俺は今年で七十二になる。
勤めを辞めたあと、警備の仕事を始めた。
週に三日、スーパーの駐車場で旗を振る程度の仕事だ。
旗を振るだけなら、膝が悪くてもできる。
体を動かしていないと、家で女房の仏壇ばかり見てしまう。
それが嫌で始めた。
年の暮れだけは、話が別だ。
寒川神社の初詣の誘導に、うちの会社が毎年入る。
神奈川県高座郡寒川町、宮山というところにある神社だ。
相模線の宮山駅から歩いて行ける。
八方除で名が通っていて、大晦日の夜から人が途切れない。
県道も参道も、夜通し人と車でいっぱいになる。
俺の持ち場は、神社の北側に設けられる臨時駐車場だった。
田んぼを借りて砂利を敷いた、だだっ広い場所だ。
俺と、班長の佐伯と、若い葛西と、もう一人の四人で回す。
佐伯は五十過ぎで、この仕事が長い。
葛西は二十代で、去年の暮れに入ったばかりだ。
もう一人は県道側の係で、俺とはあまり口をきかない。
集合は大晦日の午後八時。
詰所は駐車場の端に置かれたプレハブで、窓が一つだけある。
窓は神社の方を向いていた。
その先に木立があって、木の上の空がほんのり赤い。
神門のねぶたの明かりが、空に映っているらしい。
プレハブの中には、古い整理タンスが一つある。
田んぼの持ち主が置いていったものらしい。
うちの会社は、その引き出しを物入れに使っている。
反射材のベストと予備の誘導灯が、上の段に入っている。
タンスは扉の横の壁に寄せてあって、壁との間に隙間がある。
指が二本入るくらいの隙間だ。
去年、掃除のついでに覗いた。
何も入っていなかった。
俺は引き出しを開けて、ベストを四枚出した。
一枚、下にまだ残っている。
予備だろう。
俺は引き出しを閉めた。
九時前は、まだ車がまばらだった。
俺と葛西はプレハブで湯を沸かしていた。
石油ストーブの上で、やかんが鳴っている。
葛西が携帯を出した。
「おじいさん、これ見ました」
俺のことを葛西はおじいさんと呼ぶ。
名前を覚える気がないらしい。
腹は立たない。
孫と同じ歳だ。
画面には動画があった。
題名に、寒川神社の禁足地、とある。
昼間の映像だ。
木立の中に、池がある。
水は澄んでいて、底の石まで見えていた。
手すりの向こうに、庭の石が組んである。
撮った人間の足音と、水の音が入っている。
「神嶽山の神苑だな」
俺は言った。
「禁足地って書いてありますよ」
「昔はな。今はご祈祷を受けた人なら入れる」
「へえ」
「十年くらい前に、俺も入った」
女房の体の具合が悪くなった年だ。
八方除のご祈祷を受けて、その帰りに神苑の門をくぐった。
本殿の裏に、難波の小池という泉がある。
神社の始まりに関わる泉だと、ご祈祷のときに聞いた。
池のまわりを一周できる庭になっていて、女房はゆっくり歩いた。
和楽亭という茶屋で抹茶をもらい、方徳資料館を見て帰った。
茶屋の縁側から、石舞台が見えた。
庵治石を敷いた舞台だと、札に書いてあった。
手水舎の水が、やけに冷たかったのを覚えている。
女房は池のそばで立ち止まって、長いこと水を見ていた。
俺が声をかけるまで、動かなかった。
何を見ていたのかは、聞かなかった。
それきり入っていない。
女房はその翌年に死んだ。
動画の池は、俺が見た池と同じ形をしていた。
「池のとこ、見てください」
葛西が画面を指で広げた。
池の水面に、木が映っている。
木の間に、縦に細いものがある。
人の形に見えなくもない。
岸の方を見ると、そこには誰も立っていない。
手すりの前にも、庭の石の上にも、いない。
「映り込みだろう」
「コメント欄、見てください」
コメントが何百も付いていた。
池に人がいる、いない、で言い合っている。
加工だ、という書き込みが一番多い。
その中に、一つだけ毛色の違う書き込みがあった。
この人、去年の大晦日の駐車場にもいた。
写真が貼ってある。
夜の砂利の駐車場だ。
反射材のベストを着た男たちが、横に並んでいる。
顔は暗くてよく分からない。
ただ、一番右の背の低い男は、俺だった。
腰の曲げ方で分かる。
俺は腰を曲げて立つ癖がある。
「おじいさんですよね、これ」
「俺だな」
「五人いますよ」
葛西が指で数えた。
