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滝頭の無縁塚のそばの店で、壁際の丸椅子が沈む夜

十月の終わりの、日曜の夜。
横浜市磯子区滝頭。
上江のバス停から坂を少し上がった角に、賢吾と紗季の店がある。
カウンター七席だけの中華そば屋だ。
夜は十一時に開けて、深夜二時まで。
根岸駅から歩けば二十分近いし、終バスはとうに出ている。
客はほとんどが近所の人か、流しのタクシーの運転手だった。

賢吾は三十八で、紗季は二つ下。
店を出す前の年に、籍を入れた。
店を始めて四年になる。
住まいは坂の上、岡村寄りの古いアパートだ。
店まで歩いて七分。
密蔵院の塀に沿って下りて、路地を一本抜ける。
その路地の奥に、無縁塚がある。

住宅の塀と塀のあいだに、石が何本か立っている。
昼に見れば、ただの古い石だ。
夜は街灯が一本だけ当たる。
賢吾は毎晩、その前を通って店に出た。
手は合わせない。
目だけ向けて通る。
そのくらいの付き合いだ。

塚の前には、紙コップが一つ置いてあった。
水が入っている。
誰が置くのかは知らない。
来る日も来る日も、新しい水になっていた。
紗季だろうと思っていた。
聞いたことはない。
聞くほどのことでもない。

その夜も、出がけに前を通った。
夕方の雨が上がったばかりで、路地の石が黒く濡れていた。
紙コップは縁まで水が入っていて、街灯を一つ、小さく映していた。
賢吾は目だけ向けて、坂を下りた。

店の隣は、空き店舗だ。
前はクリーニング屋だったらしい。
賢吾たちが入った時には、もうシャッターが下りていた。
その壁と、店のカウンターの端が接している。
壁際の一席は、紗季の指定席だった。
通りからは死角になるから落ち着く、と彼女は言う。
閉店後の賄いは、いつもそこで食べる。
左の肩を壁につけて、丼を抱えるようにして食べるのが癖だ。
壁の向こうは、空っぽの店だった。

その夜は、客が少なかった。
十二時過ぎに来たタクシーの運転手で、ようやく三人目。
大原隧道の話をしていった。
あのトンネルで方位磁石が回る、という例の話だ。
「ゼロ磁場ってやつでしょう。南区の方の」
賢吾は、へえ、とだけ返した。
四年この町にいて、磁石が回ったことはない。
運転手は満足して帰った。
戸の外で、一度だけライターの音がした。

零時半を過ぎて、堀さんが来た。
八十近い。
塚の並びに、生まれた時から住んでいる。
ワンタン麺を食べて、お茶を二杯飲む。
いつもの流れだ。

「賢ちゃん、戸はちゃんと閉めとけよ」
堀さんが湯呑みを置いた。
「十月はな、叩かれる」
賢吾は笑った。
「毎年言いますね、それ」
「毎年叩くからな」
堀さんは窓の外に目をやった。
「今年は雨が少なかった。あっちも、喉が渇く」
夕方に降ったばかりだ、と賢吾は思ったが、口には出さなかった。

堀さんは子どもの頃の話をした。
このあたりは塚だらけだったという。
経塚、月見塚、名前の付いた塚がいくつもあった。
家を建てる時に崩した。
拝みもしないで崩した。
石はどこへ持っていったのか、今では誰も知らない。
残ったのが、路地のあれ一つだ。

「この店の下にも、あったぞ」
堀さんはカウンターを指で叩いた。
「小さいのが。おれが小学生の時に、均した」
「またそれですか」
「嘘だと思うなら、床をはがしてみな」
賢吾は、はいはい、と受け流した。
堀さんはワンタンを一つだけ残して、丼の縁に寄せた。
いつもは汁まで飲み干す人だ。
賢吾は、歯でも痛いのかと思った。
堀さんは機嫌よく帰っていった。
戸が閉まる。
外の冷えが、足元に残った。

客が切れたので、早めに閉めることにした。
一時十分。
賢吾は暖簾を下ろし、鍵をエプロンのポケットに入れた。
暖簾を外す時、向かいの駐車場が見えた。
紗季は厨房の奥で、寸胴を洗っている。
水の音と、煮干しの匂い。
いつもの閉店だ。

レジを締めていると、肩に手が乗った。
右の肩だ。
軽く、置くだけ。
紗季が後ろに来たと思った。
「なに」
振り向く。
人影はない。
紗季は奥で、まだ寸胴を洗っていた。
背中が見える。
こちらを向く気配はない。

賢吾は肩を回した。
エプロンの紐が引っかかったのだろう。
肩こりもある。
一日中、鍋を振っているのだから当然だ。
そう思って、レジに戻った。
指が少し、数字を打ち間違えた。

