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横浜・瀬谷のお墓山の下、昼に戸口から訊く声(横浜市瀬谷区阿久和南)

借家の男の話

横浜市瀬谷区の阿久和南に、去年の春から住んでいる。
緑園都市駅から歩いて二十分ほど。
阿久和の交差点を少し入った先の、古い二軒続きの借家だ。

裏がすぐ斜面で、その上が木立になっている。
近所の人は、あの丘をお墓山と呼ぶ。
泉区の寺の持ち山で、下の道との境に柵と鎖がしてある。
寺の名を書いた札だと、奥さんから聞いた。
柵の内側に、一本立っている。

私は一度も入っていない。
入る用もない。
配達の兄ちゃんが、動画で有名な場所ですよ、と教えてくれた。
女の人が出るとか、工事が止まったとか。
そういう話なら、どこの町にもある。
聞き流した。

机の後ろの窓を開けると、斜面と木立が見える。
昼は、木の葉が揺れているだけだ。
寺の人が来るところも、見たことがない。
夜に若い連中が柵の前で騒ぐのだと、奥さんは言う。
昼間は誰も来ない。
鎖は、いつも同じ形で垂れている。

借りた時、不動産屋はこう言った。
裏は手の入らない山なので、昼でも静かですよ。
本当にそのとおりで、昼に聞こえるのは隼人高校の方から流れてくるチャイムぐらいだ。
あとは鳥。
雨の日は、雨の音だけになる。

家は壁一枚で隣とつながっている。
隣は七十近い奥さんの一人暮らし。
煮物を持ってきてくれたり、回覧板を回してくれたりする。
壁は薄い。
向こうで戸が開けば、こっちで分かる。
向こうのテレビの笑い声も、こっちで分かる。

私の仕事は、家で図面を引くことだ。
机は一階の奥で、玄関からは廊下一本。
戸は昔ながらの引き戸で、上半分が磨りガラスだ。
机に座ったまま、首を伸ばせば戸が見える。

六月に入って、雨が続いた。
雨が降ると、裏の斜面から土が流れてくる。
赤い土だ。
鉄の匂いがする。
裏の溝に赤い泥がたまって、水が流れなくなる。
それを掻き出すために、三ツ境の方のホームセンターで長靴を買った。
黒い、何の飾りもない長靴だ。
玄関の三和土の隅に、揃えて置いてある。

最初の日のことは、よく覚えている。
雨の昼だった。
十二時を少し回ったころ、戸の外から声がした。

いいですか。

女の声だ。
低くて、落ち着いていて、急いでいない。
隣の奥さんだと思った。
煮物だろう。
私は机に座ったまま、はい、どうぞ、と返した。

戸は開かない。
雨の音だけが続く。
首を伸ばして戸を見た。
磨りガラスは白いままで、影は差していない。
廊下を歩いて、戸を開けた。
雨。
軒から水が落ちている。
道には誰もいなかった。
隣の戸も閉まっていて、軒下に傘もない。
道の向かいの家は、昼間は留守だ。
雨の匂いに、裏の土の匂いが混じっていた。

隣の客の声が回ったのだろう。
壁が薄いから、そういうこともある。
私はそう決めて、机に戻った。
図面の線を一本引き直したら、もう忘れていた。

二度目は、一週間ほど後だ。
やはり雨で、やはり昼だった。
溝の掃除は、その前の日曜に済ませてある。

いいですか。
いいですか。

二度、続けて聞こえた。
同じ女の声。
私は手を止めずに、はい、と答えた。
今度は、言いながら戸の方を見ていた。
ガラスに影はない。

廊下に出て、三和土を見た。
長靴が濡れている。
雨に当たったように、黒いゴムが光っていた。
底に赤い泥がついている。
掻き出した後は、ホースで洗った。
あれから一度も履いていない。

屋根から漏れたのかと、天井を見た。
染みはない。
三和土が湿気を吸ったのだろう。
泥は、洗い残しだ。
雨の日は、乾いた泥でも色が戻る。
そう決めた。
新聞紙で拭いて、隅に戻す。
手に残ったのは、鉄の匂い。

その次の日、道で隣の奥さんに会う。
奥さんは、昨日はどうも、と言った。
私は何もしていない。
煮物ももらっていないし、回覧板も回ってきていない。
誰かと間違えているのだろう。
こちらも、どうも、と返しておく。
奥さんは、笑って家に入った。

