蒼太がスタンプ帳を胸に抱いたまま寝入ったのは、九時前だった。
小学三年生の息子は、去年から日本百名城のスタンプを集めている。
今回の目当ては、八王子城跡。
夫は仕事で抜けられず、母と子の二人旅になった。
六月の終わり、梅雨の晴れ間の土曜だった。
昼に高尾駅へ着き、西東京バスに乗った。
蒼太は座席でスタンプ帳を開き、空いた枠を指でなぞっている。
「八王子城は、ここ」
美和が宿を決めたのは、城跡から歩ける距離にあったからだ。
電話で予約した時、女将は一度だけ聞き返した。
「お子さんも、ご一緒で」
はい、と答えると、短い間があってから、お待ちしています、と言われた。
霊園前・八王子城跡入口で降りる。
入口の辺りは民家が密集していて、道は細い。
夜間の来訪は固くお断り、と看板が立っていた。
バス停から歩いて、ガイダンス施設でスタンプを押す。
蒼太は台の前で三回、押す位置を確かめてから、やっと判を下ろした。
曳橋の上で、息子は足を止めた。
城山川の水音が、橋の下から上がってくる。
蒼太は虎口の石垣に手をかざした。
「触っちゃだめ」
「触らないよ」
手は、すぐ引っ込んだ。
御主殿跡は、芝の上に礎石の並びが見えるだけの広場だ。
その先に、御主殿の滝がある。
説明板を読むと、四百年以上前に、この城は一日で落ちたらしい。
大勢の人が、この城で命を落としたこと。
美和はそれだけを、やわらかい言葉で息子に伝えた。
蒼太は黙って、滝の方を見ていた。
「何人くらい」
美和は答えなかった。
人の数を、口に出す気になれなかった。
滝は、思ったより小さい。
岩の段を二つ落ちて、下の淵で白く泡立っている。
飛沫が顔まで届き、濡れた石の匂いが鼻についた。
周りには他の見物客が二組いて、どちらも写真だけ撮って去っていった。
「お母さん、スマホ貸して。音、録りたい」
美和の端末を両手で持ち、息子は滝の前にしゃがんだ。
録音の画面を、まばたきもせずに見ている。
水の落ちる音だけが、端末に入っていく。
途中で美和が声をかけようとすると、蒼太は唇に指を当てた。
しゃべらないで、の合図。
「一分四十秒、録れた」
満足そうな顔で返してきた。
広場へ戻ると、山の影が端まで伸びていた。
日が傾く前に、二人は城跡を出た。
宿までの道は、城山川に沿っている。
夕方の川は薄い茶色で、前日までの雨を引きずっていた。
蒼太は何度も振り返って、山を見た。
「お城、暗くなると見えなくなるね」
「山だからね」
「山だけど、お城だよ」
息子は、それきり黙って歩いた。
宿は、元八王子の集落の外れにある古い民宿だ。
木造の二階建てで、その晩の客は美和たちだけ。
七十くらいの女将が、一人で切り盛りしている。
「宿帳をお願いします」
帳場の机で、美和は二人の名前と住所を書いた。
蒼太は自分の名前の欄を覗き込み、字が汚いと文句を言った。
案内されたのは、二階の六畳だった。
階段は一段ごとに鳴る。
「二階にお客さんを入れるのは久しぶりでね」
女将は先に立って、電気の紐を引いた。
窓からは、暮れかけた城山が正面に見える。
廊下の突き当たりに洗面所がある。
床の間に、黒い木箱が一つ置いてあった。
蓋は外され、中に日本人形が一体、座っている。
赤い着物に、おかっぱの髪。
蒼太が顔を寄せた。
「触らないでやってくださいね。古い物なので」
女将はそう言って、階段を下りていった。
夕飯は一階の座敷で、鮎の塩焼きと山菜の天ぷら。
座敷の奥には仏壇があり、蝋燭の火が小さく揺れていた。
給仕をしながら、女将が話した。
「今週は川の水が多くてね。滝がよく鳴るんですよ」
「昔はこの辺り、落城の日に赤飯を炊く家があったの」
蒼太が、お祝いなの、と聞いた。
女将は美和の顔をちらりと見て、笑った。
「お祝いじゃないんだけどね」
それから、湯呑みを置いて、少しだけ声を低くした。
「この辺の子はね、暗くなったら川の方へ行かないの。昔から」
「どうして」
「呼ばれるからって、年寄りが言うのよ」
蒼太は鮎の骨を外す手を止め、美和を見た。
美和は、迷信だよ、と言って、息子の皿に天ぷらを移した。
