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西新井トンネルから、五分で帰る

小学四年の夏休みの話だ。

母の仕事が忙しくて、俺は足立区栗原にあるばあちゃんの家に預けられた。
東武線の西新井駅から歩いて十分くらい。
駅とばあちゃんの家のあいだには、東武の線路が走っている。
大師線とスカイツリーラインが分かれるところで、線路が二股になる。

その下をくぐる地下道がある。
区の案内には栗原地下道と書いてあるらしい。
近所の人は、西新井トンネルと呼ぶ。
車道と歩道が分かれていて、途中に地上へ上がる階段が三つ。
真ん中のあたりで天井が切れ、空が細く見える。
雨の日は冠水に注意の表示が出る。

預けられた最初の日、ばあちゃんと一緒に通った。
昼間なのに、中は湿っていて涼しい。
壁はコンクリートで、ところどころ黒く汚れている。
排水のにおいが、鼻の奥に残った。
曲がり角にカーブミラーがあって、自分たちの姿が小さく映る。
上を電車が通ると、ぐわん、と音が壁に跳ね返った。
電車が行くと、ふっと音が消える。
その一瞬だけ、自分の足音が大きく聞こえた。

「ここは昔、踏切だったのよ」
ばあちゃんが歩きながら言った。
かんかん踏切。
今でも、年寄りはそう呼ぶらしい。
音は消えたのに、名前だけが残っている。
俺は、壁の黒い汚れを数えながら歩いた。
出口までに、六つあった。

いとこの千春姉ちゃんも来ていた。
中学二年で、俺より四つ上。
スマホを持っていて、俺はまだ持っていなかった。

ばあちゃんは毎日、夕方になると駅前へ買い物に行く。
大師の門前の店に寄って、草だんごを買ってくる。
帰りは必ず西新井トンネルを通る。
西新井大師の名物で、箱に三つ。
俺と千春姉ちゃんとばあちゃんの分だ。

その夏、千春姉ちゃんがばあちゃんにテレビ電話を教えた。
前の年、ばあちゃんが帰り道で転んで、家の誰も気づかなかったからだ。
「地下道に入ったら、かけて。顔を見せて、五分で帰るって言って」
ばあちゃんは面倒がりながら、素直に覚えた。

俺の役目は、電話に出ることだった。
千春姉ちゃんは夕方、台所か風呂にいる。
スマホは居間の座卓に置きっぱなし。
鳴ったら、俺が出る。
鍵の音がしないなら開けるな、とも言われた。
玄関は居間のすぐ横で、座卓からドアノブが見える。
古い家で、玄関の引き戸を直したときに、ノブのついたドアに替えたらしい。

月曜。
五時三十五分に鳴った。
画面に、ばあちゃんの顔が出た。
白い蛍光灯の光で、顔が青っぽい。
後ろはコンクリートの壁だ。

壁に、黒っぽいシミがあった。
ばあちゃんの右の肩のあたりから上に、人の頭くらいの大きさ。
水が染みた跡だろう。
昼間に通ったときも、似た汚れはいくつもあった。

「今、地下道。五分で帰る」
声の後ろで、車が一台通る音がした。
そのあと、電車が上を通った。
画面の中の音が割れて、しばらく鳴りやまない。
電車が行くと、ばあちゃんの息の音だけになった。

「はいよ」
俺が言うと、画面が切れた。
切れる直前、画面の隅にカーブミラーが映った。
小さくて、何が映っているかまでは見えない。
千春姉ちゃんが台所から「帰ってくるって?」と聞いた。
「五分だって」
「じゃあ、お茶入れとく」
俺はトランプを並べ直した。

五時四十一分にばあちゃんが帰ってきた。
玄関のドアノブが回り、鍵の音がして、開く。
いつもの順番だ。
買い物袋から草だんごの箱が出た。
よもぎの匂いが、居間に広がる。

箱を開けたら、四つ入っていた。
「三つ買ったよ」とばあちゃんが言う。
千春姉ちゃんが箱を覗く。
「四つあるじゃん。おまけでしょ」
「そうかねえ」
ばあちゃんは首をかしげて、台所へ行った。

余った一つは俺が食べた。
甘くて、少し草の味がする。
それだけの話だった。

火曜の昼。
千春姉ちゃんが、本を持ち出してきた。
文庫サイズで、表紙が黒い。
東京のこわい場所を集めた本だった。
塾の友達から借りたらしい。

「西新井、載ってるよ」
扇風機の前で、千春姉ちゃんが読み上げた。
蚊取り線香の煙が、ページの上を流れていく。

西新井駅の近くの地下道には、昔から話がある。
夕方、入った人が出口から出てこない。
カーブミラーに、通っていない人が映る。
階段の下に年寄りの女の人が座っていて、声をかけると荷物を持ってくれと言う。