その日の夕方、ごみを出しに出て、また奥さんに会った。
ついでに訊いてみる。
昼間に、お客さんが来たりしますか。
声のことは言わなかった。
奥さんは首を振った。
来ないわよ、お宅ぐらい。
冗談だと思って、笑って家に戻った。
戸を閉める時、三和土の長靴が目に入った。
乾いている。
それで安心したのだ。

三度目は晴れ。
前の晩まで降って、朝から日が出ている。
裏の斜面から湯気が立っていて、窓を開けると土の匂いが入ってくる。
昼の十二時。
隼人の方でチャイムが鳴って、少し経ったころだ。

いいですか。

私は答えなかった。
答えずに、椅子から立った。
床板が鳴らないように、ゆっくり廊下を歩く。
今度は影があった。
磨りガラスの向こうに、人の背の高さの、暗い色の影。
動かない。

もう一度、声がした。

いいですか。

戸のすぐ外だ。
ガラス一枚の向こうで、口が動いているのが分かるほど近い。
戸の下の隙間から、濡れた土の匂いが入ってきた。
鉄の匂いだ。
私は口を結んでいた。
心の中で、答えるな、と言っていた。
何に対してかは、自分でも分からない。
背中に汗が伝って、シャツが貼りついた。

そのとき、壁の向こうで声がした。

はい、どうぞ。

隣の家の中からだ。
男の声だった。
私の声だった。
自分の声は、録音で聞くと嫌なものだ。
あの嫌な感じが、そのまま壁を抜けてきた。

影が動いた。
戸から離れて、右へ行く。
右は隣の玄関だ。
ゴム底が、濡れた地面を踏む音がした。
隣の戸が開く。
閉まる。

私は、その場に立っていた。
廊下の板が、足の裏に冷たい。
喉が鳴って、唾を飲んだ。
しばらくして、戸を開けた。
晴れた道に、誰もいない。
隣の戸は閉まっている。

三和土に目を落とす。
長靴は、隅にあった。
乾いている。
私は、なぜか手を伸ばして、中に手を入れた。
ぬるかった。

その日は、仕事にならない。
阿久和の交差点のコンビニまで歩いて、弁当を買う。
信号を待つあいだ、自分の右手を見ていた。
指に、ゴムの匂いが残っている。
昼の日差しで、道の水たまりが光っていた。
中学生らしいのが、二人、自転車で前を通った。
笑い声が、遠くまで続く。
歩きながら、理屈を考える。
自分の声は、隣のテレビだ。
影は、新聞の集金だ。
長靴は、日が当たっていた。
三和土に日は当たらない。
それでも、そういうことにしておく。

家に帰る道で、お墓山の柵が見えた。
木立は濡れて、光っている。
札の字は、道からでは読めない。
柵の手前の赤土に、靴の跡が一つ、道から見えた。
ゴム底の、波の形。
柵の内側には、跡がない。
私は柵に寄らずに、家に入った。

弁当は、台所で食べた。
壁に耳が向く。
隣からは、テレビの笑い声がしていた。
いつもの昼だ。
箸を置いてから、三和土をもう一度見に行った。
長靴は、隅で乾いている。
手は入れなかった。

家にいるしかない。
仕事場が家だし、引っ越す金もない。
それに、昼間だ。
昼間に、何がある。

隣の奥さんの話

あの人ね、三回来たのよ。
雨の日に二回と、晴れた日に一回。
うちは、こっちの戸口から入るしかないから、間違いないわ。

初めは、戸口で、いいですか、って言うの。
若い人が来るのは珍しいから、どうぞ、って言った。
入ってきて、三和土に立ったまま、何も言わない。
長靴を履いたまま。
うちの奥の窓から、山の方を見てた。
顔は、あの人よ。
間違えようがないもの。
肩が濡れてたから、傘を差してなかったんでしょ。
十分ぐらいかしら。
そのまま帰ったの。

あの山ね、昔からみんな入らないの。
寺の山だから。
入らないだけで、何もないわよ。
夜に騒ぐ子たちがいるけど、昼間は静かなもの。

二回目も雨。
また、いいですか、って。
今度はお茶を出したのよ。
上がり框に座らせて。
飲まなかったけどね。
長靴が濡れていて、三和土に赤い泥が落ちた。
あの山の土よ。
雨の日に斜面から流れてくるでしょ。
後で拭いた。