「お部屋の人形、見ました?」
「はい。きれいな子ですね」
「うちの母が、子どもの時分に持っていた物でね」
女将は茶を注ぎ足した。
「背中に、名前が書いてあるんですよ。ふみ、って。母の名前」
蒼太が、見てもいい、と聞いた。
「見るだけならね」
部屋に戻ると、蒼太は箱の前に正座して、人形の背中を覗き込んだ。
手は膝の上に置いたまま。
「ふみ、って読める」
美和も横から見た。
着物の襟の内側に、墨で小さく二文字。
古い字で、言われなければ読めない。
蒼太は昼間の録音を再生した。
六畳に、滝の音が満ちる。
「消して。寝られなくなる」
息子は一分四十秒を聞き終えてから、画面を閉じた。
風呂から上がると、蒼太はすぐに布団へ転がった。
歯を磨いたかと聞くと、磨いた、と枕に顔を埋めたまま答える。
スタンプ帳は、胸の上。
取り上げようとすると、寝たまま指に力を入れた。
美和は諦めて、そのままにした。
六時半に目覚ましを合わせる。
窓を少し開けると、川の音が入ってきた。
この辺りのバスは、本数が少ない。
帰りは明日の昼のバスと決めてある。
美和は息子の隣の布団に、横になった。
床の間の箱は、暗がりの中で黒い四角に見えた。
目が覚めたのは、線香の匂いのせいだった。
枕元の端末を見る。
三時五十分。
窓の外はまだ黒く、障子だけがうすく青い。
隣の布団で、蒼太が寝息を立てている。
口は閉じ、掛け布団が胸の上でゆっくり上下していた。
匂いは、廊下の側から来る。
女将さんが仏壇に手を合わせているんだ。
年寄りは朝が早い。
美和はそう考えて、目を閉じた。
蒼太は一度寝つくと、雷が鳴っても起きない子だ。
起こさずに済むなら、それでいい。
匂いが濃くなった。
線香というより、長く焚いた後の、煙の残り。
喉の奥がいがらっぽい。
目を閉じていても、匂いは消えない。
洗面所へ行く口実で、美和は起き上がった。
襖を開けると、廊下は冷えていた。
板が足の裏に貼り付く。
廊下の窓から、城山の黒い稜線が見える。
川の音は、寝る前より太い。
階段の上まで来ると、匂いはそこで途切れた。
階下は真っ暗で、座敷の奥の蝋燭の火も見えない。
美和は手すりに手をかけ、下を覗いた。
何も動かない。
洗面所の蛇口をひねると、水が指の骨まで冷やした。
鏡の中の顔が、昼より白い。
口をすすぎ、部屋に戻る。
古い宿だ。
それだけのこと。
蒼太は同じ姿勢で眠っていた。
美和は布団に入り、息子の背中に手を当てる。
温かい。
寝間着の布越しに、鼓動が指に伝わった。
二度目は、声だった。
部屋の中で、女の声がする。
低く、平らで、名前を読み上げるような調子。
一つ呼んでは、間を置く。
また一つ呼んで、間を置く。
美和は息を止めた。
声は、床の間の方から来る。
布団から箱までは、畳二枚分。
その暗がりで、点呼が続いていた。
言葉は、ほとんど聞き取れない。
一つだけ、耳が拾った。
ふみ。
聞き違いだ、と思う。
寝る前に聞いたばかりの名前を、耳が勝手に当てはめただけ。
美和は数えた。
一つ、二つ、三つ。
七つまで数えて、やめた。
数えていると、自分もその列に並ばされる気がした。
確かめようか、と思う。
起き上がって、箱を覗けばいい。
畳二枚分、四歩。
覗き込む自分の姿を思い浮かべて、美和は布団の端を握った。
足が、動く気配を見せない。
端末を見る。
四時七分。
隣の家のテレビが、壁越しに聞こえているのか。
集落の外れに、隣の家はない。
それでも、古い木の家なら、音は変な伝わり方をする。
美和は自分にそう言い聞かせた。
声は五分ほどで消えた。
窓の外で、川だけが変わらずに鳴っている。
気のせいにして、美和はまた目を閉じた。
息子の寝息だけが、耳元に残る。
鼓動は、なかなか落ち着かなかった。
端末が、畳の上で短く鳴って震えた。
美和は手探りで取った。
画面の光が、暗い天井に四角く映る。
留守番電話が一件。
時刻は四時十二分。
発信者は、非通知。
着信音は鳴っていない。
マナーモードにはしていなかった。
起きていたのだから、鳴れば聞こえたはずだ。