一時二十分ごろ、戸が叩かれた。
三つ。
拳で軽く叩く音で、戸の磨りガラスが、音に合わせて震えた。
暖簾はもう下ろしてある。
それでも、閉店に気づかずに来る客はいる。
賢吾は「すみません、終わりました」と言いながら、戸口へ向かった。
返事はない。
磨りガラスの向こうに、人の影もない。

戸を開けて、外を見た。
路地には誰もいない。
街灯。
電線。
冷えた空気が、戸口から足元へ入ってきた。
店の隣、空き店舗のシャッターは下りたままだ。
貼り紙が一枚、風で鳴った。
塚のある路地は、ここからは見えない。
角を一つ曲がった先で、店とのあいだには家が三軒ある。
叩いてすぐ、角まで走れる距離ではなかった。

「子どもの悪戯か」
声に出して言った。
賢吾は中へ戻ろうとした。
引き戸に手をかける。
重い。
外から押さえられているみたいに、戸が戻ってこない。
一度、力を抜く。
もう一度引く。
今度はすんなり閉まった。

「建付けだな」
十月の湿気で、木が膨らんだ。
去年もそうだった。
賢吾は鍵を回した。
磨りガラスに手のひらを当ててみる。
外の冷えが、そのまま伝わってきた。

紗季が奥から出てきた。
「どうしたの」
「戸を叩かれた。誰もいなかった」
「ああ、堀さんが言ってた、あれ?」
「あれは毎年言ってる」
紗季は賄いの丼を二つ持っていた。
残った麺と、残ったスープ。
煮干しの匂いが、店の中に広がった。

紗季は壁際の席に座った。
賢吾はカウンターの内側に立ったまま食べる。
立って食べる方が、賢吾には楽だった。
「堀さん、今日も塚の話した?」
「した。この店の下にもあったって」
「あれ。私には、向かいの駐車場の下だって言ってたよ」
「酔ってたんだろ」
「お茶しか飲んでないのに」
紗季は笑って、麺をすすった。

「そういえば、塚の前の水、おまえだろ」
賢吾は、ついでに聞いた。
四年間、聞かなかったことだ。
紗季は丼から顔を上げた。
「私じゃないよ。堀さんじゃないの」
「堀さんは、朝は寝てる」
「じゃあ知らない」
紗季は、それきり興味をなくして、スープを飲んだ。
賢吾は、誰だろう、と思った。
思って、すぐに忘れた。

少しして、紗季が箸を止めた。
「ねえ、椅子」
「なに」
「隣の、沈んでない?」

壁際の席の隣。
丸椅子の座面が、ひとつ分だけ低い。
誰も座っていない。
賢吾はカウンター越しに、のぞき込んだ。
確かに下がっている。
古い回転椅子だ。
「ガスが抜けたんだろ」
「さっきまで普通だったよ」
「抜ける時は一気に抜ける」

賢吾は手を伸ばして、座面を押した。
硬い。
沈まない。
もう、下がり切っているらしい。
紗季は、ふうん、と言って麺をすすった。
賢吾も食べた。
スープが、もう冷えていた。

食べ終わって、紗季が裏口へ立った。
ゴミを出すためだ。
「丼、置いといて」
「いいよ、下げる」
紗季は半分残したまま、裏へ出た。
裏口の戸が閉まる音。
店の中に、賢吾一人。
換気扇が回っている。
レジはまだ開けたままで、札が数え終わっていない。

一時五十分。
賢吾はカウンターを回って、客側へ出た。
壁際の席の前に立つ。
紗季の丼を取ろうと、縁に手をかけた。

手の甲に、重さが乗った。

手のひら一つ分の、冷たい重さだ。
濡れている。
賢吾の手を、丼の縁に押し付けている。
動かせない。
引こうとした。
引けない。
重さが増した。

賢吾は、目の前の丸椅子を見た。
沈んだ座面。
誰も座っていない。
冷めているはずの丼から、湯気が立っている。
真横に倒れて、椅子の方へ流れている。
賢吾の方へは来ない。
丼の中のスープは、揺れていなかった。
賢吾の腕は、震えているのに。

息を吸う音が聞こえた、と思った。
自分の息だった。
喉が狭い。
指先が白くなっている。
膝の裏が震えて、立っているのがやっとだ。
耳の奥で、脈だけが大きい。
叫ぼうとは思わなかった。
裏には紗季がいる。
戻ってきたら、この席の前を通る。
それだけは避けたい、と頭の隅で考えていた。

重さは、まだ押している。
賢吾の手を、丼から離そうとしているのか。
丼ごと、引き寄せようとしているのか。
分からない。
分かったのは、これが欲しがっている、それだけだ。