「ばあちゃん、毎日通ってるけど」
俺が言うと、千春姉ちゃんは笑った。
「だから何も起きないんだよ。本に書いてある場所なんて、全部そう」
本は座卓の端に置かれた。
俺はそのページを、もう一度ひとりで読んだ。
荷物を持ってくれと言う、のところで、本を閉じた。

夕方になって、空が黄色っぽくなった。
夕立が来そうな色だ。
玄関の傘立てには、傘が三本。
俺の青いの、千春姉ちゃんの白いの、ばあちゃんの花柄。
ばあちゃんは傘を持たずに出かけていた。

五時四十分に鳴った。
画面のばあちゃんは、昨日より暗いところにいた。
後ろの壁に、例のシミ。
昨日はばあちゃんの右側にあった。
今日は左側にある。

反対側を歩いているんだろう。
どっちを歩いても、ばあちゃんの勝手だ。

画面の端に、階段の下が映っている。
黒い傘が一本、壁に立てかけてあった。
「誰か忘れてったね」
ばあちゃんがそう言って、傘を見た。
「今、地下道。五分で帰る」
画面が切れた。

俺は座卓のそばで、本の表紙を見ていた。
千春姉ちゃんは風呂場で、シャワーの音がしている。
時計は五時四十一分。

玄関のドアノブが、回った。

鍵の音がしない。
ノブだけが、ゆっくり右に回る。
ばあちゃんは鍵を持っている。
鍵を使わずに回すことはない。
五分で帰ると言ってから、まだ一分しか経っていない。

千春姉ちゃんの決まりが頭に浮かんだ。
鍵の音がしないなら、開けるな。
俺は玄関まで行って、内側からノブを握った。
金属が冷たい。
手のひらの下で、ノブがまだ回ろうとする。

握ったまま、動かさなかった。
背中に汗が流れる。
外で、ビニールのこすれる音がした。
買い物袋の音に似ている。
それきり、ノブは止まった。

五時四十六分。
今度は鍵の音がした。
ノブが回って、ばあちゃんが入ってきた。
買い物袋がひとつ。
傘は持っていない。

「降られなかったよ」
ばあちゃんは靴を脱ぎながら言った。

傘立てを見た。
四本になっていた。
黒い傘が一本、増えている。
細くて長い、男の人の傘だ。

「ばあちゃん、傘拾ってきた?」
「拾ってないよ」
風呂から出てきた千春姉ちゃんが、髪を拭きながら傘立てを見た。
「ばあちゃん、拾い癖あるから。前も鍋つかみ拾ってきたし」
「拾ってないって」
ばあちゃんは少し怒った声で、台所へ行った。

さっきノブが回った、と俺は千春姉ちゃんに小声で言う。
千春姉ちゃんは玄関のドアを見てから、同じ小声で返した。
「宅配じゃない? 不在票なかった?」
不在票は、なかった。
ばあちゃんが帰るまで、外は車の音すらしなかった。
でも俺は、そうだね、と答えた。
そう答えれば、それで済む。

草だんごは、三つだった。
一つずつ食べた。
よもぎの匂いが、昨日より薄い気がした。

夜、母が迎えに来るはずだった。
残業で、泊まりになった。
千春姉ちゃんのスマホに、母から電話が来た。
画面の母は、会社の机にいる。
「ちゃんとしてる?」
「してる」
「ばあちゃんに迷惑かけてない?」
「かけてない」

傘のことを言おうとして、やめた。
言えば、母は笑う。
拾ったんでしょ、で終わる。
俺は画面を玄関に向けなかった。
母の後ろで、誰かがコピー機を動かす音がしていた。

俺は居間に布団を敷いて、傘立ての方を向いて寝た。
夜中に一度目が覚めて、数えてみる。
四本。
もう一度数えて、四本。
朝になっても、黒い傘はそこにあった。

水曜。
朝、ばあちゃんが黒い傘を持って居間に来た。
「地下道に戻しとく。あそこに置いとけば、持ち主が気づく」
傘は買い物袋に入れられた。
柄だけが袋から出ていた。
袋は、夕方の買い物まで玄関の隅に置かれた。
俺はそれを見ている。
見ていたはずだ。

昼間は何もなかった。
千春姉ちゃんは塾の宿題をして、俺は扇風機の前で寝転んでいた。
本は座卓の端にある。
開く気にはならなかった。

夕方、ばあちゃんは玄関の袋を提げて出かけた。
柄が袋から出たまま、ドアの向こうに消えた。
千春姉ちゃんは風呂。
俺はまた座卓の前にいた。
窓の外は、昨日と同じ黄色い空だ。
夕立は、昨日も来なかった。