美和は画面を見つめたまま、しばらく動けずにいた。
再生の印に、指を置く。
端末を耳に押し当てた。
水の音だった。
高いところから落ちて、岩に当たって散る、途切れない水。
息子が昼間に録ったのと、同じ音。
その中に、さっきの女の声が混ざった。
今度は、はっきり聞こえた。
「蒼太くん」
間が空く。
「蒼太くん」
水の音の奥から、小さな声が返った。
「はい」
美和は隣を見た。
蒼太は眠っている。
寝息は乱れず、口は閉じたままだった。
録音は、そこで切れていた。
呼ぶ声は、女将の声に似ていない。
似ている声を、美和は一つも思いつけなかった。
畳の冷たさが、膝の裏から上がってきた。
指先が動かない。
端末を耳から離す指が、なかなか言うことを聞かなかった。
留守番電話の一覧を開く。
非通知。
四時十二分。
長さ、一分四十秒。
いたずらだ。
美和は、声に出さずにそう決めた。
口の中が乾いて、舌が上あごから離れない。
誰かが自分の番号と子供の名前を知って、かけてきた。
番号は、予約の電話で宿に伝えてある。
名前は宿帳にある。
宿帳は、帳場の机に置きっぱなしだった。
誰でも読める。
それなら理屈は通る。
もう一度、再生した。
水の音は同じだった。
呼ぶ声も、同じ。
「はい」の声だけが、さっきより近い。
録音の一覧を開いてみた。
昼間の滝の音は、そこにある。
日付と、一分四十秒の表示。
再生の印に指を伸ばして、やめた。
二つの音を並べて聞く度胸は、なかった。
美和は端末を伏せた。
息子を起こすべきか迷い、起こさなかった。
起こして、何と伝えればいいのか分からない。
始発のバスはまだない。
タクシーを呼ぶにも早すぎる。
集落の外れで、民家の灯りはどれも消えている。
この部屋から出る理由が、何一つ見つからなかった。
障子の青が白に変わっていくのを、美和は見ていた。
床の間の箱が、黒い四角から、ただの木箱に戻っていく。
川の音がいつの間にか細くなり、鳥が鳴き始める。
六時半の目覚ましが鳴るまで、一度も目を閉じなかった。
七時に、階段の下から女将の声がした。
「ご飯、できましたよ」
蒼太は目をこすりながら起きた。
「スタンプ帳、ある?」
「あるよ」
息子は何も覚えていない顔で、階段を下りていった。
美和は布団を畳み、枕を重ね、箱の方は見ずに部屋を出た。
帳場の前を通ると、宿帳は昨日のまま開いていた。
自分の字で書いた、蒼太、の二文字が目に入る。
美和は帳面を閉じたくなったが、手を出さずに通り過ぎた。
朝食は一階の座敷で、二人分だけ並んでいた。
味噌汁と、卵焼きと、漬物。
仏壇の前には、焚き終えた線香の灰が残っている。
美和は茶を注ぎながら、何気ない調子で聞いた。
「あの人形、お母様の物なんですよね」
女将はおひつの蓋を取る手を止めた。
「あれですか。前のお客さんが置いていった物でね。誰のだか分からないんですよ」
「昨日、背中に名前があるって」
「そんなこと言いましたっけ」
女将は笑って、蒼太の茶碗に飯をよそった。
笑い方に、とぼけている様子はない。
本当に覚えていない顔だった。
美和は、聞き違いだったことにした。
線香のことは、聞かなかった。
聞けば、答えが返ってくる。
返ってきた答えを受け止める自信が、なかった。
蒼太は味噌汁をすすっている。
美和は端末を膝の上に伏せたまま、箸を取った。
卵焼きを口に入れても、味がしない。
女将が、蒼太の前に漬物の小鉢を置いた。
その手を止めて、息子の顔を覗き込む。
「坊や、明け方は返事が早かったねえ」
美和の箸が止まった。
「呼ばれて、すぐ『はい』って。階段の下まで聞こえましたよ」
「誰が呼んだんです」
女将は、おひつの蓋を戻した。
「お母さんでしょう」
美和は、呼んでいない。
蒼太は味噌汁に息を吹きかけている。
「次、鉢形城だよね」
うん、と答えた声が、自分のものに聞こえなかった。
窓の外、城山の方角からは、何の音もしない。
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