賢吾は手を開いた。
丼から、指を離した。
重さが、すっと退いた。
手の甲が冷たい。
見ると、濡れている。
水ではない。
少しぬるつく。
煮干しの匂いがした。

裏口の戸が開いた。
紗季が戻ってくる。
「寒い。もう冬だね」
賢吾は手をエプロンで拭いた。
「どうしたの、顔」
「なんでもない」
「丼、下げてくれたんじゃないの」
丼は、壁際の席に置いたままだ。
賢吾はそれに触らなかった。
紗季が下げた。
洗い場で、丼が鳴った。
店の中は、さっきより煮干しの匂いが濃い。
火は、もう落としてあるのに。

カウンターを拭くと、布巾が一か所だけ重くなった。
丼の置いてあった、すぐ横。
丸く、濡れている。
賢吾はそこを二度拭いて、布巾を流しに放った。

二人で店を閉めた。
鍵を回す手が、まだ冷たい。
坂を上がる。
密蔵院の塀が、右手に続く。
路地の奥に、無縁塚の石が見えた。
街灯が一本。
紙コップが、倒れていた。
転がって、口を塚の方に向けている。
中は空だ。
賢吾は、猫だな、と思った。
思っただけで、足を止めなかった。
紗季は気づかずに、先を歩いている。
明日の美容院の話をしていて、賢吾は相槌だけ打った。
手のことを言おうかと、二度口を開いた。
二度とも、別の言葉が出た。

アパートに着いて、紗季が先に風呂へ入った。
賢吾は台所で手を洗った。
三回洗った。
匂いは落ちた。
右手の甲に、赤い跡がある。
指の形ではない。
丸い。
湯呑みの底ほどの、丸い跡だ。
布団に入ってからも、右手だけは胸の上に置いていた。
外に出しておく気になれなかった。
隣で紗季が寝息を立てている。
賢吾が眠ったのは、空が白んでからだ。
目が覚めた時には、跡は消えていた。

次の日の昼、紗季は美容院に出かけた。
賢吾は一人で店に行った。
昼の光の中で見る店は、ただの狭い店だ。
壁際の席の隣の丸椅子は、元の高さに戻っていた。
賢吾は座面を押してみた。
沈んで、戻る。
賢吾は椅子から手を離した。

仕込みの前に、防犯カメラの映像を出した。
去年、紗季が言い出して付けたものだ。
戸口の上の高い位置から、壁際の席まで見下ろす形でカウンター全体が映る。
音は入らない。
賢吾は昨夜の分を、開店から順に流した。
十一時の開店から、客が三人と堀さん。
画面の右下で、時刻だけが進んでいく。

零時五十八分。
堀さんが席を立ち、戸口まで歩く。
戸を開ける前に、一度振り返っている。
壁際の席の方を見て、小さく頭を下げた。
賢吾は、その時レジを見ていた。
覚えていない。

一時十三分。
レジの前の賢吾。
肩に手を置かれて、振り向く。
映像の中の賢吾の後ろには、何も映っていない。
紗季は画面の端、厨房の奥。
背中だけが映っている。
賢吾は早送りした。

一時二十一分。
レジの前の賢吾が、顔を上げる。
戸の方を見て、口を動かしながら戸口へ歩く。
画面の端で、磨りガラスが細かく震えていた。
三度。
叩いている手は、映っていない。

一時二十二分。
戸を開けて出ていく賢吾。
戻ってきて、戸を引く。
戸は、確かに戻ってこない。
賢吾の腕が、二度引いている。
画面に映るのは、賢吾の背中と、引いている腕だけだ。

一時四十一分。
紗季が壁際の席で丼を持つ。
左の肩が、壁から離れている。
いつもは壁につけて食べるのに、この夜だけ、拳一つ分の隙間があった。
本人は気づいていないらしい。
隣の丸椅子。
座面が、沈む。
紗季が箸を止めるより前に、一度で、すとんと落ちている。
賢吾は巻き戻して、三度見た。
三度とも、同じだった。

一時五十分。
賢吾が客側に出て、丼に手をかける。
手が止まる。
丼の湯気が、真横に倒れる。
椅子の方へ。
賢吾の手首が、少し下がる。
押さえられている手の形で、下がる。
その上には、何もない。

賢吾が手を開く。
背を向けて、カウンターの内側に戻る。
エプロンで手を拭く。
その間も、カメラは壁際の席を映している。

丼の中の汁の面が、一度だけ、内側から押されたように盛り上がった。

賢吾はそこで止めた。
映像は消していない。
日付だけ付けて、保存した。
紗季には、まだ見せていない。

舞台になった場所

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