗った。
手のひら一枚分の広さ。
押さえられて、腰が伸びなかった。
息を止めて、そのまま十秒くらい待つ。
重さが消えた。
後ろを見る。
ドライバーの男が、荷台の奥で伝票を数えている。
俺から三メートルは離れていた。

「今、押しました?」
男は顔を上げて、首を振った。
「腰だろ。昨日から中腰ばっかりだし」
言われてみれば、腰は張っていた。
中腰で荷物を持つと、背中が重くなる。
筋肉のせいだ。
俺はそう決めた。
触られた二回とも、理由が付いた。
理由が付けば、それでいい。

三日目は、昼から俺一人で荷受けを任された。
田中は朝から来ていない。
所長が電話をかけても出ない、と言っていた。
所長は事務所で電話が続いていて、パートの女の人は検品台から動けない。
裏の荷受け口に、俺だけ。
前日の灰が、まだ床の隅に残っていた。
畑の火はもう消えていて、焦げた匂いだけが林の方に溜まっている。

正午過ぎ。
トラックが一台着いて、ドライバーの男が荷を下ろした。
段ボールが二十個。
台車に十個ずつ積んで、二往復する。
男は次の配達があると言って、すぐに出ていった。
残ったのは俺と、台車と、林だ。
日が高くて、コンクリートの床が熱を持っている。

一往復目を中に運んで、戻ってきた時だ。
チャイムが鳴った。
ぽん。
壁のスピーカーからだ。
今度は名前が続いた。
「みさきさん、裏の荷受けまで」
所長の声に聞こえた。
低くて、語尾が少し上がる癖まで同じだ。

みさき。
そんな名前の人間は、三日の間にいなかった。
女の人が言った呼び名が、一瞬かすめる。
派遣がもう一人来たのか、と思った。
田中の代わりが急に入ったのかもしれない。
所長が俺の名前を間違えたのかもしれない。
どっちでもいい。
荷は俺が受ける。
俺は台車に残りの十個を積み始めた。

誰も来ない。
扉は閉まったままで、足音もない。
俺は台車を縁ぎりぎりまで引いて、最後の箱を乗せた。
その時、背中に重さが来た。

今度は手のひら一枚じゃない。
両手だ。
肩甲骨の下あたりに、二つ並んで乗った。
乗って、押した。
下に向かって、体重をかけるみたいに。
人が立ち上がる時、他人の背中に手をついて支えにする。
あの押し方だ。

俺は動けなかった。
目の前は台車で、その向こうは縁だ。
縁の下は一メートルの段差で、コンクリートの地面。
前に出れば落ちる。
横に逃げれば、台車ごと箱が落ちて、荷が壊れる。
日当が飛ぶ。
そんなことを、押されながら考えていた。

膝が勝手に曲がった。
喉の奥が乾いて、唾が出ない。
手は冷たくなかった。
作業着越しに、人の体温がある。
焦げた匂いが急に濃くなって、鼻の奥に貼り付いた。
耳のすぐ後ろで、布のこすれる音がした。
誰かが身を起こす時の音だ。

押す手が、上に滑った。
肩甲骨の下から、襟の方へ。
指が五本、作業着の上を這う。
襟のところで止まった。
それから、重さが消える。

俺は振り向かなかった。
振り向けなかった、が正しい。
首が動かない。
林が唸った。
風は吹いていない。
枝も揺れていない。
音だけが、林の奥から来た。

ぽん。
チャイムが鳴った。
壁のスピーカーからじゃない。
林の中からだ。
踏み分け道の方から、一つだけ。
名前は続かなかった。

どれくらいそのまま立っていたか、分からない。
扉越しに、検品台の方からパートの女の人の声がした。
「残り、まだ?」
その声で首が動いた。
後ろには誰もいなかった。
扉は閉まっている。
灰が床の隅で、少しだけ動いていた。

台車を押して中に入る。
手が震えて、箱を一つ落とした。
女の人が拾ってくれた。
「顔が白いよ」
「大丈夫です」
俺は事務所に行って、所長に聞いた。
「さっき、みさきさんって呼びました?」
所長は電話を切ったばかりで、眉を寄せた。
「呼んでない。今日は放送使ってないよ」
「みさきさんって人、いますか」
「いない。うちにはいない」

所長は机の横のマイクを見た。
スイッチは切れていた。
電源のランプも消えている。
「朝から入れてないな」
所長はそう言って、また電話を取った。

パートの女の人にも聞いた。
「みさきさん、いないよ。ここ五年、聞いたことない」
女の人は弁当箱を洗いながら、顔を上げなかった。
「鳥じゃないの。運転手さんが昨日、鳥の真似だって言ってたでしょ」
鳥なら、所長の声で名前を呼ばない。
そう言いかけて、やめた。
三日で終わる人間が言うことじゃない。

俺は理屈を並べた。
放送の誤作動。
ヒヨドリの真似。
腰の張り。
風が服を押した。
全部、別々には理由になる。
全部重ねると、膝が笑った。
それでも仕事は残っていたから、残りの時間を検品台で過ごした。
裏には出ていない。
午後に着いた次の便は、所長が受けている。

午後五時に、送迎のワゴンで七里駅まで送ってもらった。
農道を抜ける時、林の縁の白い袋がまだ揺れている。
三つのはずが、四つに見えた。
数え直す前に、車が曲がる。
ワゴンの中で、背中が汗で冷えていた。
十月の夕方で、気温は二十度あったはずだ。
それなのに、肩甲骨の間だけが冷たかった。

七里駅で降りる時、所長が運転席から言った。
「作業着、そのまま持って帰っていいよ。洗って返してくれれば」
俺は頷いた。

家に帰って、作業着を脱いだ。
洗濯機に入れようとして、背中側を上にして広げた。
背中に、灰が付いていた。

薄い灰色の布に、濃い灰色の手形が二つ。
肩甲骨の下に並んでいる。
指は五本ずつ、はっきり開いていた。
右と左で、親指が外側にある。
片方の手形から、襟に向かって、五本の筋が伸びている。

手形は小さかった。
俺の手より、ひと回り小さい。
指の先だけが、幅に合わず長い。

俺はそのまま、携帯で写真を撮った。
三枚。
フラッシュを焚くと、灰が光った。
畑の灰と同じ色だ。
焦げた匂いが、部屋に薄く広がった。

洗わなかった。
洗えなかった、と言う方が近い。
ビニール袋に入れて、口を縛って、押し入れに置いてある。
所長には翌週、別の作業着を買って返した。
事情は話していない。

田中がどうなったかは、知らない。
派遣の登録先に聞いたら、別の案件に移ったと言われた。
それ以上は教えてもらえなかった。

写真は携帯に残っている。
袋も押し入れにある。
派遣の登録先には、片柳の案件は断ると伝えた。
理由は腰だと言った。
腰は、もう何ともない。

舞台になった場所

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