俺も数えた。
五人いる。
一番左の端に、少し離れて一人立っている。
ベストの反射が、その一人だけ弱かった。
背の高さは、俺より頭一つ上に見える。
後ろに、プレハブの窓が写っている。
窓の明かりは点いていた。
中に誰かいて、ガラスに映ったのが外に立って見えた。
俺はそう考えようとした。
考えようとして、やめた。
四人とも外に写っている。
中には誰もいない。
左端の一人は、窓から離れた砂利の上に立っていた。
佐伯がプレハブに戻ってきたので聞いてみた。
「去年、ここ何人だった」
「四人だ。ずっと四人」
佐伯はそれだけ言って、無線を取って外に出た。
葛西は画面を見たまま言う。
「でも写真じゃ五人です」
「誰かが写り込んだんだろう。参拝の人だ」
「ベスト着てますよ」
「暗いから、そう見えるだけだ」
俺はそう言って、湯呑みを手に取った。
手の甲が冷えている。
ストーブの前にいるのに、手の甲だけが冷えていた。
コメントの投稿時刻が、写真の下に出ている。
一月一日、午前三時十二分。
去年のだ。
写真を撮ったのが誰かは、書いていない。
俺たちは、去年、誰にも写真を撮られた覚えがない。
撮られたとしても、気づかないものだ。
初詣の客は、何でも撮る。
ねぶたも、屋台も、警備の爺さんも撮る。
そう考えれば、済む話だ。
十時を過ぎて、車が増えた。
俺は誘導灯を持って、砂利の上に立つ。
県道から入ってくる車を、奥へ奥へと詰めていく。
息が白い。
砂利が靴の下で鳴る。
参道の方から、焼きそばの匂いが流れてくる。
木の向こうの空は、さっきより赤い。
葛西はヘッドライトを額に付けていた。
車止めのロープを張り直すのに使う。
その光が、俺の足元を横切った。
砂利の上に、影が二本、伸びる。
一本は俺のものだ。
もう一本は、俺の左に並んでいた。
俺より頭一つ高い。
誰もいない。
左を見ると、砂利と白い息だけだ。
「葛西、ライト」
「はい」
葛西は三十メートル先でロープを引いている。
光がこちらを向いていた。
もう一度、足元を見る。
影は一本になっていた。
街灯が一本、駐車場の角にある。
ヘッドライトと街灯と、両方の光が当たれば影は二本できる。
俺はそう考えて、次の車を手招きした。
それでいい。
考えることは、仕事のことだけでいい。
十一時半。
参拝の客が増えて、神社の方へぞろぞろ歩いていく。
家族連れが多い。
子供が砂利を蹴って、母親に叱られている。
若い連中は、歩きながら携帯を構えている。
ねぶたを撮りに行くのだろう。
俺は入口の近くで旗を振る。
年が変わる前に、駐車場はほぼ埋まった。
葛西が入口まで戻ってきて、俺の横に立った。
「おじいさん、さっきの動画」
「まだ見てるのか」
「池のやつ、撮った日が書いてありました」
「いつだ」
「去年の十二月十三日です」
神苑は十二月の十三日で閉まる。
最後の日に撮った映像ということになる。
「それがどうした」
「いや。閉まる日に、って思って」
葛西はそれだけ言って、ロープの方へ戻った。
俺は旗を振った。
閉まる日に撮ろうが、何も変わらない。
午前零時、木の向こうから歓声が上がった。
鈴の音が、途切れずに続いている。
俺は旗を振り続けた。
指がかじかんで、棒になる。
二時半を回って、車の出入りが落ち着いた。
佐伯が無線で言う。
「交代で休め。俺は入口に立つ」
もう一人は県道側に残った。
俺と葛西がプレハブに入った。
プレハブの中は、弁当の空き箱と無線の充電器で散らかっている。
窓にはカーテンがない。
ストーブの前に座る。
俺は窓とタンスを背にした。
いつもそうしている。
ストーブに一番近いからだ。
窓の向こうは暗い砂利と、その先の木立だ。
木立の先が、神社の杜に続いている。
神嶽山は、その杜のこっち側だ。
本殿の真裏に当たる。
夜は門が閉まっている。
昼の三時半で受付は終わる。
今の時間に、あそこに人がいるわけがない。
俺はそう思って、湯呑みに茶を注いだ。
葛西は俺の向かいに座って、携帯を開いた。
「おじいさん、コメント増えてますよ」
「もういい」
「同じ人が、また書いてます」
葛西が読み上げる。
今年もいる。駐車場の、プレハブの中。