座ったまま、玄関の傘立てを見る。
青、白、花柄。
三本。
黒いのは、朝ばあちゃんが袋に入れた。
袋から柄が出ていた。
それで安心して、座卓に戻った。
扇風機の首が、こっちを向いて、また向こうを向く。

五時三十八分に鳴った。

画面が、暗い。
蛍光灯の光が届かない場所だった。
ばあちゃんの顔が半分だけ見える。
後ろで、水が落ちる音がしている。
ぽつ、ぽつ、と間を空けて。
「今、階段の下で休んでる。足が重くて」
声が低い。
電話の向こうの空気が、こっちまで湿ってくる気がした。

階段の下。
本の文が頭に浮かんで、俺は本を見た。
閉じたままの黒い表紙。
千春姉ちゃんは笑っていた。
俺も笑えばいい。

「大丈夫?」
「大丈夫。傘、戻したよ」
ばあちゃんがスマホを横に向けた。

階段の下の壁が映った。
黒い傘が、立てかけてある。
一本、二本、三本。
全部、細くて長い黒い傘だった。

「三本ある」
「一本しか持ってきてないよ」
ばあちゃんの声は、画面の外から聞こえた。
壁のシミが、傘のすぐ上にあった。
昨日より大きい。
肩のかたちが、はっきりしている。

画面の中で、電車が通った。
音が割れて、壁が鳴る。
音が消えたあと、ばあちゃんの息の音だけが残った。
息が、二人分に聞こえた。
電話の音はよく割れる。

「五分で帰る」
画面が戻って、ばあちゃんの顔が映った。
顔の後ろの壁に、シミはなかった。

画面が切れた。

俺は、玄関を見る。
傘立てに、黒い傘があった。
青、白、花柄、黒。
四本。

朝、袋に入ったのを見た。
見たはずだ。
俺は傘立てまで行って、黒い傘の柄を見た。
朝と同じ、細い柄だ。
触らずに、そこに立っていた。

ドアノブが回った。

鍵の音は、しない。
俺は右手でノブを握った。
昨日より冷たい。
ノブが、手の中でじわじわ回る。
力をこめて止めた。

外は、音がしない。
車も通らない。
シャワーの音だけが、家の奥でしている。
俺は、千春姉ちゃんを呼ばなかった。
声を出したら、手の力が抜けそうで。

俺は左手で黒い傘を握っていた。
いつ握ったのか、覚えがない。

ノブが止まった。
三十秒くらい、そのまま。
それから、鍵の音。
ノブが、別の力で回った。
俺は手を離す。

ばあちゃんが入ってきた。
五時四十四分。
五分で帰ると言ってから、六分。
買い物袋がひとつ。

「重かったわ」
ばあちゃんは、俺の左手を見た。
「それ、戻してきたよ」
「ここにあったよ」
「戻してきた。見たでしょ」

俺は答えられなかった。
袋から草だんごの箱が出た。
箱を開けると、二つだった。

「三つ買った」とばあちゃんが言う。
「二つだよ」
「一つは、階段であげた」
「誰に」
「荷物、持ってくれた人」

千春姉ちゃんが風呂から出てきた。
玄関に突っ立っている俺を見て、何してんの、と言う。
俺は傘立てを見た。
三本に戻っていた。
俺の左手は、空だった。

その夜、千春姉ちゃんは本を本棚の奥に入れた。
「友達に返す」
それだけ言って、あとは何も聞いてこなかった。
俺も話さなかった。
翌日、母が迎えに来て、俺は家に帰った。

ばあちゃんは次の年も、その次の年も、地下道を通って草だんごを買ってきた。
転んだことも、迷ったこともない。
箱の中は、いつも三つだった。

俺は今、西新井で働いている。
栗原地下道を、夕方に通ることが多い。
歩道と車道が分かれていて、階段は三つ。
壁は、あの頃より黒い。

入るとき、傘立ての数を思い出す。
階段の下で、足が重くなる。
少し休む。
休むと、誰かに電話をかけたくなる。
母にかける。
「今、地下道。五分で帰る」
母は、ふうん、と言うだけだ。

母はたぶん、俺が何を言っているのか分かっていない。
俺は、言わないと階段を上がれない。

余った方は、階段の下に立てかけていく。
次の日、同じ場所に無いこともある。
三本に増えていることも。

上がる前に、手を見る。
右手に、自分の傘。
今日は、手の中に二本あった。

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