次の日、道で会ったから、昨日はどうも、って言ったの。
あの人、きょとんとしてた。
若い人って、そういうところあるでしょ。
気にしなかった。

三回目は晴れ。
お昼。
いいですか、って言うから、どうぞ、って言った。
その日は長靴を脱いだのよ。
框に座って、壁の方を向いて、はい、どうぞ、って言った。
私じゃないわよ。
あの人が言ったの。
誰に言ったのかは、分からない。
壁の向こうは、あの人の家なんだけど。

お茶は、その日は出してない。
出す前に、立ち上がって帰ったから。
長靴を履かないで。
靴下のまま、戸を開けて出て行ったの。
晴れてたから、濡れはしないでしょうけど。
長靴は三和土に残ってたから、夕方、お宅の戸の前に置いておいた。
つま先を戸の方に向けて、揃えて。
次の日には、なくなってたから、しまったんでしょ。

変なことは、それだけ。
怖い話じゃないでしょ。
あの人、寂しかったんじゃないかしら。
一人で、裏が山でしょ。
昼間でも、人の声がしないもの。

兄の話

弟とは年が七つ違う。
私は大和市に住んでいて、車で二十分だ。

六月の終わりの土曜に、昼飯を食いに行った。
弟は普通だった。
仕事もしている。
痩せてもいない。
話し方も変わらない。
玄関で、よう、と言ったら、よう、と返ってきた。

靴を脱いで上がる時、弟が先に屈んだ。
私の靴を揃えるのかと思ったら、違う。
長靴の方を、手で持ち上げて、置き直している。
向きを変えただけに見えた。

玄関に長靴があるのが、まず引っかかる。
弟は長靴なんか持っていなかった。
引っ越しを手伝ったとき、靴は三足。
革靴と、運動靴が二つ。
聞いたら、三ツ境で買ったと言う。
溝の掃除に使ったと言う。
レシートもあると言う。
まあ、そうなんだろう。
財布を見せろとは言わなかった。

もう一つ。
長靴が、三和土ではなく、上がり框の上に置いてあった。
家の中に長靴を置く奴があるか、と言った。
弟は、外に出しておくと濡れるから、と答える。
その日は、朝から晴れだ。
前の晩も、降っていない。

昼飯は、弟が作った。
素麺だ。
茹でた湯の匂いが、家の奥まで漂っている。
食べているあいだ、裏の木立で鳥が鳴いていた。
窓の外の斜面は、赤い土がむき出しだ。
弟は、裏の山の話をしない。
私もしなかった。

隣の奥さんが、途中で顔を出した。
煮物を持ってきてくれたらしい。
弟を見て、それから私を見て、あら、今日は二人、と言う。
弟が、兄です、と言った。
奥さんは、そう、と言って、長靴を見てから帰っていった。

帰り際、弟が玄関まで送ってくる。
私が外に出た時、弟が言った。

いいですか。

何がだ、と訊いた。
弟は、何でもない、と笑う。

車に乗ってから、家を見た。
弟は戸を閉めずに、玄関の内に立っている。
手を振ったら、振り返してくる。
左手だった。
弟は右利きだ。
どっちの手で振ろうと、勝手だが。

借家の男の話、もう一度

今も同じ家にいる。
仕事も同じだ。
昼になれば隼人の方からチャイムが聞こえて、私は図面を引いている。
隣の奥さんとは、道で会えば話す。
煮物も、たまにもらう。
あれから、戸口の声は来ない。
雨の日も、晴れの日も。

兄には、長靴の話をされた。
三ツ境で買った。
レシートもある。
買った日のことも覚えている。
赤い泥を掻き出すためだ。
兄は、覚えていないだけだ。

奥さんの話も、後で聞いた。
長靴を戸の前に置いたという。
私は、三和土で見ている。
あの日までは、ずっと隅にあった。
どちらが本当かは、分からない。
奥さんは、私の顔を見て、笑っただけだった。

壁の向こうから聞こえた声のことは、誰にも言っていない。
奥さんにも訊いていない。
訊いたら、答えが返ってくる。
それが嫌だ。

変わったことは、一つだけある。

長靴の向きだ。
私は夜、つま先を戸の方へ向けて揃えていた。
履く時に困らないように。
昼に見ると、つま先が家の方を向いている。
毎日そうだ。

直すのは、やめた。

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