俺は湯呑みを置いた。
見なければいい話だ。
分かっていて、画面を覗いた。
俺のことが書いてある。
自分のことを書かれたものを、見ないでいるのは難しい。
「誰がそんなことを」
「分かんないです。名前、数字だけです」
「今、書かれたのか」
「三分前です」
俺は窓を見なかった。
背中に窓がある。
その向こうは駐車場だ。
客なら、いくらでも歩いている。
窓から中を覗いて、面白半分に書いた。
去年の写真も、同じ人間が撮ったのかもしれない。
毎年来る客なら、俺の顔を覚えていてもおかしくない。
そういうことだ。
葛西が顔を上げた。
俺の顔を見ている。
いや、俺の顔より少し上を見ていた。
目の焦点が、俺の後ろにある。
「さっきから、タンスの後ろ、います」
声が低い。
「何がだ」
「タンスと壁の隙間です。細いの、立ってます」
「ベストの予備だ。引っかけてあるんだろう」
「ベストは引き出しの中です。おじいさんが、八時に出したでしょ」
俺は引き出しを見なかった。
確かに、俺が出した。
四枚出して、一枚残した。
残した一枚は、引き出しの中だ。
「葛西。顔は見えるか」
「見えません。背中です」
「背中」
「隙間から、背中だけ。こっち向いてません」
「指二本の隙間だぞ」
「入ってます」
俺は振り向かなかった。
振り向けなかった、というのが正しい。
首が回らない。
背中のベストに、冷たいものが染みてくる。
帰るわけにはいかなかった。
交代は六時だ。
車はまだ来る。
二人とも外だ。
ここを空けるわけにはいかない。
それに、扉はタンスの隣だ。
出るには、隙間の前を通る。
ストーブは燃えている。
赤い火が、葛西の顔の半分を照らしている。
やかんが、また鳴り始めた。
「池の人と、同じですよ」
葛西が言った。
「何が同じだ」
「細いんです。縦に。あの水に映ってたやつと」
「動画の話はするな」
「おじいさん、去年の写真、思い出してください」
「何だ」
「左の端の人、背中向けてました。反射の形で分かります」
俺は思い出した。
一番左に、少し離れて立っていた男。
反射が弱かった。
反射材は、ベストの前にも後ろにも付いている。
後ろ側の方が、面積が小さい。
後ろを向いていれば、反射は弱くなる。
理屈は通る。
通るからこそ、背中が冷えた。
「葛西。お前、去年の写真、誰が撮ったか知ってるか」
「知りません」
「俺たちの後ろから撮ってない。正面からだ」
「はい」
「正面から撮られて、一人だけ背中を向けてるんだ」
葛西は答えなかった。
携帯を伏せて、膝の上に置いた。
俺は湯呑みに茶を注ぎ足した。
やかんは鳴っている。
一口飲んだ。
冷めていた。
壁の時計を見た。
三時十二分。
時計は、年末に電池を替えたばかりだ。
無線が鳴った。
県道側の、もう一人の声だ。
「県道から一台入る。奥、誰か出ろ」
俺は立ち上がった。
「俺が行く」
「おじいさん」
葛西が小さい声で言う。
「出るとき、そっち見ないで出てください」
「どっちだ」
「タンスの方です。まだ、います」
「お前はどうする」
「俺、ここにいます。見てます。動いたら、言います」
俺は誘導灯を取った。
点けると、赤い光がプレハブの壁を撫でた。
タンスにも光が当たったはずだ。
隙間にも。
俺は見なかった。
葛西は俺の顔を見ていた。
焦点は、まだ俺の後ろにあった。
扉まで三歩。
タンスの前を通った。
隙間から、空気が流れてくる。
冷たい。
埃の匂いがした。
扉を開けると、外の空気が入ってきた。
砂利の匂いと、杜の湿った匂い。
参道の方の焼きそばの匂いは、もう消えている。
人の声も、少ない。
三時を過ぎると、客の波が一度ゆるむ。
駐車場の角の街灯が、砂利を照らしている。
砂利を照らす光は、その一本だけだ。
砂利の上に、影が伸びた。
俺の影だ。
腰が曲がっている。
その影の左に、もう一本。
俺より頭一つ高い。
俺は数えなかった。
県道の方から、車のライトが近づいてくる。
俺は誘導灯を上げて、左右に振った。
足元だけを照らして、砂利を踏んだ。
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